空席通信
2003.10.21 No.117

歌と戦争 16

 戦時下の古関裕而と服部良一の仕事についてのべたから、もう一人の作曲家古賀政男(1904〜78)にもふれておこう。
 彼も古関や服部と同世代で、くしくも商業学校を卒業している。もっとも、彼の商業学校は、朝鮮の京城善隣商業学校である。福岡県の小村に生まれた彼は7歳で父親と死別し、1912年、大黒柱をうしない貧しくなった一家は朝鮮に移住し、そこで少年期をすごす。
 今の人には理解できないだろうが、当時、商業学校や農業学校へ進学する少年は、大多数が貧しい家の子息であった。金持ちの子息は中学校へ進学したのである。女性も同じで、高等女学校に進学出来る子女は、いずれも金持ちのお嬢さんばかりだった。
 世間も差別して商業学校や実業学校を中学校より一段低い学校と認識していた。学業成績が優秀で、向学の志が強かった貧窮家庭の子息や子女は卒業したらすぐに就職できる学校へ進学したのだ。もっと貧しい家庭の彼ら彼女たちは、高等科に進むか、すぐ丁稚奉公にだされて、学問の道をあきらめたのである。
 古賀政男は商業学校を卒業後、内地(当時は本州をこのように呼び、台湾や朝鮮を外地といって区別した。養女として北海道の伯父の家に行ったわたしの姉が、やはりこの言葉を使用していた。北海道の人たちも、そこを外地と思っていたのだろう)の名古屋にある商店に住み込みで奉公する。しかし向学の思いは断ち切りがたく、商店を出奔して上京、苦学しながら明治大学に入学した。1923年のことだ。彼は生涯に5000曲ほど作曲しているが(長田暁二の説)、歌謡界へのデビューは「文のかをり」(1930・古賀作詞作曲・佐藤千夜子・ビクター)だった。彼の声価を決定したのは周知のように、1931年に発売された「酒は涙か溜息か」(高橋掬太郎・古賀政男)である。8月に売り出され、その年のうちに100万枚売れた、といわれている。そして、その時の歌手藤山一郎と古賀は一躍スターになった。そして「影を慕ひて」で、古賀の名声は決定した。彼の処女作といわれているこの曲は、恋のやるせない苦しみを思わせる「古賀メロディ」の中の名曲といわれている。「まぼろしの影を慕いて雨に日に……」の歌詞を聞けば、その通りだと思われるが、わたしは「恋情」より貧しかった朝鮮での少年期へのノスタルジーや死別した父への慕情が基底にあると思っている。決して単なる「恋」の歌ではない。閑話休題。
 彼の戦時下の表現活動を検証しよう。民放の、なんの番組かは忘れたが、古賀自身のなにかの記念番組に出演した彼が、「わたしの歌はめめしいものばかりだから、戦争中は軍からにらまれて肩身がせまかった」と居並ぶ古賀門下生を前にしゃべっていたのを視聴したことがある。門下生の中にはミス日本の山本富士子までいた。彼の弁がかなりいいかげんであることを知るだけでもいいから、以下の目録を通覧してほしい。「軍国歌謡を進んで手がけたことのなかった古賀政男」(森本敏克)とかいわれているが、積極的か消極的かなんて詮索は意味ない。

古賀政男  戦時下歌謡曲
 1932年
 さらば上海(時雨音羽、関種子)
 1933年
 東京祭(門田ゆたか、藤本二三吉・松平晃)
 1934年
 国境を越えて(佐藤惣之助、楠木繁夫)
 1935年
 大楠公(島田磬也、有島通男)
 白い椿の唄(佐藤惣之助、楠木繁夫。古賀は清水保雄名)
 二人は若い(玉川映二、星玲子・ディック・ミネ)
 のぞかれた花嫁(同、杉狂二)
 緑の地平線(佐藤惣之助、楠木繁夫)
 ゆかりの唄(佐藤惣之助、星玲子)
 あゝ恋無情(島田磬也、美ち奴)
 1936年
 護れ国境(佐藤惣之助、楠木繁夫)
 東京ラプソディ(門田ゆたか、藤山一郎)
 東京娘(佐藤惣之助、藤山一郎)
 男の純情(同、同)
 愛の小窓(同、ディック・ミネ)
 女の階段(村瀬まゆみ、楠木繁夫)*村瀬は島田磬也。
 あゝそれなのに(星野貞志、美ち奴)
 1937年
 動員令(島田磬也、楠木繁夫)
 人生の並木路(佐藤惣之助、ディック・ミネ)
 青い背広で(同、藤山一郎)
 青春日記(同、同)
 軍国の母(島田磬也、美ち奴)
 白虎隊(同、藤山一郎)
 小楠公(同、古賀久子)
 愛国六人娘(佐藤惣之助、由利あけみ)
 勇敢なる航空兵(同、藤山一郎)
 山内中尉の母(同、同)
 兵隊さん節(時雨音羽、美ち奴)
 1938年
 かちどきの跡(鈴木淑夫、ディックミネ)
 明けゆく蒙古(佐藤惣之助、楠木繁夫)
 人生劇場(佐藤惣之助、楠木繁夫)
 どうせ往くなら(同、ディックミネ)
 陣中手柄話(和気徹、楠木繁夫)
 ひげの兵隊さん(同、美ち奴)
 1939年
 さらば上海(前記)リバイバルで李香蘭が歌った。レコードをテイチクが発売。
  この年は、古賀は音楽使節として約一年間海外旅行していた。帰国第一作がつぎの歌である。

 1940年
 誰か故郷を想はざる(西條八十、霧島昇)
 目ン無い千鳥(サトウハチロー、霧島昇・ミス・コロムビア)
 新妻鏡(佐藤惣之助、二葉あき子・霧島昇)
 相呼ぶ歌(西條八十、霧島昇・菊池章子)
 なつかしの歌声(西條八十、藤山一郎・二葉あき子)
 血染めの戦闘帽(佐藤惣之助、小野巡)
 乙女でも(藤浦洸、二葉あき子)
 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十、伊藤久男)
 紅い睡蓮(同、李香蘭)
 おもいでの都(佐藤惣之助、糸井しだれ)
 たのしい満州(満州新聞社、李香蘭)

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 1941年
 馬(佐藤惣之助、伊藤久男・菊池章子)
 働こうぜ友よ(同、藤山一郎)
 勤労乙女(同、松原操)
 大和一家数え唄(新日本漫画協会、古川緑波ほか)
 新体制家庭音頭(サトウハチロー、霧島昇ほか)
 九段ざくら(野村俊夫、菊池章子)
 大空に起つ(航空第二軍の歌)(大木惇夫、伊藤久
 男)
 黒き宝(西條八十、李香蘭)
 崑崙越えて(大木惇夫、藤山一郎)
 夜霧の馬車(西條八十、李香蘭)
 そうだその意気(西條八十、霧島昇・李香蘭・松原
 操)
 北京の子守唄(佐藤惣之助、李香蘭)
 思い出の記(大木惇夫、霧島昇)
 1942年
 海の豪族(佐藤惣之助、伊藤久男)
 迎春花(西條八十、李香蘭)
 働く力(国民皆労の歌)(佐藤惣之助、酒井弘)
 陥したぞシンガポール(西條八十、霧島昇)
 総進軍の鐘は鳴る(同、伊藤武雄)
 誓いの港(藤浦洸、霧島昇)
 祖国の祈り(インド人の唄)(藤浦洸、伊藤久男)
 どうじゃね元気かね(サトウハチロー、楠木繁夫)
 南の花嫁さん(藤浦洸、高峰三枝子)
 1943年
 青い牧場(サトウハチロー、藤山一郎・奈良光枝)
 戦いの街に春が来る(西條八十、楠木繁夫・菊池章
 子)
 若き日の夢(同、李香蘭)
 サヨンの鐘(同、同)
 なつかしの蕃社(同、霧島昇・菊池章子)
 夏子の唄(同、渡辺はま子・楠木繁夫)
 1944年
 雲のふるさと(大木惇夫、伊藤久男)
 勝利の日まで(サトウハチロー、霧島昇)
 いさをを胸に(国民合唱・同、楠木繁夫・松原操)
 カボチャの歌(同、楠木繁夫・渡辺はま子)
 月夜船(藤浦洸、波平暁男)
 祖国の花(サトウハチロー、轟夕起子)
 敵の炎(同、伊藤久男・楠木繁夫)
 敵白旗掲げるまで(軍事工業新聞社、楠木繁夫ほか)


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 彼の戦後の曲が、又きらびやかである。「湯の町エレジー」「トンコ節」「赤い靴のタンゴ」「ゲイシャワルツ」「東京五輪音頭」「柔」「悲しい酒」……。1968年には作曲活動の奨励として「古賀賞」を創設し、後進を表彰している。そして日本歌謡曲王といわれるのであった。



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