空席通信
2003.6.23 No.113

歌と戦争 12



 ここで、堀内に触れる前に、「日本音樂文化協會」の定款の一部を紹介しておこう。原文はカタカナ書きだが省略する。
日本音楽文化協会定款
第一章 総則 
第一条 本会は社団法人日本音楽文化協会と称す
第二条 本会は肇国の精神に基き音楽文化を内外に宣揚することを目的とす
第三条 本会は前条の目的を達成する為に左の事業を行う
  1 音楽に依る国民精神の昂揚並に情操の涵養
  2 音楽政策の樹立遂行に対する協力
  3 国家的及公共的行事に対する協力
  4 音楽文化向上の為の作品発表会、競演会、演奏会、講演会、研究
    会等の開催
  5 優秀なる作品演奏、著述等の奨励並に助成
  6 音楽愛好心の育成並に音楽の普及に関する事業
  7 音楽に依る厚生運動の振興及厚生音楽指導者の養成
  8 音楽に関する国際的諸事業
  9 音楽に関する諸施設の設備
 10 音楽に関する出版
 11 音楽文化功労者の表彰
 12 その他必要なる事業
第四条 本会の事務所は之を東京市に置く
第二章 会員
第五条 本会は左の者を以て会員とす
       1 作曲家、演奏家、音楽評論家
       2 音楽教育に従事する者
       3 非職業的演奏団体の代表者
第六条 本会は理事会の決議に基き音楽文化に功労ありたる者を名誉会員に推薦することを得(以下略)
 前号でふれなかった、同協会の理事なども、ここで追補しておこう。
日本音楽文化協会
理事長 辻壮一。
理事 有坂愛彦、井口基成、井上武士、大木正夫、奥田良三、城多又兵衛、清瀬保二、小森宗太郎、佐藤清吉、柴田知常、鈴木鎭一、園部三郎、田中常彦、中山晋平、長坂好子、野村光一、宮田東峰、諸井三郎、山根銀二、山本直忠。幹事 高野高太郎、萩原英一、弘田龍太郎。
 協会には大阪と京都に支部があり、それらの地域の音楽家も総動員しているが、それらの氏名は割愛した。

 さて、堀内敬三が発行・印刷・編集を一手に担当していた月刊誌『音樂之友』一月号(1942・1月号)は巻頭に「巻頭詩」なるものを掲載している。海軍大佐松島慶三の「国民総出陣の歌」だ。
 その一番の歌詞はつぎのようなもの。

国民総出陣の歌  海軍大佐・松島慶三

 時来る決戦の秋/いざや立て/皇民一億/大君の勅畏み/いざ征かむ醜の御楯と/天壌と共に栄えむ/皇国の使命担いて

「いざ征かむ醜の御楯と/天壌」の部分、「しこのみたて」「あめつち」などと「醜の御楯」や「天壌」などにルビがある。ルビがなくても、このように歌詞を読めることで世代がわかる。つまりは時代キーワードいっぱいの歌である。少国民世代ならルビなしで読めるが、今の人には読めないだろうか。松島慶三は軍人詩人(?)として「海軍記念日を称うる歌」「躍進海軍の歌」などたくさんの海軍軍歌を作詞している。海軍関係の学校、たとえば海軍機雷学校などの校歌である。彼の正式の肩書は海軍軍事普及部・海軍中佐である。海兵45期の卒業で、最終階位は大佐だ。1936年の松竹トーキー映画「少年航空兵」の制作に関係し、アジア・太平洋戦争時代には戦時童謡「九柱の軍神」(松島作詞・服部正・ビクター児童合唱団)がある。「九柱」とは生還を期せずにハワイの真珠湾に潜行し攻撃をかけた特殊潜水艦の自殺攻撃隊の9名の隊員のこと。五艦一〇名の兵士がこの作戦に従事したが、攻撃は失敗で、一人が捕虜第一号になったため、奇数の九柱になった。
「国民総出陣の歌」は肩いからせているだけの陳腐なものだが、当時の常套詞がふんだんに出現している。このような「歌」が、当時の日本人を真剣な鬼にしたのであった。他愛のない歌じゃないか、などと今(現在)読みでいう人もいるが、その罪科は大きい。
 そんな軍人の詞を巻頭に掲げることで、堀内の(この雑誌の)編集姿勢がわかろうというもの。陳腐な歌を巻頭にかかげてご機嫌とりをしたわけだ。文化人たちの、このようなご機嫌とりは、戦時下ではいっぱいあった。それが、戦後は、「強要された」と言ったことに変わるのだから呆れる。海軍軍事普及部は1940年12月6日に内閣情報局に統合された。この時松島中佐は大佐になった。
 同じ号の堀内の巻頭文を抄録しておこう。「大東亜戦争に処する音楽文化の針路」と日本の音楽文化の向上に寄与して勲章を貰った人にふさわしい題名の巻頭文である。
「12月8日、米国及び英国に対し宣戦の大詔渙発せられ、わが忠勇なる将兵は開戦劈頭ハワイ及びマレー沖に敵艦隊主力を撃滅し、香港・比島・マレー・ビルマの諸方面に大なる戦果を挙げて皇威を宣揚せられつつあるは感激に耐えない所である。今や一億国民は皇軍背後の力となって総進撃の体制を新たにせねばならぬ」で始まり「大東亜戦争は音楽家にとっても大きな戦いである。皇軍と共に我等は働き我等は勝たねばならぬ」と結ばれる文で彼は米英の音楽文化と闘え、愛国的音楽を普及奨励せよ、演奏発表形態の改変を考えよ、大東亜音楽を研究せよ、とのべる。主旨は、音楽は多数の人に影響を与えるから、資本主義、自由主義、個人主義、営利主義の生み出した米英の音楽が日本に好ましいものでないのは明らか、そんな音楽から取り上げるに値するものはない、すべからく閉め出すべきだ。そして作曲家は明るい力強い愛国歌の作曲に邁進し、詩人は元気を与え希望を与え朗らかさを与える愛国歌の作詞に邁進し、演奏家・レコード会社・出版社・放送局もその普及に全力を尽くさなければならない、音楽を国民の糧とするのに演奏会形式だけではだめである、報酬を安く、何処へでも出かけて演奏する、これが音楽家の奉公である。大東亜の盟主として日本文化を宣伝するための研究は戦争の一部分である、と力説している。
 時まさに彼岸だが、今年は寒い日が続く。今日は未明からカラスがうるさかった。燃えるゴミの収集日だ。えさを求めてカラスが低空飛行する日である。
(と、ここまで書いて5月は月末まで休筆した)
 この新年号に掲載されている楽譜の歌詞頁に「演奏会開催の心得」の情報局通達のことがあるので、採録しておこう。


 演奏会開催の心得 日本音楽文協の示達
 大東亜戦争完遂のため一億国民一団となって進まねばならぬ時、日本音楽文化協会では情報局の指示に基づき、全音楽家に対し戦争下音楽家の心構え及び演奏会開催の心得に関し通達を発し、音楽会はあたう限り数多く開催し、入場料もやすく、社会の多方面に普及せしむること、短時間に充実せる曲目を供与すること、演奏会が特別の地域に於いてのみおこなわるる原状を是正し、及ぶ限り各地に分布せしめ、農山村漁村等の職場に対し巡回演奏会等を盛んにすること、演奏会場において重要ニュースを速やかに通達すること、国民意識特に戦時下の覚悟を強化する目的にそう曲目を選ぶこと、吹奏楽合唱等集団的演奏を盛んならしむること、更に国民に自ら歌唱する機会を与えること、演奏家の態度服装は端正にして節度あることを要し、奢侈華美にわたらぬこと、また曲目選定の実際に関しては邦人の作曲を努めて演奏すること、現存米英作曲家の作品は取りやめ、既に故人となれる米英作曲家の作品たりとも米英国民の志気鼓舞を目的として作曲されたるもの及び米英国の民謡たりとも之を米英の民謡として演奏することも差し控えること等、楽壇参戦体制の完備を求めた。
 手元にある『音樂之友』(以下では「音楽之友」と略記する)の1942年の一年間の中から、堀内敬三の文にふれながら主要なもの(広告も含めて)に目を配ってみよう。
 その意図は堀内敬三を個人攻撃する目的からではない。現在の日本音楽史の上で、ジャズを紹介した功労者の第一人者と目されている人が、戦時下ではいち早くジャズ追放を声高に叫び、率先して社会に警鐘を鳴らしていたのに、そのことを誰も咎めず、あげくには音楽功労者として勲章まで授与している日本の文化程度を明らかにしておきたいからである。彼が作詞作曲した慶応義塾の応援歌「若き血」を歌っている学生たちが、そのことを知っているのかどうかにも興味があるからである。日米開戦のニュースを聞いた西條八十が、どのような感激の言動を残しているかは、既に何回も拙著で紹介しているから繰り返さないが、その彼が、戦後は、開戦のニュースを聞いた瞬間の感懐を『「さあことだ 馬の小便 渡り船」の古川柳を思い出したね』と語り、その虚妄を誰もが容認している文化程度におかしさを感じないのだろうか。
 新年号については既にのべたから、まず2月号だが、巻頭言「再びすべてを新に・堀内」がある。新体制の動きが起こって三年ほどになるが、今ふたたび新たに考え直す時が来た、として、大東亜戦争における皇軍の奇跡的偉勲によって日本人の世界に対する考えや態度は大転換しなければならない。楽壇は現状維持主義で進んでいるが、もっときびしく反省する必要があろう。資本主義が健全な音楽への道をはばんでいないか。個人主義、自由主義的な主張が団結を妨げていないか。作曲に演奏に、大東亜諸民族の志気や文化を振興する実質が籠もっているか。新体制も旧体制もない。今は、すべてを新しく考え直す時だ。彼はこのように力説している。
 この巻頭文に呼応して同号は「戦時音楽国策の構想」を特集し、「いまこの時の楽壇人は如何にすべきか・宮沢縦一」「楽界総進軍に際して・大和史侃」「音楽家の自覚と実践・寺沢高信」「レコード音楽の新構想・小川近五郎」の四文を掲載した。更に「決戦下の音楽放送に望む」というアンケートを組み三浦環,園池公功、吉本明光、徳田一穂、服部正、早坂文雄、近藤春雄、高木東六、深井史郎、宮田東峰、内田岐三雄、佐藤美子、楢崎勤、中能島欣一らの回答を収録している。
 三月号で目を引くのは「大東亜音楽文化建設の指標・諸井三郎」と「音楽文化戦に勝つために・服部正」の二文である。堀内は作詞作曲の「陥落祝歌」を発表している。
 グアム島(1941.12.10)、ウエーキ島(1941.12.23)、香港(1941.12.25)、マニラ(1942.1.2)、シンガポール(1942.2.15)の5拠点陥落(陥落日時)を祝った歌である。シンガポールの部分だけ引用しよう。
 陥落させたぞシンガポール 海賊王国没落を青史に刻む第一歩 ああ苦熱の進撃いま報われて 凱歌は充つる大東亜
 わたしのように、リアルタイムで、この雑誌を読まない者が今読んで面白いのは、吉田信の「国民歌と大衆歌曲」の連載である。それにふれよう。
 吉田信(1904??)は三原純子が歌った「南から南から」の作曲家で出発は東京日々新聞の学芸部記者。東大法学部出身で塙六郎、神戸道夫、加賀谷伸などいくつものペンネームがあり、NHKの音楽部長、東映の取締役、レコード大賞の審査員など、東大出身を武器に戦後も活躍した人物。
 国民歌は、情報局の小川一郎情報官(1906?? 第五部レコード検閲)が言い出した言葉で公的流行歌のこと。彼の著書『流行歌と世相』(1941.1)によれば、「愛国行進曲」が国民歌の好例だそうだ。吉田は、その定義に疑問をはさみ、公的大衆歌の表現の方がいいとし、「父よあなたは強かった」「日の丸行進曲」「そうだその意気」などは公的大衆歌というより公的流行歌だという。現在、国民歌にふさわしいのは「海行かば」だと。山田耕筰の「なんだ空襲」は代表的な公的流行歌。山田の「燃ゆる大空」「日本国民歌」「三国旗かざして」は巨匠の面目躍如のもの、と評価している。「日本国民歌」は1932年の東日・大毎の公募歌でディク・ミネと並ぶジャズシンガーとよばれた中野忠晴(1909?1970)が歌っている。中野には「チャイナタンゴ」やヨーデル調の「山の人気者」などの絶唱がある。「三国旗かざして」は陸軍省が選定した大木惇夫の日独伊の三国同盟の歌で伊藤久男、霧島昇、二葉あき子が歌った。
 吉田は大東亜戦争開戦後の最初の国民歌は東日の「大東亜決戦の歌」で続いて讀賣の「ハワイ海戦」「マレー沖海戦」とあり、これら三曲は名曲であると評価している。この後、彼は飯田信夫、古関裕而、古賀メロディーなどに言及しているが割愛する。
 4月号の白眉は「献納作品と著作権」(目次では「献納樂曲と著作権」)だろう。戦後、山田耕筰と音楽の戦争責任論争をし、結局は同病相憐れむみたいに尻切れトンボになってしまった山根銀二の発言が面白い。彼は戦後、秋山邦晴と対談して、当時のことを語っているが(『昭和の作曲家たち』2003.4)、その整合性は、かなりいいかげんであることが、この座談会の発言からもうかがえる。例証しないが、興味があったら同誌を参照されるといい。献納作品とは軍や国家に献納した作品のことで、その作品の著作権はどこに帰属するのか、という問題。献納したのだから全部の権利も捧げたのではないか、イヤ、放棄したのだ、とややっこしいテーマである。辻詩や辻小説なども献納作品だが、献納された側は、いっさいがっさい献納された思うのが普通だろう。
 前号に続いて、吉田が大衆歌曲について発言しているので、それを引用しよう。彼は国民歌の作曲者に学校の先生が多いことに注目し、国民歌には唱歌的要素とアカデミックな分子があって、それが学校の先生にはむいているのであろう、と分析する。そして音楽学校の先生である橋本国彦は国民歌の作曲者として適任者なのに、このところ審査員側になってしまって、作品が少なく残念だ。だが、その影の功績は非常に大きい。「世界一周大飛行の歌」には国歌の一節がうまくとりいれてあって傑作だ、と誉めあげている。「世界一周大飛行の歌」は大毎の公募歌で、この歌については拙著(『探書遍歴』)でふれたので再説しない。ちなみに佐伯孝夫作詞の「希望の星座」(1942.1)は泉浩二作曲とされているが、これは橋本のペンネームである。
 吉田は更に中山晋平、服部良一、佐々木俊一、細田義勝、弘田龍太郎、杉山長谷雄、長津義司、能代八郎、山下五朗、宮脇春夫、鈴木哲夫、陸奥明、大久保徳二郎、阿部武雄、林伊佐緒、島田逸平、上原げんと、佐藤長助、大村能章、細川潤一、長妻完至、米山正夫、近江志郎、飯田景応、服部逸郎、倉若晴生、江口夜詩、小村三十三、島口駒夫、東辰三、清水保雄、佐々紅華、平川英夫、竹岡信幸、万城目正、奥山貞吉、仁木他喜雄、早乙女光、佐々木すぐる、明本京静など当時の作曲家をそうなめして、近況にふれている。ここでは「軍歌は絶対に書かない」と自ら誓っていたといわれている(『なつかしの歌声』永来重明.1970.246頁)服部良一の部分を紹介しよう。
 吉田は服部を流行歌作曲家の中では最高のテクニックを持っている新時代の作曲家出あるとべた褒めし、彼は絶えず新しい分野の研究をしている、この間会ったらチャイコフスキーの「序曲1812年」のスコアをポケットから出して大東亜戦争を主題とした三分くらいの歌を入れたグランド・マーチをレコード用に書くために参考としている、といっていた。時局に遅れない作品を生み出そうという努力には感心した。「支那事変の初期、南京陥落の直後に東日から皇軍慰問団を上海南京方面に派遣したが、服部君は進んでコロムビアの歌手連と同行し、行く先々で、皇軍将士の作詞にその場で作曲してバンドが演奏し、西住戦車長の長詩なぞも、そうとは知らず南京で作曲して演奏して来たが、バンドの一員に加わってでも現地へ慰問に行こうという服部君の情熱が、作品にもよく現れている。僕は服部君の作品を聞くと、いつも作曲者の情熱を感じるね」などといっている。
 四月号には「連峰雲」ほか五曲の楽譜が紹介されているが、その中の一つ「機械可愛や」は大日本産業報国会の制定歌で西條八十の作詞である。「いざと構えりゃ鯉口三寸曇り見せぬが古武士の誉れ負けちゃなるまい産業戦士遊ぶ機械を恥じよじゃないか/剣とる人汗流す人血と血と通わす総力戦だ力合わせて共栄圏の華の東亜を築こうじゃないか」といった歌詞だが、作曲者は服部良一である。
以下次号
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