空席通信
2002.7.26 No.107

歌と戦争 6

 1943年1月3日、東宝映画「伊那の勘太郎」(滝沢英輔監督)が封切られた。ご存じの男一匹・伊那の勘太郎(長谷川一夫)が勤皇の志士等と組んで悪を懲らしめるといった荒唐無稽なストーリーである。しかし、江口夜詩の門下生だった新人小畑実(1923〜79)の歌う主題歌「勘太郎月夜唄」(佐伯孝夫・清水保雄)「♪影かやなぎか勘太郎さんか伊那は七谷……」は大ヒットした。そして決戦体制下にふさわしくない唄だと当局や似非文化人の顰蹙をかった。もともと勘太郎は架空の男なのに満蒙義勇軍の取材で伊那へ出向いたら勘太郎歌碑があってびっくりした。稲垣組の映画製作スタッフが監督を「いなかん」と呼び、それをもじってのネーミングだ。小畑実とデュエットした藤原亮子(1917〜1974・1番を藤原、2番を小畑、3番は合唱)は「婦系図の歌」(佐伯孝夫・清水保雄・後に「湯島の白梅」と改題)も彼と組んで歌った。この「♪湯島通れば思い出す……」の歌もヒットした。彼女は当時ビクターのベテラン歌手だが、東洋音楽学校の出身で、敗戦後に竹山逸郎と組んでもう一回「勘太郎月夜唄」をレコード化している。
「月月火水木金金」や「轟沈」の作曲者の江口は海軍軍楽隊出身、東京音楽学校の聴講生であり、除隊後ポリドールに入社した。彼は小畑のほかに、近江俊郎、津村謙、春日八郎等の歌手を育てている。「月月火水木金金」は発売当初(1940.11)は人気がなかった。レコードはほとんどが返品されたという。しかし、大東亜戦争の勃発でラジオが放送してから俄然ヒットした。この放送には裏話があって、放送局員が他の曲と間違って局に納品されていた試聴盤を放送してしまったのであった。レコード会社はカンカンに怒ったが、それが時流に乗ってヒットしたのだからお笑いである。戦後の大ヒット「憧れのハワイ航路」も彼の作曲である。「勘太郎月夜唄」の小畑実は当時弱冠19才だったが、忽ちスターとなった。彼の本名が康永詰、韓国人であることは余り知られていない。小畑実は戦後「小判鮫の唄」「高原の駅よさようなら」「長崎のザボン売り」などを歌っている。「勘太郎月夜唄」のヒットは戦時下といえども大衆は戦争歌謡にうつつを抜かしていたわけでもなかったことを証明している。「人間の哀感に訴え感傷を誘う歌の本質の魅力というものには人間として背き切れないものがある」(横沢千秋)といわれる所以でもある。
 第一回放送の「国民合唱・此の一戦」は「一億国民が消化できない合唱」(吉本明光「国民皆唱と国民音楽」『音楽之友』1942.6)、「あのスローガンに作曲したことが根本問題として失敗だった」(大島博光・座談会「詩と音楽の交流」『音楽之友』1942・7)と評判悪かったが、「国民合唱」の放送そのものは続けられた。どのようなものがあったかを、日本放送協会が出版した楽譜集『国民合唱』や当時のラジオ番組で見よう。

国民合唱 合唱指導は作曲者や伊藤武雄、沢崎定之、内田栄一、奥田良
     三、弘田龍太郎、藤井典明・大内至子、高木清、朝倉春、四家
     文子など。
 海ゆかば 大伴家持 信時潔
 此の一戦 大政翼賛会標語 信時潔
 連峰雲 尾崎喜八 山田耕筰
 僕等の団結 勝承夫 信時潔
 朝だ元気で 八十島稔 飯田信夫
 世界の果までも 相馬御風 弘田龍太郎
 敵塁陥落 堀内敬三 同
 産業乙女 恩田幸夫 高木東六
 箱根八里 鳥居忱 滝廉太郎 片山頴太郎編曲
 忠霊塔の歌 百田宗治 片山頴太郎
 夏は来ぬ 佐々木信綱 小山作之助 片山頴太郎編曲
 今年の燕 安藤一郎 弘田龍太郎
  合唱指導は弘田龍太郎。
 山の牧場 北村秀雄 池譲
 若い力 恩田幸夫 岡本敏明
 南へ進む日の御旗 堀内敬三 小山作之助 信時潔編曲
  この歌を指導した伊藤武雄は隻腕の伍長で「空襲なんぞ恐るべき」を
  吹き込んでいる。)
 一日の汗をぬぐいて 恩田幸夫 福井文彦
 仕事の前に 勝承夫 平井保喜
  歌唱指導の奥田良三はドイツに留学したテナー。「城ヶ島の雨」「モ
  ンテカルロの一夜」などを歌い田谷力三に並ぶ人気歌手だった。戦
  後、横浜国立大学の教授になったが、最近の消息は聞かない。
 海は高鳴る 喜志邦三 平岡照章
 我は海の子 尋常小学唱歌
  歌唱指導した内田栄一は「月月火水木金金」の歌手。
 つばさの力 佐藤惣之助 古関裕而
 かどでの朝 勝承夫 信時潔
 来れや来れ 外山正一 伊沢修二 信時潔編曲
 胸を張って 大政翼賛会宣伝部 弘田龍太郎
 雲に寄せる 安藤一郎 弘田龍太郎
 子を頌う 城左門 深井史郎
 必勝の歌 深尾須磨子 福井文彦
 アリューシャンの勇士 西條八十 大中寅二  木炭の歌 深尾須磨子 弘田龍太郎
 帆綱は歌うよ 前田鉄之助 久保田公平
 富士山の賦 八波則吉 長谷川良夫
 試練の時 勝承夫 岡本敏明
 飛行機は今日も飛ぶなり 酒徳宗三 西條八十補作 信時潔
 母に捧ぐ 福田伝吉 池譲
 潜水艦の歌 堀内敬三 同
 子宝の歌 山上憶良 須磨洋朔
 御民の歌 大木惇夫 山田耕筰
 連峰の雲 尾崎喜八 山田耕筰
 みたみわれ 海犬養岡麿 山本芳樹
 海軍航空の歌 海軍航空本部 帝国海軍軍楽隊
 密林行 佐伯孝夫 大中寅二
 こころゆたかに 北村秀雄 大中寅二
 こいのぼり 與田準一 片山頴太郎
 月夜船 藤浦洸 古賀政男
 母の顔 林柳波 片山頴太郎
 落下傘部隊進撃の歌 堀内敬三 山田耕筰
 海の頌 安藤一郎 平井保喜
 御朱印船 北村秀雄 清瀬保二
 征くぞ空の決戦場 井上康文 高木東六
 やすくにの 大江一二三 信時潔
 勝ち抜き太鼓 岡本一平 中山晋平
 実り 野口雨情 佐々木俊一
 学徒進軍歌 西條八十 橋本国彦
 常在戦場の歌 土岐善麿 久保田公平
 大航空の歌 西條八十 佐々木俊一
 海上日出 土岐善麿 信時潔
 十億の団結 勝承夫 片山頴太郎
 撃滅の誓 大木惇夫 山田耕筰
 戦う花 深尾須磨子 橋本国彦
 沖に帆あげて 川路龍紅 中山晋平
 海の勝鬨 日本海運報国団 松本民之助
 若獅子の歌 佐伯孝夫 佐々木俊一
 日本の力 八十島稔 橋本国彦
 すべてを空へ 西條八十 弘田龍太郎
 必勝歌 杉江健司 大村能章
 南海の神鷲 佐伯孝夫 福井文彦
 銀翼に祈る 北村秀雄 草川信
 空の父空の兄 與田準一 名倉晰
 少年兵を送る歌 松村又一 林伊佐緒
 輸送船行進歌 運輸通信省海運総局
 突撃喇叭は鳴り渡る(一億総決起の歌) 勝承夫 古関裕而
 僕は空へ君は海へ サトウハチロー 佐々木すぐる
 ああ紅の血は燃ゆる(学徒動員の歌) 野村俊夫 明本京静
 サイパン殉国の歌 大木惇夫 山田耕筰
 いさをを胸に サトウハチロー 古賀政男
 決戦の海 與田準一 古関裕而
 翼の歌 深尾須磨子 福井文彦
 決戦の秋は来れり 三好達治 林松木
 お山の杉の子 吉田テフ子 佐々木すぐる
 学徒勤労の歌 東京音楽学校 同
 明くる東亜 尾崎喜八 高田信一
 聖戦必勝を誓う歌 佐藤春夫 片山頴太郎
 勝ち抜く僕等少国民 上村数馬 橋本国彦
 比島決戦の歌 西條八十 古関裕而
 軍歌陸軍 陸軍省
 特別攻撃隊(斬込隊) 勝承夫 古関裕而
 国民義勇隊の歌 堀内敬三、佐伯孝夫、勝承夫、藤浦洸、梅木三郎。橋本国彦
 里の秋 齊藤信夫 海沼実
 父母の声 與田準一 草川信
 台湾沖の凱歌 サトウハチロー 古関裕而
 カボチャの歌 サトウハチロー 古賀政男
 
 以上の90曲が判明した「国民合唱」である。遺漏があるかもしれない。
 ここでもう一度、「紀元2600年」と狂騒した時代に歌われた歌謡曲に戻る。
 戦時下の飛行機の歌で私がすぐに思い出すのは、ニッポン号の歌、予科練の歌、加藤隼の歌、ラバウル航空隊などだ。
 ニッポン号の歌の、正式な題名、作曲者、作詞者などは思い出せないが1939年8月に羽田を出発、10月に世界を一周して帰国した東京日々新聞社・大阪毎日新聞社の社機「ニッポン号」を歌ったもので、「♪国をうずめた日の丸の……」と今でも歌える。
 予科練の歌は西條八十の「若鷲の歌」のことである。少国民世代なら知らない者はいない歌だろう。西條八十は土浦の海軍航空隊を訪問した際に見た掲示板のポスターから歌詞を作ったそうである。それを古関裕而が作曲したのだが、発表会の途上、別のメロディーが浮かび、両方を演奏したところ後者のものに人気が集中し、歌う人が決めたら、ということで後者のものになった。これは古関裕而軍歌の傑作といわれている。航空兵の不足を補うため、当局は必死になり、少年航空兵の大量募集を行った。そのPRに製作された東宝映画「決戦の大空へ」(渡辺邦男演出・原節子、木村功)の主題歌で霧島昇と波平暁男が歌った。映画は全国の学校で集団鑑賞され、歌もヒットして予科練の志願者数は新記録を樹立した。少年たちを戦争にかりたてる罪な歌だったわけだが、いまだに歌われている。
 加藤隼は田中林平と朝日六郎が作詞、原田喜一・岡野正幸が作曲したといわれている「加藤部隊歌」である。陸軍航空隊の中で勇名を轟かせた加藤建夫(1903〜1942)はベンガル湾上の戦闘で隼(陸軍一式戦闘機)とともに墜落死したが、その武勲を頌え軍神になった。そして映画「加藤隼戦闘隊」(1944年・東宝・山本嘉次郎演出)が製作された。森本敏克の『音盤歌謡史』によれば、監督の山本は、その主題歌として飛行第64戦隊第一中隊(加藤部隊)の隊歌を選んだ。しかし、その時はもう加藤部隊が存在していなかったので、隊歌の採譜に苦労したそうである。実際は、1941年に菊池章子(「星の流れに」の歌手)が中国戦線の慰問の際に現地で聞き採譜して持ち帰っていたものであった。田中林平は准尉、原田喜一は曹長、岡野正幸は軍曹であった。編曲して現在歌われているものに仕上げたのは南支派遣軍軍楽隊であったようだ。「♪エンジンの音ごうごうと……」の歌手は灰田勝彦である。歌の中に転調して「♪干戈交ゆる幾星霜……」といった詩吟のようなハ短調の部分がある。古書店主でいくつもの著書がある青木正美は、この映画「加藤隼戦闘隊」を見て涙が止まらなかった、と私に話したが、この歌の部分の悲壮感は絶品である。加藤役の藤田進が自前でコーヒーを煎れ、それを飲みながら歌に聴き入るシーンは忘れられない。藤田進の絶頂期だった。
 ラバウル航空隊は「ラバウル海軍航空隊」(佐伯孝夫・古関裕而)が正式な名前。南太平洋の最前線基地ラバウルの第十一航空艦隊を歌ったもの。古関裕而の名曲といわれている。「♪銀翼連ねて南の前線揺るがぬ守りの海鷲たちが……」と灰田勝彦が歌った。
 讀賣新聞懸賞当選の「空の勇士」はノモンハン事件(1939.5〜9)で戦ったホロンバイルの荒鷲第24戦隊がモデル。レコード会社が競作した。「♪恩賜の煙草いただいて明日は死ぬぞと決めた夜は……」と歌詞を見て歌えるのは、やはり少国民世代だけか。コロンビアは藤山一郎、霧島昇、松原操、二葉あき子、渡辺はま子等が歌い、テイチクは桜井健二、鬼俊英、服部富子、中村柾子。ビクターは徳山たまき、四家文子、波岡惣一郎。ポリドールが奥田良三、関種子、東海林太郎、小林千代子等が歌った。徳山たまき(1903〜1942)の名は王扁に連と書く旧漢字。彼は「侍ニッポン」の「♪人を斬るのが侍ならば……」と歌うバリトン歌手で武蔵野音楽学校の教授からレコード歌手に転向した異色の経歴をもつ。「侍ニッポン」の作曲者松平信博(1893〜1949)は東京音楽学校出身のピアニスト。主人公の新納鶴千代は「にいろつるちよ」が正しいが、徳山は「しんのう」と歌って、それが定着してしまった。
 紀元2600年を記念して製作された東宝映画「燃ゆる大空」は佐藤惣之助の詞に山田耕筰が作曲したもの。霧島昇と藤山一郎が「♪燃ゆる大空気流だ雲だ騰がるぞ翔るぞ迅風の如く爆音正しく高度を持して輝くつばさよ光華ときそえ航空日本空ゆくわれら」と歌い格調高い歌といわれた。映画も軍の全面的協力があって900機の飛行機が参加、その空中シーンは圧巻であり、長谷川一夫が顔面の傷をさらけたノーメーク出演と話題に欠かなかった。
 この映画は都民(当時は市民)の健全慰安事業として東京都の紀元2600年奉祝会と併催で無料公開された。
「港が見える丘」を作詞・作曲した東辰三は神戸高等商業学校出身の材木屋の旦那だが、1938年に「荒鷲の歌」を発表している。「♪見たかb銀翼此の勇姿日本男児が精こめて作って育てた我が愛機……」は「♪ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ」と最後にあって、忘れられない歌だが、これも少国民世代しか歌えないか。
 空の軍神といわれた軍人では外に南郷茂章大尉がいた。海軍の名パイロットといわれていっぱい武勲をあげたが、1938年7月南昌上空で戦死した。そして霧島昇や藤山一郎が彼の歌を歌っている。題名だけを記録しておく。「噫南郷大尉」(松島慶三・江口夜詩),「軍神南郷大尉」(南条歌美・鈴木哲夫)、「憧れの荒鷲」(西條八十・古関裕而)。
 国民歌謡として発表された「航空唱歌」(西條八十・山田耕筰)は「東京から大阪まで」ともいわれ「♪爆音雲にこだまして羽田を出ずる空の旅横浜港一飛びに左に浮かぶ江ノ島の……」と松平晃と松原操が歌ったが、今では忘れられてしまった。
 加藤隼と同じころの歌で記憶にあるのは「索敵行」(野村俊夫・万城目正)である。「♪日の丸鉢巻きしめ直しぐっと握った操縦桿……」と伊藤久男、霧島昇、楠木繁夫が歌った。映画「愛機南へ飛ぶ」(松竹・佐々木康演出、1943年)の挿入歌で、この映画の主題歌「大空に祈る」(野村俊夫・万城目正)も忘れられない歌である。こちらは菊池章子が歌った。これらの歌が挿入されているシーンはよく覚えている。歌の特性だろう。「加藤隼……」も「愛機……」も今、ビデオで見られる。
 公募歌「紀元二千六百年」(増田好生・森義八郎)は森義八郎(1900〜1965)が「この曲は花街での腰のリズムから生まれた」と言ったとか言わなかったとかと物議をかもしたが、今では「♪金鵄あがって15銭栄えある光30銭今こそ来たれこの値上げ紀元は2600年ああ一億の民は泣く」と煙草の値上げへの腹いせ替え歌の方が有名である。レコードも値上げしたが、この奉祝歌レコードはキング、コロムビア、テイチク、ビクター、ポリドールの各社が製作し、60万枚売ったといわれている。「愛国行進曲」につぐ公募歌謡のヒットであった。
 このころ「誰か故郷を想わざる」(西條八十・古賀政男)が発表され、中国戦線の兵士たちによって愛唱された。「燦めく星座」「湖畔の宿」(佐藤惣之助・服部良一)、「高原の旅愁」(関沢潤一郎・鈴木義章=八洲秀章)、「目ン無い千鳥」(サトウハチロー・古賀政男)、「蘇州夜曲」(西條八十・服部良一)、「新妻鏡」(佐藤惣之助・古賀政男)などの歌が流行ったのもこのころだ。「高原の旅愁」の鈴木義章=八洲秀章は戦後「さくら貝の歌」「あざみの歌」「山のけむり」等を発表している。
 1940年の歌でわたしが愛唱するのは、神風特別攻撃隊の隊員たちが出撃の前夜に歌ったといわれているもの。その歌の作詞者も作曲家も歌手も、いまわしい戦争の牙にかみ砕かれてしまったが、歌だけは戦争の恩讐を越えて私の脳裏に刻まれている。しかも、この歌は作曲家がつれづれに書き、ゴミ篭に捨ててしまったが、拾い出されて歌われた、といわれている。次回は、私の心に残る戦争の恩讐を越えた歌に触れよう。
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