空席通信
2002.10.02 No.109

歌と戦争 8

 サトウハチローには星野貞志、玉川映二、山野三郎などといろいろな名前があって、彼が作詞した歌謡曲が、実際にいくつあるのか不明である。偽学生になって美校(現・芸大)の授業に出ていたとか、タイル洗いとか、いろいろな巷談がにぎやかな人物だ。それらをふまえて、彼をいかように評価するかは個人の自由。わたしは、適当に生涯を送った自分本位の幸福な人物と思っているが……。しかし、彼が清水操六の名前で1940年に発表した「僕の考へ聞いとくれ」(作曲細川潤一)は、「勝利の日まで」「いさをを胸に」などとともに忘れてはいけない歌である。
 「♪僕の考へ聞いとくれ 日曜ごとにシャベル持ち 庭にとびだし穴を掘る 身体はよくなる 気は晴れる やがては出来ます防空壕」と林伊佐緒と新橋みどりが歌った。このコンビは「若しも月給が上ったら」(1937年)のコンビである。細川潤一(1913〜)は歌手から作曲に転向した九州出身者で「ああ我が戦友」(詞林柳波)「マロニエの木陰」(詞坂口淳)なども作曲している。「ああ我が戦友」は近衛八郎のヒット曲。彼は三橋美智也の歌う「哀愁列車」(詞横井弘)の作曲者(別名鎌田俊与)でもある。八巻の50曲に「戦友」があるが、この「ああ我が戦友」は選ばれていない。これには間奏に「戦友」や「婦人従軍歌」(加藤義清・奥好義)が取り込まれていて、名曲といわれている。わたしだったら、「戦友」(♪ここはお国を何百里……)よりこちらを選んだろう。
 林柳波(1893〜1974)は「オウマ」「ウミ」などの童謡がいくつもある作詞者だが、「ああ我が戦友」は「♪光にぬれてしらじらと打ち伏す屍わが戦友よ握れる銃に君は尚国を護るの心かよ」とすさまじい詞である。  「可愛いスウちゃん」や「軍隊小唄」は、俗に「兵隊ソング」といわれているもので、誰がいつ作ったのか不明のまま、兵士たちによって、軍隊内で歌い継がれてきたもの。「♪お国のためとはいいながら人のいやがる軍隊に召されてゆく身の哀れさよ……」と嘆く「可愛いスウちゃん」は初年兵の怨念の歌であろう。「軍隊小唄」は山中みゆき(鈴木富子・1917〜)の「ほんとにほんとに御苦労ね」(野村俊夫・倉若晴生)の替え歌。歌詞は何種類もあるが、「いいじゃありませんか軍隊は……」と「腰の軍刀にすがりつき連れてゆかんせ……」が有名。
 軍隊小唄といわれているものには、このほかに、作詞者や作曲者がわかっているものもある。その代表は西條八十作詞の「同期の櫻」であろう。高知の第十四師団の歌である「南国土佐を後にして」も軍隊小唄である。これ「ズンドコぶし」や「よさこい節」を変曲したものだが、1958年に高知のNHK局の開局記念にジャズシンガーのペギー葉山が歌って、大ブームになった。鈴木三重子(「愛ちゃんはお嫁に」原俊雄・村沢良介・の歌手)がペギーより早く55年に歌っているが、その時はヒットしなかった歌であった。1916年は上田敏や夏目漱石が他界した年だが、その頃軍隊で歌われた「ダンチョネ節」は「♪明日はお立ちかお名残惜しいや……」といった歌詞だったが、1943年頃は「♪俺が死ぬ時ハンカチ振って友よ彼女よ……」などと歌われた。融通無碍のところが軍隊小唄の魅力であるが「♪燃料片道涙で積んで行くは琉球死出の旅……」(特攻隊節)となると何ともやりきれない。「湖畔の宿」が「♪昨日生まれたタコハチは弾に当たって名誉の戦死 タコの遺骨はかえらない骨がないから……」と歌われた。
 この手の軍隊小唄がいくつあったのかは、実際に歌った人たちが、どんどん少なくなっていく現状では、もう不明である。殺伐や暴力のシミとともに消えてゆくものなのだろう。


田端義夫

服部富子

 東海林太郎(1898〜1972)の名唱「♪徐州徐州と人馬は進む……」(「麦と兵隊」)の歌い出しが、もともとは「ああ生きていた生きていた生きていましたお母さん……」であったのに、陸軍報道部の横やりで替えられてしまったことなども、すっかり忘れられている。)作詞者藤田まさとは『麦と兵隊』(1938年)の「……時間は何時頃なのか全く判らなかった。右のポケットに入れてあった懐中時計は、何処でぶつかったのか,ガラスがめちゃめちゃに壊れて,短針が飛び、5時14分で止まっていた。これは小林秀雄君が杭州まで持ってきてくれた時計である。一緒に下がって来た兵隊の居る先刻の家に来てみると、部屋は満員で、鼾が聞こえ、もう皆眠っていた。かすかな血の匂いがあった。土の壁にろなわで張った寝台が立てかけてあったので、私はそれを担ぎ出した。それを近くにいくつもあった箱の上に倒して、私はその上に寝ころんだ。久ぶりに横になったような気がした。冷たい風がすうっと来て頬を流れた。お父さん、お母さん、生きていました、生きました、ありがとうございました、といってみた……」(164ページ)の部分に感動して「ああ生きていた……」と作詞したのであった。「麦と兵隊」のヒットで兵隊シリーズものが相次いで作られたがそれらの中の「梅と兵隊」(南条歌美・倉若晴生)を田端義夫が歌っていることも忘れられている。南条歌美(1905〜1973)は美ち奴が「♪霧のスマロで別れた人は無事に海峡越えたやら……」と歌う「霧の四馬路」を作詞している。
 歌にまつわることで、今ではもう忘れられていることは一杯ある。歌そのものは歌い継がれているのに、面白いことである。「愛国行進曲」は政府(内閣情報部・後に情報局)が募集・選定した前例のない軍国歌謡だが、応募数が57518編もあり、その審査を河井酔名、佐々木信綱、北原白秋、島崎藤村、穂積重遠などが行ったこと、歌詞は白秋や信綱の補筆によって原型をとどめないものになってしまったこと、その補筆をめぐって白秋と信綱が大論争をしたこと、以後両者は口をきかない間柄になったことなど。また、服部良一の妹が歌って流行した「満州娘」は「♪わたし十六満州娘……」と明るい大陸メロディーであるが、テイチクは発売宣伝をしないことを条件に発禁をまぬかれたこと、作詞者の石松秋二(「九段のはは」「十三夜」なども作詞している)は1945年にソ連軍によって殺されたことなども、もう忘れられている。
 忘れられている状況と似ているのが、気づかれていないことである。たとえば古関裕而は「ヨナ抜き短音階」のメロディーを得意とする作曲家で、彼の「露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」は「古関軍歌の三大傑作」などといわれている。その「暁に祈る」の作詞者野村俊夫(1904〜66)が東海林太郎の「忠治子守歌」、山中みゆきの「ほんとにほんとに御苦労ね」、楠木繁夫の「索敵行」、安西愛子の「ああ紅の血は燃ゆる」などで戦時下を謳歌し、戦後は近江俊郎の「湯の町エレジー」、コロンビア・ローズの「どうせ拾った恋だもの」、島倉千代子の「東京だよおっ母さん」などを作詞してデモクラシー時代を謳歌していることなどである。
「ああ紅の血は燃ゆる」(野村俊夫・明本京静)は学徒動員の歌で脳裏にこびりついているが、出来ればこそぎ落としたい歌である。
以下次号
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