空席通信
2004.6.4 No.121

歌と戦争 20

 日本放送協会が、戦時下に発行していた月刊誌に『放送』がある。書影を(11)で紹介しているから、記憶されていることだろう。
 この月刊誌は「印刷を通じて電波の消散性を補足し、放送力点の浸透を図り、皇国ラジオとの共同線内に新たなる活動を試み、一方また800万ラジオ聴取者と放送局とを結ぶ強力なる紐帯たらしめんことを欲する。言い換えれば本誌は右にペンを持ち、左に電波を翳す最も尖端的な異色ある時局雑誌」(1944年4月号の巻頭言「新行進の日に」より)ということで、戦局が不利になり経済状況がどん底へと逼迫して、出版界も出版数が極端に激減していった戦争末期にも、廃止されることなく発行された。
 必勝態勢の国民生活に不要な奢侈的娯楽的な出版物は用紙の配給もなく、どんどん消えていった状況下で、発行を継続したことは(継続できたことは)、独占的な内容の雑誌であり、当局の意に添った国策迎合雑誌であったからだろう。1945年5月に1ヶ月遅れで4月号が発行されたが、それが戦時下での最後の発行のようだ。(「ようだ」などと歯切れが悪いのは、資料不足のいつもの嘆き節である)
 戦時経済の悪化は、本にする紙も、印刷する機械も、印刷に従事する労働者も、何もかもが不足して、本や雑誌どころか楽譜も、以前のようには発行できなくなる事態になった。しかし、演奏するのに楽譜がなければ、何もできず、苦慮のすえ、画用紙に謄写版で印刷した楽譜が出現する。
 作曲家や作詞家が、自己の業績保存のために、例えば『○○作曲集』などとして印刷しておく場合のほかは、楽譜そのものは、消耗品のような取り扱いであるのかどうか。そのあたりのことは演奏家や歌手に確認していないけれど、もしそうなら、演奏の際に使用してしまえば、後は用済みだから、簡単な印刷の楽譜で十分であったかもしれない。現に、わたしが集めた楽譜の中には、1930年代のものや1942年代の、景気が悪くなかったころのものもあり、それらの多くは「非売品」と印刷されていて、実用的な決して豪華なものでない楽譜である。
 音楽関係の出版社が発行した楽譜の中には、一流画家の装幀になるものもある。それらは有料で、一般にも売り出されたのだろう。

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 たとえば藤田嗣治装幀の『索敵行』(1943年9月・新興音楽出版社)は4ページで定価は31銭である。『索敵行』は松竹映画「愛機南へ飛ぶ」(1943年)の主題歌。この映画は「情報局の一億国民必見映画」として宣伝され、フィルム数も特別の増配を受けて一日三回も上映された。「日の丸鉢巻きしめなおしぐっと握った操縦桿……」とテンポの良いリズムで、万城目正の傑作である。作詞者の野村俊夫は古関裕而と組んで「アメリカ爆撃」(コロンビア・1943年)なども発表しているが、この歌の楽譜は見つからなかった。古関裕而がドイツの「イギリス爆撃」を模倣して作曲したもので、傑作といわれているが、詳細な内容は不明である。

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 楽譜は実用的なものとのべたが、謄写印刷のものは戦争末期のものばかりである。例外は当局が直接発行した楽譜で、情報局が1945年2月11日に発行した『必勝歌』(杉江健司・大村能章)は、一応二色刷の活版ものである。当局自前の出版ものには用紙の割り当ても制限もないのである。
 この『必勝歌』は国民合唱の最後の部類に属するものだが、さかんに放送されたからしっかり覚えている。歌詞は三番まであり、その二番の歌詞を紹介しよう。


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 天皇の 御楯と誓う真心は 留めおかまし いのち死ぬとも ああ 陸海に大空に 高く雄叫ぶ 軍神の 後に続くぞ我等また 万朶の花と咲き咲かん

 右に紹介した楽譜「海国男児」(笹沢美明・名倉晰)、「軍旗とともに」(中勘助・片山頴太郎)の二点は、そのような謄写印刷の楽譜。正確にいつごろの楽譜かは不明だが、戦争末期のものであることは間違いないだろう。「軍旗……」の方は中勘助作詞のめづらしいもので、バリトンの独唱、男声・混声合唱及び管弦楽と注意書きつきの「交声曲」である。11ページあり、謄写印刷にしてはかなり明瞭に印刷されている。歌の内容は、1943年3月3日に敵機に撃沈された日本の舟艇乗員が救命ボートで脱出し、日の御旗を守りながら苦難のすえに島に漂着する過程を歌い上げたもの。実際にあったことなのかフィクションなのか。その辺のことは解らない。
 笹沢美明の歌は「海の日本 海こそは 海国男児のゆくところ あらし吹こうと なんのその 船はくろがね 潮風に なびくぼくらの日章旗」といった少国民向けのもの。放送され、歌われたものだろうが、わたしには聞いた記憶がない。(この資料は放送局関係の一括資料にまじって入手したものだから放送に関係しているだろう、と推測できる)

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 1944年の8月ころから1945年の春ころまでの『放送』には、あまり知られていない楽譜が掲載されている。服部良一の戦時歌謡リストは、14号に掲載したが、それにもれている「作業服」は、『放送』でみつけたもの。深尾須磨子(1888〜1974)は、戦時下の自己の詩業(戦争翼賛)を恥じ、猛省したのか、ベトナム救援運動の街頭デモに参加したり、日米安保条約破棄の運動を展開したり、恥も外聞も無く街頭のデモに進出した。しかし、戦争翼賛の傷跡は大きすぎた。戦争翼賛も反戦運動も、その時々の時流に乗ったものとしか見えない。
 ここで戦時下での最終号と思われる1945年4月号までの『放送』に収録されている楽譜を転記しておこう。(そのメモをしっちゃかめっちゃかの資料の山の中に紛失したので、書庫へ出掛けて再調査し、後日掲載する。こんな時書庫が身近にないのは不便だ!)

 テレビの歌謡番組などを視聴すると、戦時歌謡は敬遠されて、ほとんど登場しない。いつごろからの現象か、特に調べたことはないが、少し前までは、それなりに登場していたものだ。最近は、めっきり聴けなくなった。たまに懐メロ番組で、あたりさわりのない歌を聴くが、戦時歌謡そのものといった、たとえば「比島血戦の歌」などは、絶対に登場しない。
 日本流行歌謡史などと銘打った番組でも、十数年におよぶ戦時下のものは、さらっと通り過ぎてしまう。歌が現在にふさわしくないからだろうか。敗戦から現在まで、リアルタイムで生きてきた者からいえば、いわゆる「平和憲法」が、様々な日和見的解釈によって運用され、警察予備隊が自衛隊になって外国にまで派遣(進軍?)された。かなり右傾化された日本になり、血戦ものの歌謡が登場する地盤は準備されたと思うのだが……。いっぽう、歌そのものもすっかり変化して、かつては字余り歌詞などと軽蔑されたようなものが堂々と闊歩している。そして直立不動で戦時歌謡などを歌う歌手が少なくなった。少子化現象で、懐メロを聴く層は増えているというのに。
 懐メロ番組で気づくことは、歌謡史の戦後が、並木路子の「リンゴの歌」で始まることだ。確かに、その通りだろうが、わたしの戦後歌謡は、「東京の花売り娘」や「星の流れに」から始まる。門田ゆたか(1907〜75)の作詞した「東京の花売り娘」には「粋なジャンバーのアメリカ兵の影を追うよな甘い風……」なんてところがあるが、岡晴夫の歌声が上原げんと(1914〜65)のブギウギのリズムにのって軽快だ。津軽出身の上原の本名は治左衛門と侍みたいだが、1937年以来のコンビ岡晴夫と、もちつもたれつで歌謡界のトップに立った人情味のある苦労人である。キングの「東京の花売り娘」のレコードは1946年6月に発売されたが、作詞者は「佐々詩生」と門田名になっていない。門田がビクターの専属作詞家であったからだ。東京の街頭に花売り娘が出現するのは、この歌が流行してからのことで、歌が作られた当時は、実際には存在していなかった。
「東京の花売り娘」は、最初は時雨音羽(1893〜1980)が作詞するはずだった。時雨といえば「出船の港」や「鉾をおさめて」の作詞者として名を残しているが、「十億の進軍」をはじめ、たくさんの戦時歌謡がある。「出船の港」は雑誌『キング』の創刊号(1925年)に掲載された「朝日をあびて」が最初の題名だった。なんで「出船の港」になったのか、経緯は知らない。これを歌った藤原義江が「ドンとドンとドンと波乗り越して」を「乗り越えて」と間違って歌い、それが定着してしまった。時雨音羽は「え」と「し」の違いは天と地ほどの違いだとこだわったが、人気には負けてしまって、郷里に建立された「出船の港」の歌碑には時雨の直筆で「乗り越えて」とある。
「東京の花売り娘」を時雨が作詞していたら、どんな歌になっただろうか。
 門田ゆたかは、藤山一郎が歌う「東京ラプソディー」やハワイアン「小さな竹の橋」の作詞者でもある。「最後のほまれ」「ジャワのマンゴ売り」「ロッキー越えて」「海は日本晴れ」「坊やお聞きよ」「女子勤労報国隊の歌」「緑の小径」「モンペさん」「赤道戦線に陽は落ちて」「戦闘帽の歌」などの戦時歌謡を作詞している。「最後のほまれ」の「ほまれ」は、タバコの誉である。「ジャワのマンゴ売り」は灰田勝彦が歌った1942年のヒット曲。「緑の小径」は東宝映画「ハナ子さん」(1943年)の主題歌で、灰田が歌っているが、もう一つの主題歌「お使いは自転車に乗って」の轟夕起子のものがヒットした。
「星の流れに」(清水みのる・利根一郎)も、流行するまでに紆余曲折があった。菊池章子が歌っているが、最初は淡谷のり子が歌う筈だった。「こんな夜の女の歌を、わたしが……」と淡谷はことわったそうだ。「夜の女」は街頭に立って肉体を売った女性の総称。「お嫁に行くなら」(サトウハチロー・北村輝)で歌手デビューした菊池章子(1924〜)は、松竹映画「愛の暴風」(野村浩将監督・1940年)の主題歌「相呼ぶ歌」(西條八十・古賀政男)で人気歌手になったが、十六歳の少女だった。彼女の戦時下の挿話があるので紹介しよう。
コロムビアの菊池章子は、美しい喉と巧緻な技巧で、音盤界の驚異とさえ言われる天才少女歌手としてあまりに有名である。しかし、音盤で聞く彼女は少女というべく如何にも大人びているが、あれでやっぱり純情そのものの少女なのである。昨年、将兵の慰問に遠く仏印まで出かけて少女にも似ぬ大手柄をたて、しかも帰途には大東亜戦争勃発の危地をさえ経験して帰って来たので、爾来、彼女の純情は将兵への感激と感謝に注がれている。先日も知人が傷痍の身を某陸軍病院にて保養しているのを見舞った時、広い庭園に秋の日差しを浴びて休んでいる大勢の白衣の勇士達の中から、一人の菊池のファンが現れて彼女に一曲の歌をのぞんだものである。彼女は即座に勇士の望みを快諾、感激の涙に瞼を潤しつつ、いくつもいくつもの愛唱曲を白衣の勇士のために贈ったのであった。純情、菊池章子の一挿話である。(『音楽之友』1942.11)
 1945年の1月から8月15日までの期間に、どのような歌が発表され、どんなレコードが製作されたか。この疑問に対する正しい回答は、もう現在では不可能だろう。戦局の悪化で、レコード会社は電波兵器工場になってしまい、資料も散逸してしまった。戦時下最後の音盤が何かは全く不明である。
 戦時下の音楽雑誌は『音楽公論』『音楽文化』『音楽之友』『音楽知識』『音楽世界』『国民の音楽』『日本音楽』などが主な雑誌だが、レコードを対象にした雑誌に『レコード文化』(レコード文化社・比良正吉発行)がある。この雑誌の中心的執筆者は「あらえびす」こと野村胡堂(1882〜1963)である。中公文庫で再刊された『名曲決定盤』はクラシックレコードの蒐集家「あらえびす」の面目躍如たる名著といわれている。

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 彼の音楽に関する記事は、『人名事典』やインターネットなどであたってもその程度で、大半は『銭形平次捕物控』のことばかり。戦時中の記述などは何処にも見あたらない。戦争だろうが平和だろうが、彼は無関係、無傷なのである。吉本隆明にならえば、まさに「軽蔑する人物」だ。『レコード文化』の1943年1月号は「新年頌」と題する「あらえびす」の文を巻頭言にしている。
新年頌  あらえびす  身も心も、財貨も能力も、あらゆるものを捧げ尽くして今や聖戦完遂の大目的に邁進すべき時である。音楽界もレコード界もその心構に何の変わりがあるべき筈はない。その為にはわれわれの呼吸する大東洋の空気に、米英的なる振動=享楽的耽美的乃至惑溺的なる音楽を排し、剛健質実にして、最も芸術的なる音楽を奨励し、その間に日本民族の魂の声とも言うべき、真の日本的音楽の成長を期しなければならぬのである。
 音楽は生活の潤滑油である。多難にして猛烈なる生活ほど、清浄平明なる音楽の慰安が強く要求される。戦時体制のあらゆる国民生活に、労いと、慰めと、望みとをあたうもの、よき音楽にしくはない。
 音楽は国際語である。南方民族の慰撫開発に、音楽の必須なるは改めて説くまでもあるまい。その大使命を有する音楽に、如何にして大和民族の魂と血とを盛るか、これこそは、本年度の日本芸術界に課せられたる、最も崇高にして重大なる懸案でなければならない。
 音楽の流布、発達、向上に、音盤が如何なる役目を持つか、これもまた縷々をまたないことである。山間僻地にも、万里の波濤の外にも、あるがままの音楽をもたらし、鑑賞者の好むままに奏で唄う音盤の特質は、時局下益々利用価値を高めて、国運未曾有の進展に大きな一役をかうことになるであろう。
 しかしながら、音楽を浄め高むるも音盤の力大きにあり、音楽を汚し低むるも、音盤の与るところ甚だ少なくない。日本の如き音楽界の情勢にあっては、音盤の影響は全く軽視すべからざる重大事である。
 本邦唯一の音盤誌たる「レコード文化」の使命甚だ重きを思い、新春第一号に頌する所以である。
 戦時下のレコード業界の御用団体は、1942年5月13日に発会した「社団法人日本蓄音器レコード文化協会」(一般にはレコード文化協会とか蓄音器レコード協会と略称)。レコード業界の刷新整備とレコードの向上普及をはかり大東亜文化建設に寄与する団体である。先月の4月8日、銀座西8丁目の全国蓄音器レコード製造協会に、ビクター、コロムビア、ポリドール、キング、テイチク各社(各社が敵性語を排して社名を変えていることは再説しない)の代表者と情報局の上田課長、内務省の小川理事、文部省の里見指導官が集まって創立総会を開催し、会長・武藤与市、常務理事・竹越和夫、理事・伊東禿、鈴木幾三郎、長谷川卓郎、園部三郎、小野賢一郎、深沢議一、南口重太郎等が決定していた。それまであった「音盤芸術家協会」は解散してこの新協会に合流した。音盤芸術家協会は紀元2600年を記念して結成されたもので理事長・中山晋平、常務理事・佐々木すぐる、久保田宵二、理事・宮田東峰、江口夜詩、大村能章、東海林太郎、幹事・西條八十、奥田良三等の役員がいた。
 レコード文化協会の業績として遺されているレコードは「愛国百人一首」だろう。この「愛国百人一首」は日本文学報国会が一九四二年に始めた「日本精神の生活化という建前から、愛国尽忠の赤誠を歌った短歌を通して日本精神の神髄を国民の心胸に浸透せしめんため、健全な国民生活の朗詠に適した万葉より明治維新に至るまでの珠玉篇を集めて『愛國百人一首』を選定する」から出来上がったもの。詳細は拙著『日本文学報国会』で見て頂きたい。
 レコード文化協会は日本音楽文化協会と提携して、その『百人一首』から10首を選びそれらを作曲して音盤化したのであった。商業的利益追求の5つの商社が、呉越同舟した協会は、「企画審査」の機構を設置してレコードの製作などを統一しようとしても、さしたる成果はあがらなかったが、この『百人一首』の企画は、情報局の熱心な指導があって、一応の成果をあげたのである。「音盤化された愛国百人一首」として巷の話題にもなった。
 音盤愛国百人一首の10首は、日本文学報国会が選定し、その10首をレコード文化協会と日本音楽文化協会が5首ずつ作曲した。二つの協会が担当した5首は、抽選で選ばれた。そして日本音楽文化協会は山田耕筰、箕作秋吉、弘田龍太郎、草川信、清瀬保二の五人を指名して作曲を依頼した。レコード文化協会の方は、5社がそれぞれ社内のコンクール方式で作曲者を選び、日蓄・佐々木すぐる、ビクター・深海善次、富士・飯田三郎、大東亜・河内秀雄、テイチク・小松清と決定した。

 選ばれた10首は次のような歌であった。(最後の氏名は作曲者)

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂
吉田松陰・箕作秋吉
 あおによし奈良の都は咲く花の匂うが如く今さかりなり
小野老・深海善次
 大君は神にしませば天雲の雷のうへにいほりせるかも
柿本人麻呂・清瀬保二
 しづたまき数ならぬ身も時を得て天皇がみ為に死なむとぞ思ふ
児島草臣・小松清
 山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
源実朝・草川信
 千万の軍なりとも言あげせず取りて来ぬべき男とぞ念ふ
高橋虫麻呂・河内秀雄
 わが脊子はものな思ほし事しあらば火にも水にも吾なけなくに
安倍女郎・山田耕筰
 岩が根も砕かざらめや武士の国の為にと思ひ切る太刀
有村次左衛門・佐々木すぐる
 敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山櫻花
本居宣長・弘田龍太郎
 天皇に仕へまつれと我を生みし我がたらちねぞたふとかりける
佐久良東雄・飯田三郎

 音盤完成の発表会は5月21日、日比谷公会堂で開催された。舞踊連盟が協賛し、舞踊発表も同時に開催された。浅野千鶴子、伊藤武雄、留田武、四家文子、永田玄次郎、長門美保、大江千郷、石井亀じろう、高木清、千葉静子などが独唱、二重唱して発表会を盛り上げた。

補筆 服部良一、古関裕而、古賀政男、山田耕筰などの戦時歌謡目録を紹介したが、そこで発表した歌謡曲の他にもいくつか、未確認の歌謡曲がある。それらを列記しておこう。それらの楽譜をわたしは確認していないが……。

  鞭音高く(高橋掬太郎・服部良一。藤山一郎・コロムビア)
  花笠をどり(高橋掬太郎・服部良一。霧島昇・三原純子、同)
  ソーラン節(高橋掬太郎・服部良一。菊池章子・近江俊郎、同)
  タント節(同。音丸、同)コロムビアはニッチクと変名している。
  アメリカ爆撃(野村俊夫・古関裕而。同)
  戦う東條首相(小田俊與・古関裕而。同)
  明るい町強い町(大政翼賛会・服部良一。同)
  ありがとうさん(サトウハチロー・同。同)
 以上の発表年代は1943年代である。



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