空席通信
2002.8.28 No.108

歌と戦争 7

 いわゆる「人物事典」は、いろいろとある。その内容についても、多種多様。しかし信用できるものはすくない。戦時下の歌を語るうえで忘れられない歌手の一人、灰田勝彦(1911〜1982)についての以下の記録も、事実誤認や依怙贔屓があって正確なものとはいえない。それを念頭に引用しよう。

灰田勝彦 はいだ かつひこ
 1911.8.20〜1982.10.26 歌手・俳優。アメリカ、ハワイ生まれ。
本名・灰田稔勝。戦後の暗い世代にハワイアン、野球などを素材に青春スターとして明るいムードをふりまいた。べらんめえ調でハワイの江戸っ子という感じの人柄。立教大学在学中、ハワイアンバンドを作っていた兄・有紀彦の影響でプロ歌手に。アルバイトで藤田稔の芸名で昭和9年、ポリドールより『浅草ブルース』で歌手デビュー。11年、灰田勝彦の名でビクターと契約し『ハワイアン・フラ・ソング』で再デビューした。戦争中はアメリカ系の2世ということもあって憲兵から徹底的ににらまれたが、ガンとして同調しない反骨の人だった。ヒット曲には『鈴懸の径』『東京の屋根の下』『燦めく星座』『新雪』『野球小僧』『アルプスの牧場』といった青春歌謡のものが多く、戦中から戦後にかけて活躍した。また映画の代表作に『新雪』『歌う野球小僧』『銀座カンカン娘』などがある。57年11月3日、母校の『鈴懸の径の歌碑』の除幕式で歌うことになっていたのに、その直前肝臓ガンで急逝した。(長田暁二)
             (『現代日本人物事典』1986年・旺文社)

「戦争中はアメリカ系の2世ということもあって憲兵から徹底的ににらまれたが、ガンとして同調しない反骨の人だった」かどうかはかなり眉唾ものだが、それはさておき、彼は上原敏(1908〜1944)、東海林太郎(1898〜1972)、ディック・ミネ等と並ぶ学士歌手だった。上原敏は「♪好いた女房に三下り半を……」の「妻恋道中」の歌手。
 『鈴懸の径』が立教大学と何ら関係がない歌であることは明瞭だが(作詞者の佐伯孝夫は早稲田仏文科科出身で西條八十の弟子)、「伊那の勘太郎」と同様、ひとたび人気が出てくると、それを利用するのは世の常で、いつのまにか立教大学の篠懸の校舎が「おらが歌さ」と我が物顔に定着してしまった。三浦洸一が歌う「踊り子」(喜志邦三・渡久地政信)が川端康成の小説と関係ないのは周知のことだろうか。詩人・喜志邦三の詞を作曲した渡久地政信は戦中のビクターの歌手・貴島正一だ。津村謙のヒット曲「上海帰りのリル」は彼の作曲である。

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 自らを神格化し率先して戦争推進の舵取りをした極悪人が敗戦後はたちまちに神から人間になり平和主義者におさまったり、戦争翼賛詩人が反戦詩人ともてはやされたり、『鈴懸の径』と同じようなでっち上げ事態や文化は、戦後日本にいっぱいある。
「隼」を歌う灰田は嫌いだが、「森の小径」(佐伯孝夫・灰田晴彦・1940年)は大好きだ。この歌、既述したように勝彦の兄・晴彦が留守の友人の家を訪れ、その帰宅を待ちわびている間に浮かんだ曲を紙切れに書き、屑籠に捨てたのを友人が見つけたもの。今は忘れられているが、私は灰田の一番よい歌と思っている。
「♪ほろほろこぼれる 白い花を……」と出撃前夜の特攻隊員が歌ったそうだ。2001年の映画・高倉健、田中裕子の「ホタル」(降旗康男監督)にも、そんなシーンがあった。「浅草ブルース」はサトウ・ハチロー作詞紙恭輔作曲で、灰田はテイチクにも緑川五郎の名で吹き込んでいると森本敏克は『音盤歌謡史』でのべている。無名の歌手が売り込む為に芸名をいろいろと替えて苦労したのは、昔も今も変わらないようだ。勝彦がビクターで最初に吹き込んだのは「ブルームーン」(永田哲夫・ロジャス)だという資料もある(『昭和期日本歌謡史レコード年表』高木康)。いや「ハワイアン-ラブ-ソング」という資料もある。
 スチール・ギターが敵性楽器であるからと、使用を禁止された時節の「森の小径」は、ハワイアンとしては演奏されなかったが、戦後に何回か演奏され、ハワイアンソングの傑作であることを証明した。
 ディック・ミネ(三根徳一)にも好きな歌がいっぱいある。「ある雨の午後」(島田磬也・大久保徳二郎)は敵性のカタカナ名はけしからん、という当局のクレームでミネが三根耕一名で「♪雨が降ってたしとしとと……」と歌った。ジャズ・アレンジャーの大久保徳二郎(1908〜1974)は戦時下では余り日の目を見なかったが、戦後に島田の作詞「夜霧のブルース」「長崎エレジー」を作曲した。「ある雨の午後」のコンビ復活である。島田は北村雄三、和気徹などいくつもの名前で活躍したが、古賀政男が作曲した「軍国の母」の「♪生きて還ると思うなよ 白木の柩が届いたら 出かした我が子あっぱれとお前を母は褒めてやる」と美ち奴が歌った歌詞は忘れられない。
 ディック・ミネの歌で一番好きなものは「リンゴの樹の下で」だ。アメリカの「In the shade of the old apple tree」が原曲だが、初めて歌われたのが何時ごろか(1930年代?)全く知らない。それで、私が何時覚えたのかも判らないが、「♪リンゴの樹の下で明日また会いましょう……」と、私の甘酸っぱい青春歌謡である。これもまったく無関係だが、しかも好きな作品ではないが、メロディーをくちずさむと、藤村の「まだあげそめしまえがみの……」の詩を思い出す。原曲の音盤は何種類もあるがアームストロング楽団のものが一番好きだ。ディック・ミネの、あの独特の歩き方は、立教大学時代に相撲をやって右足大腿骨骨折をしたからで、後年、愛人の家の二階から転落してご丁寧に左足の大腿骨も骨折した。ますます特異な歩行スタイルを完成したわけである。灰勝は彼の三年後輩だ。
 いわゆるご当地ソングはあまりいただけないが、「♪昨日来た街 昨日来た街 今日また暮れて……」の「熱海ブルース」(佐伯孝夫・塙六郎)は由利あけみの絶唱が好きである。彼女の本名は加藤梅子といい、日本女子大から東京音楽学校へ進学したオペラ歌手。作曲した塙六郎は吉田信のペンネームで東京帝大法学部出身の東京日々新聞の学芸記者(後にNHKの音楽部長、東映の取締役などを歴任しレコード大賞の審査員)。ほかにもいくつかペンネームがある。「轟沈」の歌手楠木繁夫の夫人だった三原純子が「♪南から南から飛んで来たきた渡り鳥……」と歌った「南から南から」(藤浦洸作詞)も作曲している。この歌のレコードはニッチク(コロンビア)から発売されたが、B面の高峰三枝子の「南の花嫁さん」の方が人気があった。いずれも大東亜共栄圏賛歌である。「熱海ブルース」は石原裕次郎(彼も足の骨折で独特の歩き方をしていた)がリバイバルしたが、これも良かった。灰勝の「燦めく星座」は佐々木俊一の作曲。彼は覆面歌手第一号の佐藤千代子が歌ってヒットした「涙の渡り鳥」や「島の娘」も作曲している。「燦めく星座」は大日本帝国陸軍の象徴である「星」を「愛の星の色」とは何事かとか、「思いこんだら命がけ」などとめめしいかぎりだと当局から叱責されたといわれているが……。閑話休題。本筋にもどろう。
 陸軍予科士官学校に在学中、敗戦を迎えた八巻明彦(1928〜)は報知新聞社の文化部記者であったが、軍歌研究者として、いくつも著作がある。『軍歌で見る日本戦争史』(1967)には「日本軍歌名曲50選」の章があり、付録として26曲の軍歌を収録したLP盤5枚がある貴重なもの。そこで八巻は明治、大正、昭和期の軍歌や戦時歌謡の中から名曲として50曲選んでいる。明治、大正期は興味ないだろうが、次に、その50曲名を紹介しよう。断言するが、軍歌を研究する彼は、反動でも思考停止型の人間でもない。私たちの父祖がたどった道を軍歌を通して真摯に記録しているだけである。

八巻明彦の「日本軍歌名曲50選」
君が代。国の鎮め。抜刀隊。敵は幾万。元寇。婦人従軍歌。00愛馬行進曲。出征兵士を送る歌。太平洋行進曲。荒鷲の歌。暁に祈る。月月火水木金金。燃ゆる大空。海の進軍。大東亜戦争海軍の歌。空の神兵。大東亜決戦の歌。戦友の遺骨を抱いて。若鷲の歌。加藤隼戦闘隊。ラバウル小唄。ああ紅の血は燃ゆる。勝利の日まで。轟沈。可愛いスウちゃん。同期の櫻。軍隊小唄。
 「君が代」が入っているのには閉口だが、一見識を示している。「大東亜決戦の歌」も「大東亜戦争海軍の歌」も新聞社の公募歌だが、後者の朝日新聞社のものは安西愛子と「あゝ紅の血は燃ゆる」(野村俊夫・明本京静)を歌った酒井弘の吹き込みであるが、現在では知っている人の方が少ないだろう。東京音楽学校の作曲。「戦友の遺骨を抱いて」(逵原実・松井孝造)は陸軍主計軍曹が陣中新聞に詞を発表し、それを作曲したもので、南西艦隊軍楽隊のコンクールで当選した歌。『写真週報』(1942.4.22)発表時に二位の楽譜と間違えられて発表され話題になった。逵原実(1918〜)は戦後、宮司になった。拙著『シンガポールは陥落せり』発表当時、彼と文通したが、健在だろうか。「遺骨を抱いて」が原題だが、レコードでは「戦友の……」になった。レコードはビクターとポリドールの二種あり、ビクターの方で歌っている斉田愛子はカナダ生まれの歌手で関屋敏子に見出され、イタリアに留学しているアルト歌手。
「勝利の日まで」はサトウハチロー作詞だが、ハチローの歌で私が忘れられないのは「いさをを胸に」(古賀政男作曲・弘田龍太郎編曲)の大日本産業報国会制定歌だ。国民合唱歌でもある。戦後、中京の女流作家が「イロハの歌を知らないか」と雑誌で読者に問い合わせ、楽譜を持っているよ、と連絡したことがあった。この歌を覚えている人が私以外にもいたわけである。「♪いろはのいの字は命のいの字 誰も忘れぬこの文字よ いちばんいさまし いさをを胸に いの字で行こうか その日その日」と歌った楠木繁夫と松原操の声は脳裏に焼き付いている。1944年の10月にニッチクからレコードが発売されたが、私は割ってしまって手元にない。どなたかお持ちだろうか。
 サトウハチロー(1903〜73)は童謡への貢献によって文部大臣賞を受賞、詩集「おかあさん」の詩人、「りんごの歌」(作曲万城目正)の作詞者として知られている。戦中の活躍は不問にされているが、とんでもない歌をたくさん作っている。1941年12月8日以後の彼の歌のリストを次に掲げておく。括弧内は作曲者と歌手名。

1941年12月8日以後のサトウハチローの歌のリスト
 青い星(仁木他喜雄・二葉あき子) 台湾総督府映画「海の豪族」の主題歌。
 別れ鳥(万城目正・霧島昇、二葉あき子) 満映「迎春花」の主題歌。
 断じて勝つぞ(古関裕而・藤山一郎)。
 どうじゃね元気かね(古賀政男・楠木繁夫) 「歌う狸御殿」主題歌。
 僕等の空へ(仁木他喜雄・松原操、近江俊郎) 「陸鷲誕生」主題歌。
 勝利の日まで(霧島昇)。
 僕は空へ君は海へ(佐々木すぐる・酒井弘)。
 いさをを胸に。
 カボチャの歌(古賀政男・楠木繁夫、渡辺はま子)。
 祖国の花(古賀政男・轟夕起子) 「勝利の日まで」主題歌。
 敵の炎(古賀政男・伊藤久男、楠木繁夫)防衛総司令部、陸軍省推薦歌。
 お国のために(弘田龍太郎・加々美一郎、岡本美智子) 日本少国民文化協会選定歌。
 台湾沖の凱歌(古関裕而・近江俊郎、朝倉春子)日本放送協会制定歌。
「カボチャの歌」は日本放送協会の制定歌。今、歌えば愉快な歌じゃないかと言われるかも知れない。たしかに「カボチャ作ろうよ作ろうよカボチャ カボチャはゴロゴロ愛嬌者よ がっちりしていて とぼけた姿 食べてうまいしお腹は張るし……」といった歌詞は明るい。ところが、戦時中のカボチャは「食べてうまい」ものではなかった。量産だけを目的にした品種で味なんか二の次だったからだろう。サツマイモもジャガイモも同じだった。米飯の代用食としてこれらを食べた世代は「これらに恨み」があるから、「カボチャの歌」を聞くと不愉快になるのである。したがって「りんごの歌」(ハチロー・万城目正)も心おだやかには聞けないのである。此の二段論法は不動である!!    以下次号
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