空席通信
2003.11.21 No.118

歌と戦争 17

 古関裕而、服部良一、古賀政男らの作曲家についてのべたが、彼らとは、少しおもむきが異なる作曲家山田耕筰(1886〜1965)についてもふれよう。古来、日本には偏見があって、作曲家といえば、それはクラシック系の作曲者をさした。流行歌や歌謡の作曲者はいちだん低い存在と見られている。わたしが本信で「少し趣が異なる」山田耕筰の頭にふったのは、そのあたりをちょっと考慮したからである。「芸者ワルツ」を作曲する人も、「ペチカ」を作曲する人も、どちらも作曲家に変わりはない。ところが古関裕而、服部良一、古賀政男らと山田耕筰を同列に論ずるとは、といったクレームがくるのだ。全くばかばかしい状況である。この状況は大衆文学対純文学などにも通底している。ちょっと前までは、マンガ文化は歯牙にもかけられなかったのだ。
 山田耕筰は「日本に現れた初めての本格的作曲家であり、とくに歌曲にすぐれたものが多く、広く親しまれている。オーケストラ、オペラ運動にも力をいれた」(中河原理)といわれてる。
 彼は1956年に文化勲章を受章し生涯にわたって多彩な活動をした。「待ちぼうけ」「からたちの花」「この道」「赤とんぼ」など、彼の作曲した歌は、誰もが一度は歌っているだろう。日本で最初の交響楽団・東京フィルハーモニー(1915)、N響(最初の名称は新交響楽団)の母体の日本交響楽協会を組織し(1919)、1936年にはフランスからレジョン・ドヌール勲章を授賞された。
 いわゆる人名事典や人物事典は何種類もあるが、それらで「山田耕筰」の項をあたると、ざっと以上のようなことが記載されている。それが事典であるいわれだといえば、それまでだが、それらの記載はハレの舞台でのことを羅列しているにすぎない。
 台湾の作家呂赫若(1914〜50)について論じている垂水千恵は、耕筰のことを今更説明するまでもない人物であるが、と断った上でつぎのようにのべている。
「日本初の交響曲、歌劇の作曲、日本歌劇協会、日本交響楽協会設立など、日本の近代音楽の基礎を作った人物といえよう。しかし、1032年の満州国建国の際には「大満州国国歌」を作曲するなど、だんだん軍部との距離を狭めていく。もちろん、戦局の影響を受けたのは山田一人ではない。1937年の日中戦争の全面化はレコード検閲の強化、時局歌の制定、などの形で音楽界全体に影響を及ぼした。ただ、その中でも一際精力的な活躍を見せたのが、山田であり、楽壇を新体制にあわせて再編、組織化していこうという動きの中で、警視庁と密接な関係を持つ演奏家協会を設立、会長に収まったり(1940年7月)、ナチスのKDFに範を取った演奏家協会音楽挺身隊を結成、隊長に就任したり(1941年9月)して、着実に権力を掌中にしていっている」(『台湾の「大東亜戦争」』。214ページ)
 恵泉女学園大学の学生である森脇佐喜子は『山田耕筰さん、あなたたちに戦争責任はないのですか』(1994)という長い題名の著書の中で、彼に関心を持った経緯をつぎのようにのべている。
「あかとんぼ」「からたちの花」などの歌から「叙情的なイメージがわきあがってくる」。彼は「実に多くの作曲を手がけた。いや、単に作曲を手がけただけでなく、オペラ、交響曲、校歌、編曲……というような「音楽」と名のつくものにはほとんど関わっており、まさに日本近代音楽の父といってもよいほどの功績を残したのである。この山田耕筰と「戦争」とは一見結びつかないような気がする。私も初めはそうであった。というよりは音楽と戦争とは全く別の問題であると思っていたのである。山田耕筰の作品目録を見てみると、妙に違和感のある題名が目に付く。「カチヌケニッポン」「立てや非常時」「米英撃滅の歌」……。「ああ山田耕筰も戦争中にはこうした曲を書かされたのだな」と、最初のうちはあまり気にもとめずページをめくっていたが、どうもおかしい。余りにもそうした曲が多いのである。一体どのくらいあるのだろうと気になって、目録からそれらしいタイトルのものを年代も考慮に入れながら書き抜いてみた。すると697曲の声楽曲中、実に107曲もが戦争に関わる歌であった。もちろんこれは私が内容を判断して選んだものなので、これよりも少ないかもしれないし、反対にもっと多いかもしれない。ともかく私は非常に驚いた。そして、これほどの曲数は、どうも無理強いをされて作曲したものではないらしい、と思った。「書かされていた」にしては多すぎる、ここには山田耕筰自身のもっと積極的な参加があったのではないか──山田耕筰は戦争中、一体何をしていたのだろうか? 山田耕筰はたしかに偉大な作曲家であったが、一民間人である。ところが、戦争中の彼は、進んで軍服を着て軍刀(日本刀)を身につけていた。「音楽挺身隊」という戦争協力の団体を自らつくり、兵士の慰問や軍需工場に訪問と、熱心に活動していたのである。作曲家という職業を最大限に生かして、流行歌を、唱歌を、あらゆる戦争讃美の曲を作り、戦争に協力していたのだった。」
 山田耕筰の戦時下の言動資料はかなりある。枚挙にいとまがない、といっても過言ではないだろう。森脇の文中にもあるように、軍人になったつもりで軍装し、腰に軍刀をつるして行動したというのだからすごい「兵隊ごっこ」である。これは、1938年に陸軍報道部の嘱託として漢口攻略戦に従軍した際、軍から将官待遇を受けたのが遠因かもしれない。「荒地」の詩人木原孝一は、周知のように工兵隊の兵士だったが、軍刀をつり下げて出歩き、「工兵が何で軍刀を」と陰口をされたという。これは詩人Yからの伝聞である。無邪気ということでいいのだろうか。白紙で召集された報道戦士の文士たちも、軍刀をつるしたのである。このあたりのことは拙著『日本文学報国会』や『文化人たちの大東亜戦争』を見て欲しい。
 ここではつぎのような山田の一文を紹介しておこう。
音楽の総てを戦いに捧げん     山田耕筰

 山本元帥の壮烈なる戦死、アッツ島将士の勇敢なる玉砕、一億国民は感奮し魂の底から憤怒に燃えて必勝の誓いを固めている。
 楽壇諸君の努力については私もよく認めているけれども此の峻烈な戦局の下にあってはなお一層の反省を加え、勇猛心を振るい起こさねばならぬと信じる。楽壇から平時的な生活態度や微温的な思想傾向を除き去り、楽壇を全く戦争目的のために統一し、心を一にして邁進することが急務であると痛感するのである。
 音楽は戦力増強の糧である。今は音楽を消閑消費の面に用いてはならない。国民をして皇国に生まれた光栄を自覚せしめ、勇気を振るい起こし、協力団結の精神を培い、耐乏の意志を強め、戦いのために、戦時産業のために、不撓不屈の気力を養うことが、音楽に課せられた重要な任務である。平時的な音楽は葬られるのが当然である。
 顧みて楽壇人の生活態度はどうであろう。戦いをよそに芸術を弄ぶような考えがまだ残っているのではないか。産業戦士の中に飛び込んで真の戦時音楽を産業戦士とともに体験するというような烈しい気迫は欠けてはいないか。おさらい的な演奏会や社交的な演奏会や皇民的意識のはっきりしない演奏会が今なお街頭の立て看板に見られるのではないか。勿論楽壇の大勢は決戦意識の昂揚と戦力増強の面に向かって動いている。しかしたとえ少数でもまだ呑気な者や利己的な者が存在していることは楽壇の恥辱である。
 戦争の役に立たぬ音楽は今は要らぬと思う。皇国の光となるような永久的な文化の建設が必要なことはいうまでもないが、目前の戦争に勝ち抜いてこそ永久的な文化も考えられる。「国破れて文化あり」では仕様がない。いや国が破れたら文化も一緒に潰れてしまう。古代ギリシャの文化は古代ギリシャと共に滅び、古代ローマの文化は古代ローマと共に滅びた。日本が世界無比の古代文化を今日に伝えているのは、畏くも万世一系の皇室のこと、国家の尊厳が一ごうもおかされることなく三千年の光輝ある歴史を重ね来ったからである。日本の文化は皇国と共に栄えたのであって、皇国と切り離したら日本の文化が有るべき筈は無いのだ。今我々は此の大戦争を通じ曠古の天業を翼賛史奉っている。此の大戦争にかちぬかなければ日本の文化はない。
 我々が今日まで築き上げて来た日本の音楽は今日の戦局にこそ其の全力を捧げ、以て皇国の光輝を発揮しなければならないのだ。
 連合艦隊司令長官は最前線に進まれ御楯となって散り給うた。山崎部隊長以下二千数百の勇士は北海の絶島に十倍の敵と奮戦し全員国に殉じられた。楽壇の一人一人は山本元帥の心を心とし、一命を国に捧げる覚悟を示さねばならぬ。その覚悟を音楽の実践によって現わさねばならぬ。個人の生活などに何の思慮を費やす事があろうか。我々は戦時下の正しき皇民道に向かって誠心誠意邁進し、皇民たるに恥づる所なき力強い音楽活動を必死の努力で展開して報国の誠を効したいと思う。
(『音楽之友』1943・7月号)
 1939年12月、東京の帝国ホテルで、ある宴会が催された。映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」(西條八十・万城目正)を歌って一躍人気スターになった松原操と霧島昇の結婚披露宴である。デビューした時、松原は「ミス・コロムビア」と称していた。この時の媒酌人が山田耕筰であったことは、あまり知られていない。
 霧島昇はボクサーになることが夢だったが、その才能が無いことを知り東洋音楽学校に入学して歌手をめざしたのであった。山田と霧島が作曲者・歌手として交錯するのは1940年の「燃ゆる大空」(佐藤惣之助)だ。山田が霧島の結婚媒酌人になったのは、恐らくコロンビアからの要請だろう。これは全くの想像だが、山田耕筰は健康と護身のためにボクシングジムに通っていたから、そこで両者が邂逅したのかもしれない。
 流布している「旅の夜風」は霧島が歌詞を間違えて歌ったものだが、佐藤惣之助は特にクレームをつけなかったので、それが定着してしまっている。
 さて山田耕筰の戦時歌謡曲だが、「697曲の声楽曲中、実に107曲」(森脇佐喜子)ある、というが、わたしの資料では以下のような曲である。これは歌謡曲と声楽曲の差だろう。

山田耕筰 戦時下歌謡曲

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書込み文字は四家文子の筆跡
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 1932年
  肉弾三勇士(中野力・江文也)
  走れ大地を(斎藤龍・中野忠晴)
  日本国民歌(中川末一・同)
 1937年
  青い空見りゃ(北原白秋・松平晃)
  我が家の唄(国民歌謡。西條八十・松原操)
  航空愛国の歌(澤登静夫・中野忠晴)
 1938年
  航空唱歌(国民歌謡。西條八十・松平晃、松原操)
  凱歌(国民唱歌。川田順・?)
  航空唱歌(国民歌謡。西條八十・?)
 1939年
  のぼる朝日に照る月に・銃後家庭強化の歌
  (愛国婦人会。落久保音市・松原操)
  大陸日本の歌(北原白秋・?)
 1940年
  燃ゆる大空(佐藤惣之助・霧島昇、藤山一郎)
  長城跨いだ(柴野為亥知・?)
  拓けよ満州(北原白秋・?)
  満州興国の歌(同・?)
  蘭のお花(同・?)
 1941年
  三国旗かざして・日独伊同盟の歌
  (大木惇夫・伊藤久男、霧島昇、二葉あき子)
  なんだ空襲(大木惇夫・霧島昇ほか)
 1942年
  連峰の雲(国民合唱。尾崎喜八・?)
  御民の歌(同。大木惇夫・?)
 1943年
  アッツ島血戦勇士顕彰国民歌
  (裏巽久信・波平暁男ほか)
  落下傘部隊進撃の歌(同。堀内敬三・?)
 1944年
  サイパン殉国の歌
  (国民合唱。大木惇夫・木下保、千葉静子)

 山田耕筰について、避けて通れない問題は敗戦後に山根銀二と新聞紙面で取り交わした、いわゆる「戦争責任論争(?)」である。?マークをつけたのは、論争とは呼べないと思うからだ。舞台は1945年12月末の「東京新聞」紙上であった。以下に転載するが、その前に、山根銀二の戦時下の表現を見ておこう。

 社団法人日本音楽文化協会は1941年11月29日に設立された。内閣情報局の講堂で開催された発会式には、東条英機首相が出席している。全日本の音楽関係者が「欧米模倣ノ域」を脱却して「一元的組織ノ下ニ皇道翼賛ノ至誠ヲ尽スベキ決心」を固めて結成された協会の副会長は山田耕筰、理事に山根銀二がいた。こうして「日本の作曲界、音楽批評界、演奏界は非音楽的荒廃に向かってひたすら顛落してゆく」(秋山邦晴)といわれている同協会の設立発起人には、大木正夫、清瀬保二、小森宗太郎、園部三郎、辻荘一らとともに山根銀二も名をつらねていた。
 山田耕筰の戦時下の言動資料は枚挙にいとまがないとのべたが、山根の戦時下の言動資料も、当時の音楽関係紙誌にあたれば、かなり見つかる。『音楽評論』『音楽新潮』『月刊楽譜』『音楽世界』『音楽倶楽部』『ディスク』『レコード音楽』『音楽新聞』『国民の音楽』などだが、政府の経済統制政策で新たに登場する『音楽之友』『音楽公論』『音楽知識』『音楽文化』『日本音楽』『音楽研究』でも散見する。最後の『音楽研究』は日本音楽文化協会と大倉音楽文化研究所が協同編集して年二回発行した(?)ものだが、創刊号は1943年12月8日に発行されるという広告があり、その広告に執筆者として山根の名前があるが、私はいまだに見つけていない雑誌である。


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 アジア・太平洋戦争が勃発すると、日本音楽文化協会は戦時対策特別委員会創立準備会を開催して(1942年1月10日)7項目の諸事業を決定した。
 1 愛国詩歌作曲献納
 2 陸海軍省へ行進曲の献納
 3 上記の献納と共に献納演奏会の開催
 4 大東亜共栄唱歌集の編纂
 5 音楽報国隊を全国主要都市に組織
   し、山村僻地へ巡回移動演奏班の派
   遣
 6 愛国音楽大会の開催
 7 大東亜共栄圏内へ代表的音楽団の派
   遣
 この戦時対策特別委員会の委員の中に堀内敬三、山田耕筰、野村光一、中山晋平などともに山根銀二の名もある。

『決戦楽曲』制作の意義     山根銀二

 悽愴苛烈な決戦は尚連続してをり、敵米英は不遜な野望を逞しうし、この尊厳な本土の空襲の機を覗っている。銃後国民は前線将士百錬の精強に絶対の信頼を置くとともに銃後に於ける鉄壁の構えをより一層整えなければならぬ。そして敵の空襲をうけた場合にも我々は断乎として必勝信念を堅持し、民心の動向を指導しなければならぬ。
 音楽者の使命には多々あろう。或いは一隣組員として防空に馳せ、或いは各種学校教職員として訓育に当たり、或いは又生産現場の音楽指導員として挺身する等。しかし我々には更に音楽者としての任務がある。特に空襲下に於ける行動は極めて重要である。音楽が他のあらゆる芸能に比し、国民の感情に直接訴えかけこれを慰撫激励する力の強いことを考える時、これが素材たる楽曲の内容と、その取り扱いに充分慎重を期さなければならないのである。
 まず内容の点から見ると国民の士気を鼓舞し、不屈の闘志を養うべく、健全明朗、勇壮、活発、静謐、軽快等の言葉で現せるようなものが必要である。此等の表現は既に多くの人が口にし、又その具体的な内容に就いても論じられてはいる。しかし従来果たして真にその美しい形容語に合致する作品が多くあったろうか? 確かにそれに当て嵌まる相当すぐれたものも若干あったが、それは質量共に未だ充分ではない。我々はもっと前進しなければならぬのだ。
 我々は忠誠心の溢れた愛国歌曲を生み出さねば居れぬ止みがたい熱情を堅持している。作品は作曲家の自らなる表現である。しかし今日に於いてはただに個人・作曲家のみの責任に於いて愛国歌曲を要求するに留まらず、それは演奏家・評論家等一切の音楽者の共同責任でなければならないと思う。かくして生まれた愛国楽曲も、最も効果ある方法によって国民に与えるものでなければ、所期の目的を達成し得ないであろう。爰に於いて移動音楽・放送・音盤等は勿論、各種の音楽機関を総動員し、真に必要な方面に、しかも最も有効に洩れなく供給し、国民の心に潜む愛国の血潮を湧き立たせ、戦力の根基に培う事が要請されるのである。それがためには全音楽人の奮起は絶対要件である。音楽者全部ががっちり組んで即刻挺身しようではないか。
 今回、日本音楽協会が、特に空襲下の国民を慰撫激励するために、超非常時用決戦楽曲の制作を企図し、本年初頭以来作曲部会員を動員し、計18曲(内12曲は当選曲、6曲は編曲委嘱)を制定したのは斯かる趣旨に基づいている。これは音楽挺身隊の整備拡充と共に、空襲対策の一端であり、今後尚此の方向に向かって色々の企画をたてる予定である。
(筆者は日本音楽文化協会常務理事)
(『音楽文化』1944年5月号)
超非常時用決戦楽曲18曲の内容は、調べたが、その全貌は不明だった。




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