空席通信
2002.3.31 No.103

歌と戦争 2


 歌の題名ばかり列記してもつまらないだろう。そこで1938年から39年までの主な出来事を、歌を中心にして回帰しよう。周知のように大日本帝国は前年の7月7日に支那事変と呼称した中国への侵略戦争を始めていた。
 1938年1月1日。東京は小雨の元日を迎えた。日比谷の歓楽街では古川ロッパ一座の「大久保彦左衛門」が上演される有楽座とアメリカ映画「オーケストラの少女」を上映する日比谷映画館が天候に関係なく満員の盛況であった。
 政府は「新年奉祝時間」を制定して、元日の午前10時に
全国民が宮城(皇居)を一斉に遙拝する、といった厳粛に滑稽な事を決定していた。そして10時、全国のあちこちの市町村が一斉にサイレンを鳴らして宮城遙拝を実施した。
 「上海だより」(佐藤惣之助作詞・三界稔作曲。以下同)、「愛国行進曲」(略)、「麦と兵隊」(藤田まさと・大村能章)などの歌謡に混じって淡谷のり子の歌う「雨のブルース」(野川香文・服部良一)、楠木繁夫の「人生劇場」(佐藤惣之助・古賀政男)、塩まさるの「母子船頭唄」(佐藤惣之助・細川潤一)、「旅の夜風」(略)、渡辺はま子の「支那の夜」(西条八十・竹岡信幸)、服部富子の「満州娘」(石松秋二・鈴木哲夫)などが流行した。淡谷のり子がブルースの女王と騒がれ、娼婦の唄として内務省から発禁処分を受けた「忘れちゃいやよ」(最上洋・細田義勝)の歌手渡辺はま子も「支那の夜」(当局は退廃的な唄と宣伝を規制したが)で復権した。
 両親が聴いていたのを目撃したことはなかったが、「母子船頭唄」のレコードが我が家にあった。レコードに添えられているパンフレット(正式になんと呼ぶのか知らない)は青色のインキで印刷されていて、画家の名前は不明だが、感傷的な挿絵を覚えている。歌詞は四番まであって、今でも歌える。この唄も当局からは惰弱なものとしてにらまれたそうだ。しかし流行した。
 この年は正月気分をにぎわすような事件が3日に発生した。「赤い愛の逃避行」などといわれた人気女優岡田嘉子と演出家杉本良吉が樺太の国境線を越えてソ連に亡命したのである。亡命した杉本良吉はスパイ容疑で拷問・銃殺され、岡田嘉子は生きながらえて1972年に一時帰国したことは周知のことだろう。

愛国行進曲(クリックで拡大)
 2月には灰田勝彦の「かちどきの歌」(大岡博・佐々木俊一)や東海林太郎の「忠治子守歌」(野村俊夫・服部逸郎)がビクターやポリドールから発売されたが、「愛国行進曲」のヒットに隠されてしまった。
「著作権法」によれば、「引用の目的上正当なもので公正な慣行に合致するもの」なら引用を認められている。そこで、題名や作詞者・作曲者名ばかりの記述では公正を欠くから上記した歌謡の中からヒットしたものの歌い出しの詞を引用しておく。おそらく歌詞によって忘れていたメロディーが浮かぶだろう。逆に、歌詞から題名が浮かぶかもしれない。引用しないが「かちどきの歌」の大岡博は大岡信の父親の参戦歌である。

上海便り  拝啓ご無沙汰しましたが僕もますます元気です……
愛国行進曲 見よ東海の空明けて旭日高く輝けば……
麦と兵隊  徐州徐州と人馬は進む徐州居よいか住み良いか……
雨のブルース 雨よ降れ降れ……
人生劇場  やると思えばどこまでやるさ……
母子船頭唄 利根のお月さん空の上 僕とかあさん水の上漕いで……
旅の夜風  花も嵐も踏み越えて……
支那の夜  支那の夜支那の夜よ港の灯り……
満州娘  渡し16 満州娘春よ三月……
忘れちゃいやよ 月が鏡であったなら恋しあなたの……

 春になって愛唱されたのは「日の丸行進曲」と「愛国の花」(福田正夫・古関裕而)だった。「母の背中にちさい手で 振ったあの日の日の丸の 遠いほのかな思い出が……」と歌詞を読めば、「少国民世代」は自然にメロディーが浮かんでくるだろう。
「真白き富士のけだかさを……」の「愛国の花」はNHKの国民歌謡として放送された。敗戦後のテレビ懐メロ番組で老いた渡辺はま子が何を考えてのことか知らないがこれを歌ったのを聴いた。歌詞はともかくとして旋律が好まれるからだろうか(四番の歌詞は「御稜威のしるし菊の花ゆたかに香る日の本の女といえど生命がけ……」)。ここにも歌の摩訶不思議がある。この歌はNHKの国民歌謡としてよりも従軍看護婦の松竹映画主題歌として知っている人のほうが多いだろう。渡辺はま子は1952年には戦犯受刑者の「ああモンテンルパの夜は更けて」(代田銀太郎・伊藤正康)を歌って多くの日本人の涙をしぼった。歌には全く不思議な面があるが、「忘れちゃいやよ……」と歌ったり「落ちたといえば それと駆る バケツ火たたき濡れむしろ 意気で消せ消せ燃え立つ焼夷弾……」(「花の隣組」(西条八十・服部良一)とか「誉れの父にまた兄に負けぬ決意の武者ぶるい翼に誓った必勝の明日はロンドン ワシントン それ飛べ続け あの空へ」(「海の荒鷲」(高橋掬太郎・佐々木すぐる。この歌は海軍航空本部の推薦歌)などと歌う歌手渡辺はま子は歌の上手なロボットにすぎないのだろうか。「君のため国のため吾が命捧げて微笑みて働くは限りなき名誉……」(「断じて勝つぞ」サトウハチロー・古関裕而)と歌った歌手藤山一郎は、平和への深い祈りの歌といわれている「長崎の鐘」(サトウハチロー・古関裕而)を「こよなく晴れた青空を悲しと思う……」と歌っている。
 歌手の哲学についてを、もっと問題にしなければ、日本の歌手はクラシック歌手も流行歌手も職人にすぎず、芸術家とはほど遠い存在である。 
 
 チャップリンの「モダン・タイムス」が上映されたのがこの年の二月であり、「フクチャン部隊」「思いつき夫人」(拙著『戦争とマンガ』参照)の新聞連載もこの頃である。
 4月1日から「国家総動員法」が公布された。そして「満蒙開拓青少年義勇軍」第一次先遣隊の5000人が渡満した。悲惨な現実が凶暴な口を開いて待っているのも知らずに……(拙著『満蒙開拓青少年義勇軍』参照)。

愛染かつら(クリックで拡大)
 日本の上空に敵機が襲来したのは1942年4月18日を嚆矢とする、という話が定着しているが、この年の5月20日に中国機が熊本県と宮崎県の上空に襲来している。この敵機は爆弾を落とさずにビラを撒いただけだったから、すっかり忘れられている。木炭で走る自動車が考案されたり、文化人の「ペン部隊」(拙著『文化人達の大東亜戦争』『日本文学報国会』参照)が出現した年であったが、最大の出来事は火野葦平『麦と兵隊』(9月)の刊行と映画「愛染かつら」(9月)の上映であった。
『麦と兵隊』はあっという間に450版になり、「愛染かつら」は延べ1000万人を動員した。どちらにも主題歌があり愛唱された。「麦と兵隊」は大村能章の傑作といわれている。石原裕次郎が歌っているのを聴いた記憶がある。「旅の夜風」「悲しき子守唄」(西条八十・竹岡潤一)を歌った霧島と松原は結婚した。惰弱な歌だが、啼いているのが人間でなく鳥だから、発禁にしなくてもいいだろう、と当局の検閲官がいったそうだが、笑い話でもないようだ。「花も嵐も踏み越えて行くが男の生きる道 泣いてくれるなほろほろ鳥よ月の比叡をひとり行く」が一番の歌詞だが、確かに泣いているのは鳥である。
 39年は平沼新内閣の成立と大相撲春場所で69連勝の横綱双葉山が破れる、といったスポーツニュースで明けた。
 そして朝日新聞社選定の「父よあなたは強かった」が二月に発売されヒットする。
 この年はあいつぐ公募歌のヒットに隠れてしまったが「上野駅から九段まで……」の「九段の母」(石松秋二・能代八郎)、「清水港の名物は……」の「旅姿三人男」(宮本旅人・鈴木哲夫)、「森の青葉の蔭に来て……」と歌う高峯三枝子の「純情二重奏」(西条八十・万城目正)、「赤い花なら曼珠沙華……」の「長崎物語」(梅木三郎・佐々木俊一)、日本女子大出身の才媛歌手由利あけみの「熱海ブルース」(佐伯孝夫・吉田信)、ごぞんじ平手造酒の「大利根月夜」(藤田まこと・長津義司)などが歌われ、「九段の母」以外は戦時色がうすい歌だった。「大利根月夜」は現在も田端義夫の18 番、イヤ17番かな? ジャン・ギャバンの「望郷」が上映されたのもこの年のことだった。文化人達の戦争犯罪「文藝興亜会懇談会」が二月に満鉄ビルで開催されたが、もう忘れられている。未完の自著「少年産業戦士」が注目されだしたのもこの頃のことであり、「零戦」や「映画法」の出現もこの頃のことだ。(「映画法」については拙著『大東亜戦争と日本映画』を参照)。
 今でも体調不良の時に寝言でいう『青少年学徒ニ賜ハリタル勅語』は5月22日に下賜された。
「大利根月夜」がヒットしたのは発売された11月からだが、
総じてこの年は公募歌が旺盛であった。
 さていわゆる「紀元2600年」の1940年が来る。
(以下次号)
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