空席通信
2002.3.2 No.102

歌と戦争 1


 私が日本に生まれた1930年代ころ、花見や盆踊りで盛んに歌われていたのは西条八十の詞に中山晋平が曲をつけた「東京音頭」や、これも中山晋平作曲の「天竜下れば」であった。流行歌史などをみると、「サーカスの唄」「山の人気者」なども歌われたようだ。
 いつ覚えたのか不明だが、今でもこれらの歌は、楽譜なしでだいたい歌える。生まれてすぐに覚えたわけはない。「だいたい」と断ったのは、楽譜をみると、歌詞が不正確で、中にはとんでもないことになっているものがあるからである。たとえば「サーカスの唄」の一番には「知らぬ他国の花を見た」という部分があるが、私の「サーカスの唄」では、そこが「知らぬ異国で春がくる」になっている。1940年の5月に映画主題歌として発表された「暁に祈る」は一番から六番まであるが、とんでもない歌詞になっている。もっとも、これは後年になって判ったが、作詞者の野村俊夫が何回も推敲して最終的には一番からから四番までの歌詞となったのだそうで、いくつもバリエーションがあるのは当然のことだったようだ。この歌、もともとは陸軍省馬政局が愛馬精神の普及のために作成したもので、それが映画になったのだ。愛馬といえば久保井信夫作詞の「愛馬進軍歌」が有名だが、この歌は『聖戦美談興亜乃光』(1934年11月・省文社)に紹介されている義父がモデルだそうだ。
 記憶している歌詞はいいかげんでも、メロデイは正確である。
 このように歌には不思議な面がいっぱいある。『日本流行歌史』などの本で知ったのだが、それまでは、「サーカスの唄」の作詞者が西条八十で作曲者が古賀政男であることなんて知らないで歌っていた。「並木の路に雨が降る『並木の雨』」、「赤城の子守唄」、「国境の町」、「雨に咲く花」、「野崎小唄」などは、おそらく物心つくころに覚えたのだろう。我が家には蓄音機なるものがあって、これらのレコードもあった。昔、家に住み込んでいた小僧さんから聞いたことだが、わたしは四才の時に「二人は若い」や「忘れちゃいやよ」を歌ったそうだ。小僧さん達の歌っているのを聞いて覚えたのだろう。
 以上に触れた歌は、それほどでないが、わたしの覚えている歌のほとんどは、戦時色の強いものが多い。日本の戦時期に生まれ育ったのだから当然だが、現代のような時代に育っていたら音感も違っていただろうか。これはもう立証できない。
 全詞を覚えている歌のなかには「海ゆかば」のような短い歌詞で一曲のものもあれば、「露営の歌」のような一番から四番までのものもある。「出征兵士を送る歌」は当時、大日本雄弁会講談社と称していた今の講談社が公募した歌で六番まである長い歌詞だが覚えている。この作詞者や作曲者名も後年になって知ったことである。
 いちがいには断定できないが、よく歌われる歌は作詞者や作曲者が誰であるかなど、どうでもいいことではないだろうか。
「えほん唱歌」とか「文部省唱歌」には作詞者や作曲者の名前がない。「おもちゃのチャチャチャ」が作家・野坂昭如の作詞であること、ボヘミヤ民謡の「ぶんぶんぶん」が詩人・村野四郎の作詞でることを知らないで歌っている人はかなりいるようだ。
 講談社の公募に当選した「出征兵士を送る歌」の作詞者の生田大三郎は駅に日参して出征風景を観察したそうだ。作曲は歌手の林伊佐緒。
 一等当選だけあって、なかなかよくできている。わたしも、育った町内でのたくさんの出征風景を克明に覚えている。配られた日の丸の旗を振って「勝って来るぞと……」歌った。「出征兵士を送る歌」のメロディーが口にうかぶと、決まってそんな風景を思い出す。
 日本にレコード会社が創設されたのは1909年の日米蓄音器商会が嚆矢といわれている。コロンビアレコードの前身である。
 1934年には、次のような会社が設立されていた。

 日本ビクター蓄音器株式会社  1927年創立。
 日本コロムビア蓄音器株式会社  1928年創立。
 日本ポリドール蓄音器株式会社  1929年創立。
 キングレコード部(講談社内)  1920年創立。
 テイチクレコード会社 1934年創立。
 タイヘイレコード会社       1934年創立。

 1920年代の後半にはオデオン、ミリオン、オーゴン、パルロフォンなどの会社も設立されたが短命の会社だった。コロンビアには日本蓄音器商会が存立していて、大衆盤のオリエント、ヒコーキ、リーガルなどを発売していた(『日本流行歌史』1974年・社会思想社))。

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 これらのレコード会社が、つぎつぎと新曲を発表して、レコード歌謡を興隆した。それに拍車をかけたのが官選・公選の歌であった。「出征兵士を送る歌」は講談社の公募した歌であることは、すでにのべたが、官庁や新聞社も盛んに歌謡公募を企画した。日中戦争や大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)の時代が歌謡公募の最盛期だった。歌謡界に官庁や新聞社が乗り込んできたのは、その頃から普及し出したレコードとラジオが関与している。これらのメデイアの出現によって歌謡の社会的な影響力は街頭での演歌を遙かにしのぐものであった。  その頃放送された歌謡は『放送軍歌』(日本放送協会刊行)などによって知ることができる。この放送軍歌、今ではすっかり忘れられているが、見落とせないものが、いくつもある。たとえば、第三輯『放送軍歌』(1938年2月)には10曲の軍歌が収録されているが、その中の「提灯行列」は森田たま、「白茆口敵前上陸戦」は福士幸次郎、「慰問袋」は圓地文子、「鬼部隊長と伝令兵」は菊田一夫の作詞である。圓地文子は「坊やの知らぬ父さんは海山遠い大陸の荒野雄叫び風狂う銃火の中を勇ましく御国のために征く勇士」などと歌っている。
 歌謡の興隆にとどめを刺したのは映画の出現であった。いわゆる映画主題歌の出現である。松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」は歌手の霧島昇とミス・コロムビアこと松原操を国民的スターにした。
 戦時期の歌謡界には官庁や新聞社などマスコミが募集した歌謡とプロの作詞者と作曲家によって作られた流行歌があり、その流行歌で戦時色の強いものを軍国歌謡、前者を軍歌と呼んで区別した。
 公募歌謡(軍歌)の頂点は1937年12月26日、日比谷公会堂から全国放送された「愛国行進曲」である。この年の9月、国民精神総動員実施要項が発表され、内閣情報部(後の情報局)は、その運動推進のために国体意識と国民の戦争志気昂揚を目指して愛国歌を募集したのであった。その一等当選歌が森川幸雄作詞の「愛国行進曲」である(「軍艦マーチ」の瀬戸口藤吉作曲)。
「見よ東海の空明けて……」と始まる同曲はレコード各社の競作で100万枚を越える売れ行きだった、といわれている。作詞者の青年(23才)は、その賞金で新宿駅西口の近くの地所を購入した。この情報は青年の親戚から敗戦後に聞いた。
 ここで1937年以後、官庁やいろいろな協会・新聞社が公募した歌謡を列記しよう。

1937年以後の公募歌(題名・主催・作詞者・作曲者の順)
航空愛国の歌  帝国飛行協会 沢登静夫 山田耕筰。
露営の歌 東京日々、大阪毎日 藪内喜一郎 古関裕而。
進軍の歌 東京日々、大阪毎日 本多信寿 陸軍戸山学校軍楽隊。
愛国行進曲 略
皇軍大捷の歌 東京朝日、大阪朝日 福田米三郎 堀内敬三。
少国民愛国歌 大毎、東日 星野尚夫 橋本国彦。
みくにの子供  同    大島繁雄 中山晋平。
日の丸行進曲  同    有本憲次 細川武夫。
婦人愛国の歌 主婦之友  上条操 瀬戸口藤吉。
婦人愛国の歌  同    仁科春子 古関裕而。
大陸行進曲  大毎、東日 鳥越強 中支派遣軍陸軍軍楽隊。
父よあなたは強かった 朝日 福田節 明本京静。
仰げ軍功   朝日   得丸一郎 竹岡信幸。
兵隊さんよありがとう 朝日 橋本善三郎 佐々木すぐる。
愛馬進軍歌 陸軍省 久保井信夫 新城正一。
愛馬行   同  佐藤長助 佐藤長助。
資料2
海の勇者  東日、大毎 天口龍 飯田信夫。
戦時市民の歌 大阪市 中川二郎 古関裕而。
太平洋行進曲 海軍省、東日、大毎 横山正徳 布施元。
出征兵士を送る歌  略。
空の勇士 読売 大槻一郎 蔵野今春。
(1939年まで。以下次号)
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