空席通信
2003.7.28 No.114

歌と戦争 13



 他の4曲にもふれておこう。「連峰雲」尾崎喜八・山田耕筰。「大詔奉戴日の歌」尾崎喜八・信時潔。「十億の進軍」讀賣新聞社公募歌。
 これらのうち、「大詔奉戴日の歌」は大政翼賛会が制定したものである。大詔とは、1941年12月8日に発表された開戦の詔書のことで、この日を記念し、あわせて戦争完遂の誓いを奮起し必勝の志気を昂揚するため、毎月8日を大詔奉戴日と東條内閣が閣議決定した。少国民は、年間を通して、この8の日には、早起きして氏神神社に集まり、境内を清掃して、必勝の祈願をしなければならなかった。作業ぶりや祈願の模様を監視する訓導(先生)がいた。
 斎藤茂吉は「たましひの底より涙流れたる12月8日忘れておもへや」と歌っている。
 大詔奉戴日の歌 天つ日の/光と仰ぐおほみこと/おしいただいて一億が/手に手をとって感激の/涙とともに必勝を/誓ったこの日忘れまい(1) 以下略。しっかり覚えちゃっている歌だ。
 5月号は、これまで巻末に掲載されていた楽譜が巻頭に組まれている変わった造本である。これは以後継続されるスタイルだが理由はわからない。それらの楽譜は「建国十周年慶祝歌」(満州帝国政府制定)、「世界の果てまで」(相馬御風・弘田龍太郎)、「僕等の団結」(勝承夫・信時潔)の三曲である。後の二曲は、いずれも国民合唱。「建国十周年慶祝歌」の背景にはいろいろと興味ある事実がありそうだが、資料不足でつまびらかにできない。いずれにせよ、この建国十周年行事の一環としてこれまでの満州国歌が新しい国歌に替えられ、その作業に山田耕筰や信時潔が関与していたのである。楽譜には明示されていないが、作曲者は山田耕筰かもしれない。この号の巻頭詩は西條八十の「香港の日章旗」で、八十は「百年の悪夢、いま覚めて、ああ、香港全島を埋むる日章旗、ディープ・ウオーグ湾のほとり、海鳥の歌うを聴け、『全能の神は頌ふべきかな、うるはしの亜細亜、けふ亜細亜の手に還へる』」と書いている。
 巻頭の論文は海軍大佐平出英夫の「大東亜戦争と音楽」。彼は音楽を「こういうことを意図しているという意図の通りに聴く者を従わせる力をもったもの」と位置づけ、「アメリカはハワイで失った海軍力を回復するのに三年かかる、その間、日本も軍艦を増強するから、ここ七年ほどは日本と対等の戦さはできない」などと甘い予測をしている。題名とはうらはらに、音楽とはほど遠い内容である。末尾にこの文は永田国民学校での講演速記とある。どのような講演会かは未調査。軍人の論文以外では、大東亜民族民謡について・田辺尚雄、日本民謡の本質と将来・藤田徳太郎、日本古典歌謡における物語りについて・今井通郎などが目に付くが、紹介するほどのものではない。
 この号で面白いのは堀内敬三の「楽友時事」である。例によって米英音楽の絶滅を「敵国の音楽に少しでもかぶれているというのは絶対にいけない。もしこの転向の出来ない人は音楽を止めてもらうよりほかはない。米英は根こそぎ叩きつぶすのだ。すべての国の文化を包容する日本人の伝統は尊いが敵国の文化に跪くほど寛容である必要は少しもない」と手きびしい。
 6月号には「忠霊塔の歌」(百田宗治・片山頴太郎)、「夏は来ぬ」(佐々木信綱・小山作之助)、「軍神岩佐中佐」(讀賣新聞社制定・東京音楽学校)の三曲が収録されている。「忠霊塔の歌」「夏は来ぬ」は「国民合唱」。「夏は来ぬ」は1900年6月14日に発行された『新選国民唱歌』に発表された古いもの。ただし、この時点で第二番の歌詞の「賤の女が」が「早乙女が」に替えられている。「敬虔の心を以て」とある「軍神岩佐中佐」は記憶にない歌である。岩佐中佐が特殊潜行艇で自殺攻撃をした、いわゆる特別攻撃隊9軍神の指揮官であったことは説明するまでもないだろうが、念のために歌詞を全文転記しておこう。これだけで戦後世代にもおよそのことはわかるだろう。
軍神岩佐中佐 1 仰ぐ赤城の山は映え/大利根めぐる厩城下/此処に建武の血を受けて/郷土群馬に男子あり/姓は岩佐ぞ名は直治// 2 君のみために死する時/孝を遂げしと思し召せ/かをる勲の絶筆を/手にせる父はほほえみて/ああ軍神の母泣かず// 3 敵がたのみの真珠湾/防塞くぐる新兵器/断固撃滅大和魂/血の訓練の甲斐ありて/「われ攻撃に成功す」// 4 見よや類なき大戦果/輝く特別攻撃隊/率いて散りし武士の華/軍神岩佐中佐こそ/その名燦たりとこしえに//
 百田宗治(1893〜1955)は児童生活詩運動を提唱した人道主義的な詩人などといわれているが、その「忠霊塔の歌」の歌詞は「わたしのまえに立っている/みなのまえにも立っている/はかりしれない大きさで/たかい雲間にそびえ立ち/ああいただきは天を衝き/神の宮居にとどいてる/神のみ声をきいている」といったもの。忠霊塔のことを知っている世代も少なくなったか! この号の白眉は「音楽文化の革新」と題する山田耕筰と堀内敬三の対談記録である。高級将校用の軍服を着、拍車つきの長靴をはいて腰には軍刀があった、といわれている山田耕筰と米英音楽追放に血道を上げていた堀内との対談だから面白い。しかし、音楽機構の検討から評論家批判、邦楽の問題、交響楽と軽音楽の現状、満州の音楽情勢、これからの音楽家の課題と多岐にわたっての両者の弁舌は長すぎるから紹介しない。この号の「楽友時事」でも堀内は米英音楽の絶滅を絶叫している。
 7月号には国民合唱の「若い力」(恩田幸夫・岡本敏明)、「大東亜戦争海軍の歌」(朝日新聞社選定・東京音楽学校)「特別攻撃隊」(讀賣新聞社制定・東京音楽学校)の三曲が収録されている。この「特別攻撃隊」は、もちろん真珠湾での自殺攻撃のことだが、私たちが歌った「特別攻撃隊」は音楽の教科書にあった同題のもので、「一挙にくだけ敵主力/待ちしはこの日この時と/怒濤の底を矢のごとく/死地に乗り入る艇5隻」といった歌詞で5番まであった。讀賣のほうは「撃ちてしやまむますらをに/なんの機雷ぞ防潜網/ああこの8日待ちわびて/鍛えぬきたる晴の技/示すは今ぞ真珠湾」が一番の歌詞で、これも5番まであった。魚雷二発に、腰掛けたら、もう自由に身動きできないスペースに椅子が二脚あるだけの小さな潜水艦(特殊潜行艇)5隻で編制された特別攻撃隊は、通常の潜水艦の艦首にくくりつけられて真珠湾に潜行し、そこで放たれて、敵艦を攻撃するものだが、全艇が大戦果をあげて還らぬ人となり、大東亜戦争で最初の軍神(9軍神)といわれた。5隻に2人ずつなのに、何故9人なのか、不思議だったが、一人が捕虜になり、敗戦後に釈放されて帰国し(捕虜第一号と騒がれた)、初めて真相が判明した。大戦果も事実ではなかったようだ。
 この号の目玉は勝承夫、藤浦洸、大島博光、菊岡久利、深井史郎、吉本明光、堀内敬三、黒崎義英等の座談会「詩と音楽の交流」だろう。歌謡の歌詞については作詞といい、作詩とはいわないが、そのあたりのことを中心に歌詞の芸術性を語るもの。最適任者と思える西條八十がいないから、面白い座談会ではない。
 8月号の掲載楽譜は国民合唱の「今年の燕」(安藤一郎・弘田龍太郎)、「我は海の子」(文部省歌)、「海行く日本」(海務院選定・東日、大毎公募歌・作曲者は細川武夫)の三曲。外語大学の教授だった詩人・安藤一郎が作詞した「今年の燕」は、弘田の軽快なメロディーにのって巷間をにぎわせたもの。春になって南から飛来した燕に、南の海を制覇している帝国海軍の軍艦の勇姿を、どんなか、聴いてみたいな、といった歌詞だが、春先につばめを見かけると時々唇をついて出る不思議な歌である。


 この号には座談会「前線皇軍将士慰問の感激」がある。出席者は三浦環、藤原亮子、清水静子、高田せい子、荻野綾子、藤原義江、吉本明光の7人。三浦環、義江、吉本明光の3人については説明するまでもないだろう。歌謡界の藤原亮子(1917〜74)は「湯島通れば想い出す……」と小畑実と歌ったベテラン歌手。「勘太郎月夜唄」も彼女が歌っている。彼、彼女らは主に支那事変当時の慰問につて語っている。特集記事は「音楽家と読書」と題する森本覚丹、関清武、原田光子、守田正義、清水脩ら5人の文章だが、紹介するまでもないもの。
 9月号にはくろがね会制定歌なる「大南洋唱歌」(海軍省・情報局・大日本放送協会後援=22番まである長い歌)、「産業報国青年隊隊歌」(藤沢克己・山田栄一)、国民合唱「仕事の前に」(勝承夫・平井保喜)、「一日の汗をぬぐいて」(恩田幸夫・福井文彦)の4曲の楽譜が収録されている。くろがね会は海軍省の御用団体で戦後「荒地」で活躍した詩人中桐雅夫が所属していたこと、彼は山本元帥の本を上梓していることなどは拙著『空白と責任』で指摘したとおりである。この号の執筆者は、石井文雄、増沢健美、田辺尚雄、などがメインで「音楽文化の転換期」成る座談会録もある。楽界の新しいゼネレーションと見なされている音楽家たちに集まって貰って「隔意のない意見交換をしてもらう」のが意図で、「楽界中堅層の熱意」というのが最初の座談会名だったらしい。深井史郎、土田貞夫、市川都志春、守田正義、長谷川千秋、関清武、渋谷修、久保田公平、黒崎義英らが出席している。原太郎、山田和男、早坂文雄、清水脩は欠席とあるから、声はかかっていたのだろう。転記するような発言はない。面白いのは例によって堀内の「楽友近事」である。詳細は未調査だが、この頃、漢字のふりがなが新しく字音仮名遣い制定で統一されたらしい。堀内は「蝶がテフ、寵がチヨウ、聴がチヤウ、調はテウ」で声楽家は大変だった、と回顧している。「替唄」の項では、国民合唱の「南へ進む日の御旗」は小山作之助の軍歌「千引の岩」の譜に私が新たに歌詞を配したが、これについて、作曲者は原歌詞によって構想し、その歌詞にふさわしい曲をつくるのだから、後から別の歌詞をつけるのはよくない、と批判された。しかし、小山作之助の「敵は幾万」の曲は「進め矢玉」という別の歌詞に用いられているし、「夏は来ぬ」は小山の「金魚」という俗歌の曲に佐々木信綱の詞を配したものだ。「天に代わりて不義を伐つ」の歌詞は日露戦争の時に出たが、その曲は10年も前に「三千余万」という別の歌詞で出ている。こんな例は和洋東西をつうじて枚挙にいとまがない。ドイツ国歌はハイドン作曲のオーストリア国歌に後から別の歌詞をつけたものだし、イタリア国歌も田舎の学校校歌の曲にダヌンチオが歌詞を後からつけものだ。「佐渡おけさ」「伊那ぶし」「草津ぶし」にはいろいろな歌詞があるじゃないか。唱歌曲は歌詞と曲が不可分でないのだ、と開き直っている。



 10月号には国民合唱の「かどでの朝」(勝承夫・信時潔)、「胸を張って」(大政翼賛会標語・弘田龍太郎)、「来れや来れ」(外山正一・伊沢修二・信時潔編曲)の3曲と「陸海軍航空将士に捧ぐる歌」と添え書きされた「空征く日本」(大日本飛行協会・日本蓄音機レコード文化協会制定)があり、前号にも掲載された「仕事の前に」「大南洋唱歌」「産業報国青年隊隊歌」が再録されている。さらに「アジヤの青雲」(北原白秋・信時潔)もある。この号のメインは、世界ではじめて純正調の小型オルガンを製作した物理学者田中正平博士(1862〜1945)と堀内との対談「田中正平博士縦横談」である。大東亜建設に際して、我が国音楽界の現状、音楽家の邦楽趣味、大東亜音楽発展などについて語っているが、堀内の主導で話が進められ、堀内の見解を博士に追認させて権威づけている感がするもの。特集は「日本民謡の特質」で町田嘉章、藤井清水、藤田徳太郎、小寺融吉、武田忠一郎の五人が執筆している。「楽友近事」には日比谷公園の一角に12万円の巨費で「軍艦行進曲記念碑」が建設される、とある。記念碑は彫刻家日名子実三の作。男性の理髪料金が60銭だった時の12万円である。実際に建設されたのだろうか。現在はどうなっているのだろうか。知っているかたは教示してください。日比谷公園には1954年ころまで、ドーリットル通り、というのがあった。日本を初空襲した攻撃隊の隊長名である。米軍に媚びて命名したのだろうが、おかしなことである。
 11月号の掲載楽譜は国民合唱「雲に寄せる」(安藤一郎・弘田龍太郎)、「日本の母の歌」(主婦之友選定・信時潔)、「少国民進軍歌」(軍事保護院、陸軍省、海軍省選定・佐々木すぐる)、「楽しい奉仕」(吉川鷲美・伊藤翁介)、「大日本婦人会会歌」(大坪豊・橋本国彦)の5曲。「少国民」とつく歌は、大毎の小学生新聞が懸賞募集した「少国民愛国歌」(星野尚作・橋本国彦)があり、姉や兄の運動会で女性歌手が「国を思えば血が踊る胸のしるしも日の丸のわれらは日本少国民かけよかけかけ走れよ走れよ愛国競走それかけよ……」と歌っていたのを思い出す。調べてみたら歌手は平山美代子という。「進軍歌」のほうは、私たちの歌で、霧島昇がコロンビア児童合唱団をバックに朗々と歌った。今でも4番まである歌詞を「轟く轟く足音はお国のために傷ついた勇士を守り僕達が共栄圏の友と行く揃う歩調だ揃う歩調だ足音だ……」と覚えていて歌える。

 この号では諸井三郎(1903〜77・作曲家、団伊玖磨は彼の門下生)が「近代の超克」を発表している。月刊誌『文学界』が、この年の9、10月号に連載した「近代の超克」は哲学者や文学界の同人たちの座談会で、あらかじめ出席者に論文を書かせるなど、話題になった。そして近代(西欧)からアジアを開放する合い言葉として「近代の超克」が通用した。諸井の論文は、座談会の模様と取り上げられた問題の中に特に音楽家にとって興味あることはなにか、といったことを鮮明にしてほしい、という編集部の依頼をうけてのものだが、たいしたことはのべていない。ほかには、交響楽の指揮者らによる「日本指揮者の座談会」や山田耕筰の満州帰国報告などもあるが、現時点では読んでもつまらない内容である。堀内がこの号の「楽友近事」でも「米英と戦わぬ音楽家がまだいる」と米英の頽廃的ジャズや流行歌の撲滅を叫んでいる。
 12月号の収録楽譜は大日本興亜同盟が選定した「アジヤの友」(勝承夫・堀内敬三)、国民合唱の「子を頌ふ」(城左門・深井史郎)、「つばさの力」(佐藤惣之助・古関裕而)、「新穀感謝のうた」(高村光太郎・信時潔)の4曲。「子を頌ふ」は少国民が大きくなるころは日本も大きくなっているよ、と少国民をだました歌として忘れられない。しゃくだが、今だに三番まで全部歌えるものだ。この号の座談会は「映画音楽の検討」で、主席者は津村秀夫、深井史郎、津川主一、吉村公三郎、掛下慶吉,園部三郎、伊奈情報官、宮沢情報官といった面々。司会を堀内が勤めている。戦時下の映画音楽についてはあまり文献がないから、これは一読の価値があるだろう。山田耕筰と戦争責任論を闘わした山根銀二が情報局主体の、いわゆる「国民映画」の音楽審査員として貢献した、といったことが、ぽろっと情報官の口からこぼれている。この号は大東亜戦争一周年にあたり、巻頭に情報局情報官宮澤縦一「楽界の参戦を要望す」と堀内の「国に捧げよう我等の音楽を」を掲載している。並河正「流行歌手明暗譚」はこの頃の流行歌手の消息をつたえるもの。小唄勝太郎、東海林太郎、藤山一郎、霧島昇、松原操、徳山連、河東田敏子、佐藤千夜子、小野巡、久富義晴、小林千代子、灰田勝彦、淡谷のり子、加藤梅子、楠木繁夫、石井亀次郎、柴田睦陸、轟夕起子、山根寿子、三原純子、波岡惣一郎、長門美保、永田絃次郎、井口小夜子、大谷列子、藤原亮子、歌上艶子、宮下晴子などが登場する。白眉は「百年戦争だ! 音楽はこれでよいか!」の特集で、レコード界、吹奏楽運動、ハーモニカ界、合唱運動、出版界、軽音楽界、演奏活動、ラジオ、作曲界の九分野の現状に檄がとばされているもの。讀賣新聞の企画部長で、音楽評論や社会評論に活躍した吉本明光は、国歌の庇護のもとに結成された日本交響楽団が第一回の記念演奏会で、敵米英を撃滅し、その背後で糸をあやつるユダヤ謀略の破砕をめざして戦っている折も折、ローゼンストックを指揮者として登場させた。盟邦ナチスが追放した音楽家を! である。そして満員の聴衆が熱狂的な拍手で彼を迎えた。かてて加えて当夜の中心曲目がキリスト教の経文ともいえる「鎮魂歌」であった。あきれてものも言えない。ユダヤは敵性なのだ。こんな危険きわまる文化の火遊びを取り締まれ! と叫んでいる。
以下次号
[バックナンバー]


本サイト内の文章の著作権は櫻本富雄に帰属します。
文章・図版の無断使用を禁じます。
Copyright(C) 2001 Tomio Sakuramoto All rights Reserved.