空席通信
2001.11.30 No.99

秋も深まり

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 文化功労者と評価されたマンガ家の横山隆一が鬼籍にはいられた。マンガ家なんて格式張らずに「フクチャン」の横山隆一といったほうがとおりがいいだろう。そう、あのフクチャンが死んだ。
 いささか不謹慎だが、奥さんが亡くなられた時、彼もすぐだな、と思った事を思い出す。近頃の鎌倉の文化人は奥さんに先立たれるともろくなってしまうようだ。こんなことをいうと鎌倉の人たちから抗議の声があがるかもしれない。しかし、三田文学の江頭(江藤淳)の時もそうだった。彼は奥さんの後を追って自裁された!! 
 例によって、横山の追悼文が新聞や雑誌にいくつも書き並べられた。追悼文は、この世から消えてしまった人を思いだして傷み悲しむ文だから、いずれも似たような内容になるのはしかたがないことだろう。そんな中で川崎市市民ミュージアム学芸員の細萱敦の文が目を引いた。彼は横山の作品で印象に残っているのは二点・「科學戰士ニューヨークに登場す」と「天皇御一家歳末風景」だという。前者は戦中の『漫画』(1943年)に発表されたマンガ、後者は戦後の『漫画読本』(1954年)の巻頭を飾ったカラーマンガである。おびただしい作品群の中から敵国アメリカの都市を日本の科学戦士(=ロボット)が破壊しまくるマンガと人間になった天皇と皇族の庶民的生活(?)をオチョクッたマンガを取り上げているところが私の目を引いたのだ。が、このようなテーマでマンガを描くことが横山の「常に庶民感覚を反映した作品を描かずにはおれない性」としている点はにわかに賛成できない評価である。
 横山隆一は時流に媚びる流行家で無責任な表現を何とも思わないマンガ家だった。細萱の文を読んでいない読者やフクチャンに関心のない読者には興味がわかないだろうからこれ以上は言及しない。それにしても横山は大往生だ。
 
 私がテレビ・ドキュメント番組『文化人と戦争』(MBS)の製作に参画したのは、1993年の春だった。番組は1994年の夏に完成した。局の意向は敗戦50年の番組として翌年に放送ということだったが、時流にのった企画と思われるのを嫌った私の希望で、敗戦49年目の放送(8月15日)となった。それで良かった、と今でも思っている。私が生涯かけて考察している課題は時流とは無関係なもので、お祭りムードと一緒にされてはかなわない。
 あの番組で私がインタビューした文化人たちは、横山の死亡を最後に、家永三郎以外は皆さんが他界の人になってしまった。対談に応じてくれなかった黒沢明も丹羽文雄も……。
 横山隆一も超多忙を理由になかなかインタビューに応じてくれず、それを高知市まで追いかけてやっと実現した対談だから、他の文化人との対談より印象が強い。インタビューの内容は『文化人と戦争』を見ていただければ手っ取り早いが東京では放送されなかったから未見の人がかなりいらっしゃる。手元にあるビデオテープをDVDなどに録画しなおしたら、このホームページで見ていただけるかとも思うが、それは現在の私の技量では不可能。一部を文字化したものが朝日新聞社の『Ronza』(1995年)や拙著『ぼくは皇国少年だった』に収録されているから、そちらを見ていただきたい。
 このテレビ番組のメインは住井すゑ(『橋のない川』の作者)との対談場面である。長年かけて蒐集した住井の資料整理を始めたのは1975年ころからだ。その一部は大学のテキスト用として出版した『差別・戦争責任ノート』に収録してある。
 住井すゑも鬼籍の人となった。彼女の虚構を告発したドキュメント番組は、深夜にもかかわらず放送された地区(エリア)ではかなりの反響をよんだ。MBSには「年寄りを捕まえてなにごとか」といったものから「人権侵害問題だ」と息巻く投書まであったそうだ。
 『Ronza』の一文も、それなりに話題になった。朝日の編集部には賛否の(多くは否だったようだ)投書がかなりあったという。中に、住井すゑの実子からのものまであったそうだ。娘が一応は名の知られたジャーナリストで、彼女も母親の虚像宣伝に一役かっているから、家族からの反論があっても別に驚かない。辺見とかいう人物が、これも先日亡くなられた女優の左幸子との対談で、私に、偏見だらけの反論をしていたことを記憶している。
 しかし、反響があった、話題になった、ということは、私の思いがくみ上げられたということと直結しないところがこの国の文化である。
 依然として偽善者の住井すゑは「反権力、反戦に生涯をつくした作家」と評価されている。まさに切歯扼腕の様だが、救いは、私と同じような思いの人が少数でも存在することである。この世は絶望だけではないのである。
 
 天理大学日本語教員養成課程研究室の前田均は、そんな少数派の一人である。
 彼は住井すゑの戦中言動を執拗に追究している。その成果は天理大学の『紀要』や『学報』によって知る事ができる。「資料紹介 住井すゑ著『日本地理学の先駆長久保赤水』戦中版・戦後版の比較」も「天理大学報第198輯」に発表された。
 『日本地理学の先駆長久保赤水』は1943年11月15日に大阪の出版社から発行された住井すゑの著書。探している古書で、私は高萩市の図書館で見たが、戦後版は未見。(戦前版をお持ちの読者がいたら譲ってほしい)。
 戦後版は、1978年12月15日に上下二巻ものとして筑波書林から発行されている。
 前田論文には住井すゑの、注目していい文がある。以下は、前田論文による、その内容の概略紹介である。詳細な内容は、「平成13年10月」に発行されている「天理大学報第198輯」で見てほしい。 
 
 長久保赤水(1717?1801)は茨城県高萩市の赤浜の出身で、1779年に日本国土を経緯度の上で最初に描いた『改正日本輿地路程全図』を上梓した地理学者である。1779年は、あの『解体新書』が刊行された5年後であり、徳川10代将軍・家治時代である。この地図は「赤水地図」として100年間、ベストセラーだった、という。詳細は高萩市生涯学習推進本部・協議会が発行した『生涯学習の先人長久保赤水マンガと写真で一挙紹介』で知ることができる。
 住井すゑの『日本地理学の先駆長久保赤水』は、長久保赤水を農民であり続けながら学問に打ち込み、偉い学者となった人物として描く一方、勤皇の思想の盛んな茨城(住井と同郷)の地を讃え、勤皇思想の理論家である高山彦九郎をはじめとする赤水の友人たちの活躍を、赤水の一生とからめて書く事によって天皇讃美の作品に仕上げてあるもの。
 前田論文は、その全ページにわたって戦前版・戦後版との異同を提示している。その箇所は『学報』の紙巾12ページにわたる! そのすべてを紹介する事はできないから、戦後版では全文削除されたという「あとがき」だけを前田論文から転載する。

 あとがき 常陸の歴史は古い。この古い歴史を一貫して流れるものは勤皇の思想である。殊に大日本史編纂の大事業を発願した義公の大義名分論は、幽谷、東湖によつて一層整備され,幕末勤王家の指導理論となつた。けれども悲運と云はうか、皮肉と云はうか、明治維新に際して水戸は一人の元勲をも出してゐない。勤皇茨城は,まるで虚名のやうでさへある。けれども、考へやうによつては、これはむしろ当然かもしれない。真の勤皇家は名を求めず、功をほこらず、利を求めず、故に事成れば故山にこもり、敢て中央にとゞまらずの風情である。実際幕末鍬をすてゝ皇事につくし、再び鍬をとつて生涯黙々たるものを私は数多この地に見る。かうした人達こそ、真の勤皇家ではあるまいか。長久保赤水も、またこれに似た一人である。常陸の一隅、赤浜に農夫たること六十年、その学徳は遂に藩主の認めるところとなつたとはいへ、禄、僅かに十五人扶持である。しかも日本地理学の先駆たるにも拘らず、その名は伊能忠敬に蔽はれてゐる。私も実は、長久保赤水などまるで知るところがなかったのであるが、水戸の杉田雨人氏により、赤水あるを知り、歓喜と感歎を久しうした。今、これを平易な伝記にまとめ、世に送らうとするのも、決して赤水の世に認められることの薄いのを慨いてのことではなく、私自身の経験した歓喜と感歎をわかち合ひたいといふ、極めて単純な願ひからである。ともあれ、赤水の生涯は、これ、勤皇の生涯である。しかもそれは口に尊皇を唱へるていのものではなく、身をもつて実践し、知をもつて遂行したのだ。即ち、農夫六十年の生活は、そのまま尽忠の生活であり、日本地図、日本地理志の完成は、知をもつてせる報国の生活だ。私はさきに、佐久良東雄を上梓したが、これは東雄が生涯農民の魂を保持したところに共感を抱いたからである。長久保赤水に至つては、生涯かはらざる農民であつたといへる。常陸牛久の里に鍬をとる私は、今後も常陸の農夫──真の勤皇家に筆を染めてゆきたいと思つてゐる。
 昭和十八年十月 任井すゑ子

 前田論文は、あとがきは一般に、著者がその著書に込める思いを表明するものだから、当時の住井の思想がここに現れているといっていいとして、私との対談で「天皇なんて絶対いらない、天皇がいる日本は人間の国ではない」といった住井の発言の不整合を批判している。戦後版で書きかえられているのは多くは天皇に関する表現部分で、年譜も戦前版は皇紀を使用しているそうだ。呆れてものもいえない、とはこういうときに使用する言葉だが、それにしても……。

 最後に、住井に関連する前田論文をいくつか紹介しておこう。いずれも天理大学の年報などに発表されているから、同大学に問い合わせれば入手できるだろう。

住井すゑの戦時下の作品について
住井すゑの戦争責任とその弁護者たち
住井すゑ擁護者たちの自家撞着
住井すゑの歴史偽造 特に中山みきに関して 
住井すゑの『少年倶楽部』に掲載された作品とラジオ放送された作品

二番目の論文は、私の『Ronza』 の論文を批判している高崎隆治の「いま、なぜ住井すゑなのか──『Ronza』 特集記事への疑問」(『週刊金曜日』1995・9・15)を主に批判している内容。私のインタビューを「いじめ以外のなにものでもない」とする高崎の論文には、私も面食らった。彼との関係をよく知っている私の友人たちも不審がっていた。しかし、私はあえて反論しなかった。どうしても入手したいといっていた大木惇夫の『海原にありて歌へり』の現地版や太宰治の序文がある詩集『竹槍部隊』を差し上げた思い出などを大切にしているからだ。
◎今、思い出したが、前田は私が当時最も読まれたはずの『少年倶楽部』に言及していないことを不審がっている(「住井すゑの『少年倶楽部』に掲載された作品とラジオ放送された作品」)。リアルタイムを重視している私としては、当時は、もう『少年倶楽部』など高値の古書でなかなか読めなかったのである。それに、私は原則として手元にある資料のみを利用することにしているから、あることはわかっていても(たとえば今回の『日本地理学の先駆長久保赤水』)入手していないものは取り上げないのである。いいわけめいたことを書いていたら、『回』の同人だった長野規の訃報がはいった。彼が心血をそそいだ『少年ジャンプ』も不調だと聞いているが、いまは冥福を祈るだけである。周囲から親しかった人たちが消えてゆく年齢になったことは寂しい。
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