空席通信
2004.1.22 No.119

歌と戦争 18


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『音楽公論』43年4月号の「国民音楽の理念」、『音楽文化』43年12月号の「如何にして音楽を米英撃滅に役立たせるか」などからも、山根の言動を紹介したかったが、いずれも座談会での発言であるため割愛した。44年5月号の『音楽文化』に「『決戦楽曲』制作の意義」が発表されている。これも割愛した。
 さて、1945年12月23日、山根銀二のつぎのような「楽壇時評」が、以下に述べるような社会状況下の東京新聞に掲載された。彼は同紙の批評欄を担当していたのである。同紙からその文を転載する前に、そのころの社会状況を通覧しておこう。

 戦に敗れ、神奈川県厚木飛行場に、占領軍が到着したのは1945年8月28日であった。アメリカのテンチ陸軍大佐の率いる150名である。翌々日、占領軍最高司令官マッカーサー元帥が着任する。パイプをくわえて機上からタラップを降りてくる元帥の映像を、永久に忘れない日本人も少なくなった。「天皇及ビ日本政府ノ国家統治ノ権限」は、この時からマッカーサー元帥に従属したのである。
 これより前の8月18日、内務省は(時の警視総監は坂信弥)地方長官に「外国駐屯軍慰安施設等整備要項」を通達した。そして大蔵省主税局長の池田勇人(後の首相)に3000万円の資金を調達させ、日本女性の貞操の防波堤として占領軍兵士を対象にした売春施設を準備する。この指令が、警視総監個人の発案によるものか、それ以外の協議があったのか、といった事は未調査である。いずれにせよ、敗戦の3日後というスピードは拙速だったのだろうか、適切であったのだろうか、といった論議は為されなかった。こうして国営の売春施設協会RAAが銀座に設立された(8月26日)。この特殊慰安施設協会が開設した東京大森の「小町園」(8月27日開設)と、そこで働いた(?)日本女性たちのことは、もうすっかり忘れられている。韓国や東南アジアの女性たちの、いわゆる従軍慰安婦問題は今でも社会的関心を喚んでいるのに、日本の彼女たちのことは俎上にものぼらない……。
 裕仁天皇は9月27日、マッカーサー元帥を訪問し、その際、歌人・斎藤茂吉に「ウヌ! マッカーサーノ野郎」といわせた衝撃のスナップ(天皇とマッカーサーが並んで立っている)が撮影され、新聞に発表される(掲載は29日。日本はその新聞を発売禁止にし、それを占領軍に咎められて急遽禁止解除する)。天皇と元帥の会見内容は、いろいろといわれているが、未だに全容が明らかでない。この明らかでないということは何を意味するのか。何も意味しないわけはない。
 占領軍が京都に進駐したのは、その翌々日の29日であった。性犯罪の発生を危惧した京都市は25日から翌月6日まで、女学校、女子専門学校などを臨時休校にした。
 松竹映画「そよかぜ」が上映されたのは10月11日だが、その主題歌「リンゴの歌」(サトウハチロー・万城目正)がヒットするのは翌年になってからだ。
 10月30日、占領軍は教職員に関する覚え書きを発令した。軍国主義者、超国家主義者の調査、資格決定を実施し、追放するという内容である。
 12月8日、東京神田の共立講堂で「戦争犯罪人追及人民大会」が開催された。共産党が中心になって主催したものである。敗戦直後から頻出した、追及する側の自らの罪は棚上げにして、他者の罪だけを追及するというパーターンが、この時から確立する。人民大会の主張する他者とは身内でない者たちのことであった。今にして思えば、全くの茶番劇だったが、天皇を筆頭に千人以上の戦争犯罪者名簿を発表して、話題になった。前日には山下奉文大将の戦争犯罪に対して死刑が宣告されいる。BC級戦争犯罪人裁判が横浜地方裁判所で開廷したのは17日であった。

 山根の文章は、このような状況下に発表された。(一部の漢字や仮名遣いを替え誤植と思われる箇所は加除している)

 資格なき仲介者   山根銀二
  本紙11月17日号に進駐軍の一青年音楽家が日本の古典音楽の伝統に触れるため山田耕筰氏の斡旋を求め、同氏はこれを機に音楽を通じての融和交歓に乗り出すことになった由を報じている。
 この記事は幾分なりとも楽壇を知っておりその成り行きに興味を抱いている人々に何か割り切れぬ印象を与えた事は否めない。それは一体どういう訳であろうか。
 進駐軍音楽家が日本の音楽について積極的に興味を示すのは結構なことであり、また日本の音楽家がこれを機会に文化的交歓に乗り出すのも誠に喜ばしいことなのだが、それを仲介する人物が人もあろうに昨日までアメリカ人並びにアメリカ音楽の野獣性なるものを叫号し、これを不当に汚し続けてきた巨頭であり、憲兵及び内務官僚と結託して行われた楽壇の自由主義的分子並びにユダヤ系音楽家の弾圧に於いても軍の圧力を借り、一般音楽家を威迫しつつ行われた楽壇の軍国主義化に於いても、更にまたこれらの業績の陰を縫ってぬけぬけと行われた私利追及に於いても、何れも典型的な戦争犯罪人と目される山田耕筰氏であることが我々を驚かせるからである。
 斯かる人物がその戦争犯罪を隠蔽せんがため如何に文化交歓を口にするとも、それが額面通り実現されるとは誰も信じまい。おそらく日本文化の正しい姿は歪められ、又米人音楽家の純真な意図も我々音楽家には伝えられないで終わるだろう。
 日本の楽壇は未だ狭く且つ弱い。そして其処には極く貧弱な人物が代表者としての資格を与えられるのが習慣だが、彼等はその名誉を楽壇乃至社会の為使用せずに自己の利益の為に利用する反公共的性格の所有者であることが又遺憾ながら慣わしとなっている。山田耕筰氏についていえば、例えば同氏はかつてソヴェートに相当の待遇を以て迎えられたが、日ソ楽界の交歓は一体どれ程行われたろうか。少なくとも我々の側にはソヴェート音楽については何等真実のことは語られず、僅かに聞き得たのは同氏が如何にソヴェート楽壇で尊重されたかという誇大な自己宣伝と、いずれソヴェートは反革命によって覆されるだろうとの予言であった。
 同氏側近者の言によれば同氏は実は別個の任務でソ連に渡ったという話であり、これが真実とすれば日ソ両楽壇の交歓などということは初から薬にしたくも無かったわけである。与えられた日本の音楽代表者としての名誉は同氏自身の手によって斯くの如く無残に蹂躙されたのである。
 斯かる醜行は日本音楽家全体の恥辱として今後絶対に阻止され、二度と再び繰りかえされることがあってはならないと私は思う。前記米軍音楽家がその後如何なる結果を得たか知りえないが、願わくは斯かる仲介者に煩わされず、日本文化の正しい把握に成功されることを願う次第である。
1945/12/23

 前に紹介した山根の「『決戦楽曲』制作の意義」や、戦時下の彼の他の言動に通じていれば、この山田への批判文に、自分のことを棚に上げて何を白々しいと思うのだろうが、当時の一般大衆は、よほどの音楽通でないかぎり、{山根銀二(1906〜82)が日本の音楽評論の分野で先導的な役割をはたし、戦後は音楽文化の民主化に尽くした、などといわれているが(『コンサイス日本人名事典』)}山根銀二の名前など知らないだろうから、(それにひかえ山田耕筰の名は知れ渡っていたから)、鋭いことをいう人もいるものだと、当時は受けとめられただろう。保身欲とポツダム宣言への過剰反応で多くの日本人が喉に刺さった骨みたいに戦争犯罪について考えていたのだから。
 山根の文が発表されて二日後に、東京新聞は、つぎのような山田耕筰の反論文を掲載した。ジャーナリストとして最低の役割だけは忘れていなかったのである。しかし同紙の良心もそこまでであった。これではホテルみたいに部屋を提供しただけに過ぎない。反論の紙面を与えて、公平さを装いながら、それでおしまい。日本のジャーナリストは所詮この程度である。
 このあたりの経緯は美術界での藤田嗣治と宮田重雄の間で交わされた責任論争やその場を提供した朝日新聞と双生児である。宮田重雄(1900〜71)は医者で画家だったが、占領軍が藤田や鶴田吾郎(「神兵パレンバンに降下す」などの戦争画がある)を窓口にして日本美術についての調査を始めたことに怒っての責任論争であった。この宮田も山根と同じように自己の戦時下の言動は棚上げにして藤田を弾劾している。そのへんのことは拙著『玉砕と国葬』で触れたから割愛する。
果たして誰が戦争犯罪者か──山根氏に答える   山田耕筰
 山根君! 私は今あなたの楽壇時評を拝見して唖然としています。私は然しあなたの挙げられた個々の非難に対して細々とお答えする必要を認めません。が、あなたが私を戦争犯罪人と断定された所論に対しては一言せざるを得ません。成る程私はお説通り戦時中、音楽文化協会の副会長として、時の会長徳川義親候を補佐して戦力増強志気昂揚の面にふれて微力をいたして来ました。それは祖国の不敗を願う国民としての当然の行動として、戦時中国家の要望に従ってなしたそうした愛国的行動があなたのいうように戦争犯罪になるとしたら日本国民は挙げて戦争犯罪者として拘禁されなければなりません。
 仮にあなたの所説を正しいものとすれば、あなたこそ私以上の戦争犯罪者であるという点に気づかれませんか。そもそも音楽文化協会は誰の手によって作られたのでしょう。それは新体制運動の奔流に乗って、あなたのヘゲモニイによって作られたものではなかったでしょうか。そして私も徳川候も単なる置物として会の代表者という地位に据えられたに過ぎません。
 何故ならば会の定款は理事会に絶対の権能を与えわれわれは理事としての資格も無く、理事会に発言する自由すらも正式にあたえられないというようなふしぎな形に仕組まれていました。(本信12号で割愛した同会の定款は47条まである。上梓する際は全文を紹介しよう・櫻本)しかもあなたは常務理事として総務部長の要職に就き、会の実際上の主権者として音文運行の実権を掌握された力の持ち主ではありませんか。
 あなたのいう「ユダヤ楽人弾圧」問題も、決して彼等の演奏や個人教授を禁止したのではなく、戦争遂行上不便という国家の要望を楽壇的に調整按配して「戦時中外国音楽家と協演せず」という会の申し合わせとして発表したにすぎない事は時の総務部長としてあなたの十分に知悉して居られる所です。
 各方面で人を戦争犯罪者呼ばわりする傾向がありますが、これは誠に嘆かわしい現象ではありませんか。
 これは「お前達の誇りとした武士道というものはそんなにも穢く惨めなものか」と、世界から嘲笑をうけるに役立つ以外の何ものでもありません。此の戦争を阻止し得なかった吾々日本人は一人残らず戦争に対して責任がないとはいえません。そうした吾々が果たして同胞を裁く資格があるでしょうか。
 山根君! 国は敗れ国民は茫然自失しています。今こそ吾々音楽家は一切の私情を去って一丸となり敗亡日本を蘇活さす高貴な運動を展開すべきです。楽壇を徒に怒罵し楽壇人を誹謗するあなたの習癖を捨てて下さい。そして此の哀れな祖国の姿を静思して下さい。
 あなたのみが正しく、あなたのみが賢明であるというような稚気と強がりを棄てて楽壇を愛撫する心を取り戻して下さい。これは私一人の願いではありません。恐らく真面目な楽壇人全部の願いであろうと思います。
1945/12/25
 この山田耕筰の反論に対して、山根銀二は、止めを刺すように、山田耕筰が隊長として活躍した音楽挺身隊のこと、戦争犯罪人として占領軍に検挙された笹川良一を社長にして会社を立ち上げ、そこでの実力者として軽音楽界を支配する山田のことなどを二回にわたって弾劾した。
 しかし、二人の論争は、表だった反響もなく消えてしまう。そのことを今更取り上げてもせんないだろう。あえていえば、無邪気な日本人はおしなべて戦後責任をはたしていないことがこの事例からも明らかだ、ということだろう。この日本人の無邪気さから派生するさまざまな戦後問題は、未だに放置されている。

(以下次号)





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