空席通信
2003.8.22 No.115

歌と戦争 14

 NO113号で服部良一にふれたが、『上海ブギウギ1945・服部良一の冒険』(上田賢一)につぎのような部分があった。この本の腰巻き(帯)は「流行歌王、ここにあり」とたいそうなコピーである。もっとも、音楽の世界にかぎらず、マスコミやジャーナリズムは、簡単に「○○王」などと名付けて虚飾にみちたブームを作り出そうとする傾向があるから、驚くことはない。物事の物差しは多種多様である。物差しによっては、服部良一が「流行歌王」ともいえるし「たくみな音楽職人」ともいえるのである。戦意昂揚に貢献した歌をたくさん作曲した古関裕而は行進曲王といわれているし、彼の戦時下の作曲活動は、音楽的に考察して、どれも反戦曲、すくなくとも厭戦曲であった、などといわれている。そして夏の甲子園では彼の行進曲が轟く。戦時中は当局から睨まれて歌を歌えなかったなどと嘯き、その実は当局に媚びて皇軍慰問団で活躍した淡谷のり子がブルースの女王である。
 誤解ないようことわっておくが、それらのことが戦争犯罪に連繋する無責任な表現活動だと弾劾しているわけではない。とんでもない連中だと指弾しているわけでもない。特技があり、世間的にも名前の売れていた人気者は、例外なく戦争協力にかり出されたのだから。ただ、その事実を曖昧にするな、というだけである。
『上海ブギウギ1945・服部良一の冒険』は子息の言葉として
「おやじさんは思想的には典型的な庶民で、むしろ愛国者でさえあったと思うんだけど、そこんところが軍人なんかには理解できないんだね」と克久さんは言う。「戦後になって、服部良一は軍歌を書かなかった作曲家だ、なんて持ち上げられたことがあったんだけど、あの人は軍歌を書かなかったんじゃなくて、ジャズの人だから軍歌というものが書けなかっただけなんだな。日本の軍歌というのは音楽的にいえば西洋風のマーチは少なくて、いわゆる『演歌』ですよね」(同書98ページ)
と紹介している。身贔屓な内容の伝記だから、その子息の発言の当否についてはふれていない。
 服部良一は1944年6月に陸軍報道班員として召集され上海に行き、そこで宣撫活動をするが、その活動は、同書によればたいしたことではなかったようだ。語られていない別の活動はなかったのだろうか。
 ここで私が入手した服部良一の戦時歌謡リストを整理しておこう。個人の蒐集だから遺漏が多いだろうと思っている。遺漏部分のカバーは読者の指摘をまつしかない。
 彼のデビュー曲は1931年11月にタイヘイから発売された「噫 中村大尉」(作詞松本英一・歌手浜口淳)だそうだが(森本敏克『音盤歌謡史』前記)、確認していない。この歌の作詞者・松本は帝国キネマ映画の監督。同名の「あゝ中村大尉」(1933年)という歌があるが、これは作詞者伊藤松雄、作曲者は永井巴。この「中村大尉」とは陸軍参謀大尉中村震太郎(1897〜1931)のこと。変装して蒙古の奥地に入り諜報活動中に逮捕され、支那軍(中国軍)によって殺害された。その死を陸軍は排支運動に利用して国民の愛国熱(?)をあおり、中村大尉の名は一躍有名になった。このあたりのことは、当時の新聞で確かめて欲しい。私は小学生の時、中村大尉に扮して学芸会に出演し、最後の銃殺される場面で拍手喝采をあびた。

服部良一戦時歌謡リスト(1936年〜・作詞者・歌手、レコード会社の順)
 1936年


 祖国の柱(国民歌謡、大木惇夫、奥田良三、?)
 日本よい国(同、今中楓渓、?)
 1937年
 アリラン夜曲(高橋掬太郎、赤坂百太郎、コロムビア)
 空爆の歌(放送軍歌、勝承夫、?)
 希望の船(国民歌謡、佐藤惣之助、松平晃、同)
 山寺の和尚さん(久保田宵二、コロムビアリズム
 ボーイ、同)
 別れのブルース(藤浦洸、淡谷のり子、同)
 泪のタンゴ(奥山靉、松平晃、同)
 私のトランペット(服部良一、淡谷のり子、同)
 沈黙の凱旋に寄す(国民歌謡、新居あづま、伊藤
 久男、同)
 1938年
 凱旋前夜(中川紀元、霧島昇、同)
 雨のブルース(野川香文、淡谷のり子、同)
 武人の妻(高瀬千鶴子、渡辺はま子、同)
 1939年
 チャイナタンゴ(藤浦洸、中野忠晴、同)
 一杯のコーヒーから(藤浦洸、霧島昇・ミスコロムビア、同)
 広東ブルース(藤浦洸、渡辺はま子、同)
 東京ブルース(西條八十、淡谷のり子、同)
 懐かしのボレロ(藤浦洸、藤山一郎、同)
 鈴蘭物語(藤浦洸、淡谷のり子、同)
 いとしあの星(サトウハチロー、渡辺はま子、同)
 1940年
 アリラン・ブルース(西條八十、高峰三枝子、同)
 湖畔の宿(佐藤惣之助、高峰三枝子、同)
 蘇州夜曲(西條八十、霧島昇・渡辺はま子、同)
 支那娘(高橋掬太郎、菊池章子、同)
 満州ブルース(久保田宵二、淡谷のり子、同)
 タリナイ・ソング(コロムビアリズムボーイズ、同、同)
 小雨の丘(サトウハチロー、小夜福子、同)
 いとしあの星(サトウハチロー、渡辺はま子、同)

 1941年
 兵隊さんを思ったら(野村俊夫、渡辺はま子、同)
 牡丹の曲(サトウハチロー、山田五十鈴、同)
 明日の運命(西條八十、霧島昇・渡辺はま子、同)
 1942年
 バリ島の舞姫(佐藤惣之助、二葉あき子、同)
 さくらおとめ(野村俊夫、奈良光枝、同)
 みたから音頭(農林省・農山漁村文化協会選定、
 霧島昇・菊池章子、同)
 孝女白菊(西條八十、霧島昇、同)
 花の隣組(西條八十、渡辺はま子・菊池章子、同)
 八の字音頭(野村俊夫、伊藤久男、同)
 1943年
 銃後の妻(朝倉安蔵、菊池章子、同)
 本懐ぶし(高橋掬太郎、伊藤久男、同)
 日の丸甚句(平山芦江、楠木繁夫、同)
 母は青空(西條八十、李香蘭、同)
 1944年
 歓喜の港(西條八十、伊藤久男・波平暁男、同)
 君は船びと(西條八十、轟夕起子、同)
 この仇討たん(高橋掬太郎、高峰三枝子・日蓄女声合唱団、ニッチク)

 最後の「この仇討たん」は全滅(玉砕)部隊を歌った日本軍末期の悲惨なもの。歌詞を転記しておこう。なお敵性語の排斥でコロムビアがニッチクと改名している。ポリドールは大東亜蓄音器、ビクターは日本音響、キングは富士音響になった。
この仇討たん 1 大和櫻の散り際見せて/勇士の熱い血潮の飛沫/玉と砕けた山崎部隊/一億誓ってこの仇討たん 2 裂けた戒衣を夜露に曝し/草を噛み噛み戦いぬいた/ガダルカナルの怨みも深い/一億誓ってこの仇討たん 3 続く反抗マーシャルまでも/深く食い入る敵機の憎さ/醜の御楯の覚悟は今ぞ/一億誓ってこの仇討たん

1番はアッツ島の守備隊(指揮官の名前から山崎部隊といわれた)の全滅(1943.5)、2番は同年2月のガダルカナルからの退却で置き去りにされた部隊のこと、3番は1944年3月以降の米軍のマーシャル群島上陸を、それぞれ歌っている。
 国民合唱については107号でとりあげたが、そもそもこの国民合唱に私が最初にふれたのは『少国民は忘れない』(1982)である。それと、この「歌と戦争」を併読してもらえれば幸甚だが、何カ所か整合しないところがある。このシリーズはいずれ一冊にまとめるつもりだから、その際には徹底的に検証しなおすつもりである。
 で、補筆的なことになるが、あまり目に触れない資料があるので、1943年の9月に放送された国民合唱「大アジア獅子吼の歌」についてのべよう。
 白秋の門下生の大木惇夫が作詞し、園部為之(?)が作曲した「大アジア獅子吼の歌」は軍事保護院・陸軍省・海軍省の選定歌である。日本文学報国会と日本音楽文化協会の献納した歌であったとは、この資料を見るまで知らなかった。こんな歌を献納までして媚びをうっていたのだから情けない。
 大木惇夫は西條八十に負けないほど戦時歌謡を作詞しているが、阿部武雄が作曲した「国境の町」は彼の作詞で「♪橇の鈴さへ淋しく響く……」の東海林太郎の絶唱と共に忘れられない歌である。



 写真は1943年11月8日の大詔奉戴日に催された「戦意昂揚」集会のプログラムだが、このような集会が全国的に開催されたのである。6人の歌手の写真がある。永田絃次郎は1909年生まれの在日韓国人で本名は金永吉。島崎藤村の国民歌謡「朝」を歌っているが、彼の名前ですぐ思い出すのは日本音楽協会選定の「神風節」である。「♪吹けよ吹け吹けメリケン嵐どうせ浮き雲迷い風大和島根はゆるがぬ島根……」と敗戦間近に流行した。この歌にはいくつかのヴァリエーションがある。彼の代表歌は陸軍省制定の「出征兵士を送る歌」(林伊佐緒作曲)だろう。長門美保と歌うこの歌は、今でも右翼団体の街宣車から大きな声で聞こえてくる。長門美保はいわずとしれたオペラ歌手。「出征兵士……」とならんでの彼女の絶唱は「世紀の若人」(多岐英二作曲)だろう。讀賣新聞社の公募歌だ。多岐英二は林伊佐緒のこと。長門美保の本名は鈴木美保である。松島詩子はタンゴ「マロニエの木陰」の歌手。後の三名についてはよく知らない。
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