空席通信
2002.5.31 No.105

歌と戦争 4


 1941年11月頃までの公募歌を、手持ちの資料を整理して列記した。漏れているものがあるかと思う。気づいた点はご教示ください。
 さて、オペラ歌手の関屋敏子が自殺したのはこの年の11月23日のことだった。自作オペラの作曲が進まず悩んでのことらしい。37才だった。彼女のレコードが我が家にあって、題名は思い出せないが「夕べ遙かに胸に聞けば心は帰る遠き昔 アー 歌えよ君よ……」といった部分の彼女の声と旋律をおぼえている。どういう歌い出しで、どう終わったのかはおぼろ。子どもの頃の記憶は夢のようでもある。
 それでまた一つ思い出したが、これまでのべてきた戦争にまつわる歌謡曲は、大人を対象にしたものばかりではなかった。子どもも視野にいれられていたのである。たとえば、当時、月二回のぺースで発行されていた「講談社の絵本」に『日の丸バンザイ』(1942年)がある。「ニッポンヨイクニツヨイクニカガヤクヒノマルフジノヤマ」ではじまる64ページの絵本だが、そこに「軍歌と愛国歌」のページがある。楽譜は添えられていないが、「海ゆかば」「愛国行進曲」「軍艦行進曲」「進め一億火の玉だ」「荒鷲の歌」「アジヤの力」「太平洋行進曲」「国民進軍歌」「空襲なんぞ恐るべき」の九曲が井上たけし、金子茂二の絵とともに「カタカナ」歌詞で収録されている。リズムは大人たちから(世間から)くどいほど脳裏に焼き付けられているから、むずかしい歌詞をカタカナで読み、歌えることは、うれしかったものである。



 子ども向けの歌謡集では、北原白秋が実弟と創立した出版社アルスで発行した『日本愛国唱歌集』(1940年)が白眉だろう。東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の教授だった小松耕輔が編集したもので、「君が代」を筆頭に61曲が収録されている。「勇ましい皇国日本の軍歌全集です。国歌『君が代』を初めとし、『陸海軍の歌』『戦友』、今度の事変で新しく出来た『愛国行進曲』『愛馬進軍歌』『太平洋行進曲』『日の丸行進曲』さては『父よあなたは強かった』等々、何でも此の一冊の曲譜集に収められています」とは、当時の広告のキャプションである。
 そんなことはともかくとして、1941年11月26日(ワシントン時間午後五時)、アメリカのハル国務長官が「ハル・ノート」といわれている日米交渉打ち切りの最後通告を野村駐米大使に手渡した。開戦回避のための九ヶ月にわたる日米交渉は決裂、アメリカとの戦争を予期しハワイ作戦をたてて密かに択捉島の湾に集結していた日本機動部隊はハワイに向かって出港した。
 12月1日、御前会議は米英蘭に対して開戦を決議した。翌2日に奇襲攻撃日を12月8日と決定し「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電報が発信された。
暗号電報を受信した日本軍は、12月8日の午前2時15分、英領マレー半島のコタバルに敵前上陸、1時間後の午前3時19分、ハワイの真珠湾に空襲を敢行した。アジア・太平洋戦争が始まったのである。詳細は拙著『戦争はラジオにのって』(1985年)を参照されたい。
 12月8日の午後8時20分、ラジオがニュース歌謡と称して「宣戦布告」(野村俊夫・古関裕而)、「太平洋の凱歌」(日本詩曲連盟・伊藤昇)を放送した。歌手は伊藤文男と霧島昇。開戦の時流に便乗した即製の歌謡曲だったが、国民の戦意をおおいに煽ったのである。「宣戦布告」の野村俊夫は「湯の町エレジー」(作曲・古賀政男)「ハバロフスク小唄」(作曲・米山正夫)「東京だよおっ母さん」(作曲・船村徹)などで戦後を、この世の春と謳歌した作詞者だ。放送局は、刻々と伝えられる戦勝のニュースを即座に国民に知らせるだけでなく、戦意を鼓舞しようと、スタジオに作詞家・作曲家を待機させて対応したのであった。
 宣戦布告
敵は米英 宣戦の 大君の詔勅 今下る 五千浬の太平洋 我等制さむ大進軍……といった歌詞が一番で五番まである。
「太平洋の凱歌」の一番は次のような歌詞だ。
 太平洋の凱歌
さかまく怒濤 颶風を衝いて 見よ見よ進む この電撃は アジヤがアジヤをうち建てる 太平洋の朝焼けだ 屠れ砕け米英を われらが敵を打ち砕け
 『放送』(1942年1月号・日本放送出版協会発行)の「放送局だより」には、次のような記事がある。
 米英と戦端を開くや銃後国民の士気は一段とたかまり、街に村にラジオに和して元気な歌声がわいており、どしどし勇壮かつ雄大な音楽を放送してくれという投書が山積いたしました。これにこたえるため協会では楽壇を総動員して豪快活発な日本的管弦楽曲を多量に作って戦時下の音楽放送を一層充実させることになりました。まず決戦下新年を豪壮に彩る序曲を山田耕筰、信時潔、飯田信夫の三氏に委嘱、その他絶えず国民の士気を鼓舞するような行進曲を堀内敬三他三十氏にそれぞれ作曲をお願いすることになりました。また大東亜戦争の必勝を誓う国民歌を二十名の作詞、作曲家に委嘱製作し不断に電波にのせて国民の士気を鼓舞することになりました。

 澎湃として湧き上がった芸能界の愛国的情熱はここに戦時放送への積極的協力となって現れ、まずわが楽壇の耆宿山田耕筰氏は自発的にニュース放送のシグナル音楽を作曲提供されましたが、つづいて大日本ハーモニカ連盟その他音楽団体及び作詞の島田磬也,勝承夫、野村俊夫、高橋掬太郎、作曲の古関裕而、山田榮一等あるいは歌手の藤山一郎、奥田良三氏の諸氏より銃後の士気を音楽によって鼓舞せんとする犠牲的労作や出演を申し出て局内に待機するなど、楽壇あげて戦時放送への重大関心を示しました。また演芸方面でも秩父重剛氏等によって戦時に即応した浪曲の新作を寄せられ、その他文壇劇壇が挙って戦時放送への積極的協力を申し出られました。
 戦時下での戦争協力は、がんじがらめの統制下で否応なく強制されたことで……、といった弁明をきく。実体は、われもわれもの翼賛態勢だったことがこの記事からもうかがえよう。
 ラジオ(東京中央放送局)は、ニュース歌謡を翌日も続々と放送した。それらを列記しよう。歌詞が判明しているものは一番だけを記録する。

 泰国進駐(野村俊夫・山田榮一)
 皇軍の戦果輝く(野村俊夫・古関裕而)
握る拳が感激に 燃えてふるえた大号令 臨時ニュースを聴いたとき胸が血潮がたぎったぞ
 イギリス極東艦隊壊滅(高橋掬太郎・古関裕而)*東洋艦隊潰滅の表記もある
滅びたり滅びたり 敵東洋艦隊は マレー半島グワンタン沖に いまぞ沈みゆきぬ 勲し赫たり 海の荒鷲よ 見よや 見よや 沈むプリンスオブウェールス
 長崎丸の凱歌(島田磬也・細川潤一)
 フィリッピンの進撃(勝承夫・山田榮一)
 東京・ベルリン・ローマ(勝承夫・山田榮一)
 世紀の決戦(野村俊夫・古関裕而)
届け銃後のこの感謝(勝承夫・飯田信夫)
勝った勝ったと感激の 胸を躍らす朝の窓 遙かな空を眺めては いつも捧げる この感謝
 進撃の歌(佐藤一英・飯田信夫)
理想を高く呼ぼうとも 牙と爪とはかくされず 守るとあらば守れかしほごに等しき 旧秩序

 これらのニュース歌謡は、相次ぐ緒戦の戦果ニュースが一段落すると共に、詩人たちの「愛国詩」放送と交替する。そして公募歌もこの頃に絶頂期を迎えるのである。発行部数拡大のチャンス到来と新聞社が、うまい汁にありつこうと政府御用団体が、競って狂奔したのだ。
 1941年12月8、9日の両日は、ラジオ番組から敵性音楽が消えてしまった。洋楽が追放され邦人の楽曲だけが放送されたのである。ラジオ放送の歴史上、これは空前絶後の出来事である。当時の資料で、この両日に放送された音楽(9日は行進曲だけ)を記録しているめずらしいものがある。これだけの曲目で二日間をまかなったのだ。次に引用しよう。まず8日の放送である。
  1941年12月8日に放送された音楽
行進曲 皇軍の精華 陸軍軍楽隊作曲。空軍の威力 海軍軍楽隊作曲。大艦隊の行進 江口夜詩作曲。暁の進軍 同然。愛国行進曲。皇軍の意気 服部逸郎作曲。アジヤの力。敵性撃滅 土岐善麿作詞・伊藤昇作曲。軍艦行進曲。海ゆかば。遂げよ聖戦 柴野為亥知作詞・長津義司作曲。護れわが空 佐藤惣之助作詞・内田元作曲。太平洋行進曲。国に誓う。分列行進曲。連合艦隊 山田耕筰作曲。宣戦布告 野村俊夫作詞・開拓局作曲。
軍歌 勇敢なる日本兵 瀬戸口藤吉作曲。世紀の進軍 海軍軍楽隊作曲。海洋航空の歌 同前。海の進軍 同前。護れ海原 同前。
  同年12月9日に放送された音楽
行進曲 帝都の守り 海軍軍楽隊作曲。太平洋行進曲。そうだその意気 古賀政男作曲。南進男児の歌 古関裕而。海軍軍歌集 井伊嬌編曲。荒鷲の歌。  東辰三作曲。海の護り 井伊嬌編曲。国民進軍歌。敵性撃滅。敵は幾万。勇敢なる水兵。橘中佐。広瀬中佐。アジヤの力。朝だ元気で。皇軍の戦果輝く 野村俊夫作詞・古関裕而作曲。泰国進駐 島田馨也作詞・山田守一作曲。
 (『音楽之友』1942年6月号・加田愛咲「劈頭半年のこと・戦時下の音楽放送雑感」)。
 この「劈頭半年のこと・戦時下の音楽放送雑感」は連載ものだが、未完のまま消えてしまう。恐らく編集の都合だろう。筆者の加田愛咲がどのような人物かは不明。同資料は1942年1月1日から4月27日放送分までの、新しく作曲された戦争曲を記録してもいる。それも引用しておこう。
  1942年1月1日から4月27日までに放送された新曲名(曲名・作曲者)
東亜の暁雲 清水脩。我等の日章旗 高木東六。青年日本 秋吉元作。波濤万里 安倍盛。輝く翼 乗松昭松。明けゆく亜細亜 呉泰次郎。南進日本 平井保喜。堂々たる進軍 高階哲夫。征け太平洋 江口夜詩。堂々たる皇軍に寄す 大中寅二。風翼万里 深見善次。かちどき 長谷川良夫。東亜の黎明 池譲作。南進 尾高尚忠。闘志 市川都志春。戦勝 宮原禎次。紀元二千六百一年 齊藤秀雄。東亜の凱歌 細川碧。みいくさ 平尾貴四男。輝しき日 諸井三郎。勝鬨の歌 大木正夫。堂々たる進軍 深井史郎。前進 小船幸次郎。南国進軍 堀内敬三。防人 坂本良隆。正義の鋒先 石井五郎。戦友 清瀬保二。
 「あゝ日本の軍歌」じゃないが、まさに錚々たる陣容である。当時の堀内敬三は、編集、印刷を一手に引き受けて『音楽之友』を発行していたが、そこでいち早く敵性音楽の追放を叫んだ。たとえば同誌1942年5月号で、次のような文を発表している。

 ……軽音楽の改造運動を演奏家協会が主になってやっている。米英系の音楽を閉め出し枢軸友邦の音楽や日本の新作曲や民謡などを以て置き換えるということは決して不可能でもなく無理でもないのだが、今までジャズ音楽に親しみすぎた結果なかなか方向を変えにくいのであろう。それにも一応同情するけれど、敵国の音楽に少しでもかぶれているというのは絶対にいけないのだ。もし此の転向のできない人は音楽をやめて貰うよりほかはない。世間は敵国の音楽に対して寛容であるが、それは音楽についての知識が乏しいからだ。フォスターもスーザーもどこの作曲家だか知らないし、ジャズとはどんなものかさえも余りはっきりわからないからだ。しかし音楽家がそれと知りながら敵国の音楽を演奏したり敵国音楽の頽廃的な面を真似たりするのは許されない。日本は米英を地上から覆滅すべく戦っている。米英は根こそぎ叩き潰すのだ……。
 また彼には「決戦下の国民が日常口にする諸種の軍歌について明確なる知識を提供し、以て優秀なる軍歌の保存・普及に資し且つ将来の軍歌創作者に正しき指針を与うることを主目的とし、軍歌の歌詞に現れた壮烈の事績を解説して国民の勇猛心を振起することを副目的」として執筆した『日本の軍歌』(1944年)がある。同書の「大東亜戦争緒戦期の軍歌」から抄出しよう。
 大東亜戦争はじまってすぐ東京日日新聞・大阪毎日新聞は「大東亜決戦の歌」の歌詞を公募し、「起つや忽ち撃滅の勝ち鬨挙がる太平洋、東亜侵略百年の野望をここに覆す、いま決戦の時至る」の歌詞を当選作として海軍軍楽隊の作曲を委嘱し、昭和十六年の年末これを発表した。開戦の日「進め一億火の玉だ」が発表されたが、それは一般国民の士気を昂揚する歌であるから特に軍歌とも見なせないので別とすれば、此の「大東亜決戦の歌」は大東亜戦争最初の軍歌とも言える。そうして此の歌の歌曲の豪快な味は全く敵を圧する雄渾な魂の流露である。開戦劈頭に於ける皇軍の大戦果は最初の軍歌に斯かる良きものを生み出した。すでに大東亜戦争開始の一年ほど前に出た「月月火水木金金」の歌は戦争が開始されてから毎日放送されて急に有名になった……体験から出た爽快な詞曲が海軍の大戦果に驚嘆する全国民に新しく強い印象を与えたのである。
「大東亜戦争陸軍の歌」と「大東亜戦争海軍の歌」は朝日新聞社から軍へ献納された。歌詞は陸海軍の偉功をたたえる国民の感情をあらわしているが軍人の歌唱に適するものである。「特別攻撃隊」は昭和17年4月読売新聞が歌詞を公募選定したもので、荘厳なる曲調はむしろ頌歌という感じであるが、内容とよく合っている。また読売新聞では17年3月「十億の進軍」を出しているが、これも豪快な軍歌である。また同社が北原白秋に作詞を、海軍軍楽隊に作曲を委嘱した「ハワイ大海戦」も明朗快活なものである。大東亜戦争は正に「夜の明けた感じ」を総ての日本人に与えた……他に数十の軍歌が出ているが其の中の異彩として「マライ攻略戦」を挙げることが出来る。また北原白秋の作った最後の軍歌らしい「還らぬ偵察機」(嵐かがやく珊瑚海、浩蕩たりや幾千里、雲より出でて雲に入る我は一羽の偵察機……・六番まであり、1943年2月にビクターからレコードが発売されている・海軍軍楽隊作曲)は優れた歌詞と優れた曲を持つもので後代に伝えて恥ずかしからぬ傑作と思う。昭和18年5月には、「海軍航空の歌」が海軍省外郭団体くろがね会の手に依って作詞され、海軍軍楽隊の作曲が付けられて永く海軍航空部隊の将士によって歌われることになった……すべてこういう軍歌の中には純粋な熱情が見られ、詞句の扱い方もよく磨かれていて、過去の軍歌よりも概して立ち優って見えるが、一般に大東亜戦争の軍歌は、これまで巧緻から巧緻へと進んできた大衆歌曲の常道を振り捨てて、強力な直截な、そうして剛健な方向へ転じている。


 堀内敬三には同じような文「米英の楽曲を完全に潰そう」(「音楽文化新聞」38号)があるが、ここには冒頭部分のスキャナーを転載しよう。

 

 




 さて公募歌にもどろう。
  1941年10月頃からの公募歌
空襲なんぞ恐るべき 毎日・防衛司令部 難波三十四 飯田信夫。
産報青年隊歌 大日本産業報国会 藤沢克己 山田榮一。
進め一億火の玉だ 大政翼賛会 大政翼賛会作詞作曲。
アジアの力 大政翼賛会・大日本興亜同盟・日本放送協会。
大東亜決戦の歌 毎日 伊藤豊太 海軍軍楽隊。
屠れ! 米英我等の敵だ 大政翼賛会 清水みのる 利根一郎。
ハワイ大海戦 読売 北原白秋 海軍軍楽隊。
マレー沖の凱歌 読売 西条八十 海軍軍楽隊。
大日本青少年団歌 大日本青少年団 市瀬正生 富原薫。
大東亜戦争陸軍の歌 朝日 佐藤惣之助 古関裕而。
決意一番 雑誌『青年』 本間一咲 中山晋平。
十億の進軍 読売 時雨音羽 林伊佐緒。

 この「十億の進軍」のレコードが発売されたのは1942年の4月。その頃、後に愛唱され流行する「空の神兵」(梅木三郎・高木東六)も発売された。鳴海信輔と四家文子が「藍より蒼き大空に大空に忽ち開く百千の……」と絶唱したのである。不健康な歌謡歌手だと放送局から干されてくさっていた灰田勝彦もこれを歌っている。彼は東宝映画「燃ゆる大空」に出演したり、国民演劇「木蘭従軍」に出演して当局に媚びていた。私が蒐集した音楽関係の資料の中には、この四家文子所蔵印のものがかなりあり、それらの楽譜には彼女の筆跡と思われる歌唱の際のメモなどが記録されているが「空の神兵」には書き込みがない。「東京府東京八王子第四尋常小学校」の蔵書印がある『日本国民歌』と同じもので四家文子所蔵印のあるほうには(二冊所蔵しているわけだが)かなりの書き込みがある。「大陸……」には「儀式風」、「農民の……」には「くちずさむ、斉唱、独唱、4/4のつもり」、「国土」には「祈祷歌風」などと書いてある。
「空の神兵」は「落下傘部隊に捧ぐ」の傍題があって、1942年1月の海軍落下傘部隊によるセレベス島メナド攻撃と同年2月の陸軍落下傘部隊によるスマトラのパレンバン攻撃を歌ったもの。当時は、しょせん流行歌ではないかと、いわゆる音楽評論家からは話題にされなかったが、現在では「歌詞は簡明・直截でかつ美しく、曲がまた飛び抜けて素晴らしい。単純に見える歌詞の行間にひらめく歌意の高ぶりをみごとにキャッチし、それ以上に歌の想念を盛り上げて引きずってゆくが如き清潔な高い律調、さすがは芸術派の優れた作曲家の手腕と敬服できる曲である。まさしく空に咲き開く白いバラの大群の美しさ、勇壮さを、音に描いた名曲」(横沢千秋『日本流行歌史』)と評価されている。「空の神兵」は映画法の施行で「国民精神の涵養または国民知能の啓発に資する劇映画でない映画」(映画法施行規則35条)といわれ強制上映を義務づけられた「文化映画」の「空の神兵」(1942年)の主題歌でもあった。若者を戦争へと動員することにも大いに役立った歌であるが、そのことは全く不問である。灰田勝彦の戦中にふれたが、ブルースの女王・淡谷のり子も当局に媚びて自費で産業戦士の慰問会を開催したりしていた。みんな日和見歌手である。
 1942年には「明日はお立ちか」(佐伯孝夫・佐々木俊一)、「新雪」(同)、「鈴懸の径」(佐伯孝夫・灰田勝彦)、「婦系図の歌」(佐伯孝夫・清水保雄)などの流行歌があった。「勘太郎月夜唄」(佐伯孝夫・清水保雄)「十三夜」(石松秋二・長津義司)が大ヒットしたのは翌年の正月のことである。
戦い抜こう大東亜戦 大政翼賛会 明本京静。
ハワイ海戦 毎日 佐々木信綱 海軍軍楽隊。
特別攻撃隊 読売 東京音楽学校。
村は土から 農山漁村文化協会 農林省 古関裕而。
大東亜戦争海軍の歌 朝日 東京音楽学校。
みたから音頭 農林省・農山漁村文化協会 服部良一。
マレー攻略戦 毎日 北原白秋 陸軍軍楽隊。
少国民進軍歌 陸軍省・海軍省・軍事保護院 佐々木すぐる。
必勝の貯蓄兵 大日本青少年団 ?。
海行く日本 毎日・海務院 池田誠一郎 細川武夫。
示せ皇国の底力 大日本青少年団 ?。
空の軍神 陸軍航空本部 西条八十 古関裕而。
空征く日本 大日本飛行協会・日本蓄音器レコード協会 野村俊夫 古関裕而。
大日本婦人会会歌 大日本婦人会 大坪豊 橋本国彦。
みくにの汽車 鉄道省・朝日 橋本竹茂 山本芳樹。
海の底さえ汽車はゆく 同 大久保徳二郎。
この決意 大政翼賛会。
みなみのつわもの 南方軍報道部 古関裕而。
索敵行 陸軍航空本部 野村俊夫 万城目正。
大空に祈る 陸軍航空本部 野村俊夫 万城目正。
みたみわれ 大政翼賛会 海犬養岡麿 山本芳樹。
山本元帥 毎日 大木惇夫 海軍軍楽隊。
アッツ島血戦勇士顕彰国民歌 朝日 ? 山田耕筰。
大詔奉戴の歌 大政翼賛会 尾崎喜八 信時潔。
ラバウル海軍航空隊 日本放送協会 佐伯孝夫 古関裕而。
特幹の歌 読売 清水かつら 佐々木俊一。
学徒空の進軍 読売 ?。
日本行軍歌 大日本体育会 時雨音羽 陸軍軍楽隊。
大航空の歌 航空局 西条八十 佐々木俊一。
突撃喇叭鳴り渡る 大政翼賛会 勝承夫 古関裕而。
いさおを胸に サトウハチロー 古賀政男。
カボチャの歌 日本放送協会 サトウハチロー 古賀政男。
月夜船 同 藤浦洸 古賀政男。
船は我が家 日本海運報国団 高田信一。
ああ紅の血は燃ゆる 軍需省 野村俊夫 明本京静。
敵白旗あげるまで 軍事工業新聞社 古賀政男。
サイパン殉国の歌 日本放送協会 大木惇夫 山田耕筰。
神風節 日本音楽文化協会・日本音盤協会。
お国のために 日本少国民文化協会 サトウハチロー 弘田竜太郎。
台湾沖の凱歌 日本放送協会 サトウハチロー 古関裕而。
お山の杉の子 日本少国民文化協会 吉田テフ子 佐々木すぐる。

 敗戦までの、判明した公募歌を列記した。これらの他に、推薦歌といったものがある。広義にはこれらも公募歌と考えていいだろう。1943年6月にビクターからレコードが発売された「まだまだ出来る」(東辰三作詞・作曲)や「僕等の戦友」(勝承夫・清水修)は大日本産業報国会の推薦歌として歌われた。「予科練のうた」として愛唱された「若鷲の歌」(西条八十・古関裕而)や「決戦の大空」(同)は東宝映画「決戦の大空へ」の主題歌で海軍省の推薦歌。推薦歌ではないが戦争末期には「轟沈」(米山忠夫・江口夜詩)、「同期の櫻」(?)、「勝利の日まで」(サトウハチロー・古賀政男)、「加藤隼戦闘隊」(丸田文雄・森屋五郎)、「斬込隊の歌」(勝承夫・古関裕而)などが歌われた。「斬込隊の歌」 は「特別攻撃隊」と別名があるが、この名ではあまり呼ばれなかった。「国民合唱」で「……今宵でてゆく切り込み隊」のフレーズは忘れられない。。「国民合唱」については拙著『少国民は忘れない』でふれているから、そちらを参照してと、前記した。 
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