空席通信
2004.07.16 No.122

歌と戦争 21

 鋼鉄王といわれたアメリカのカーネギー(1835〜1919)が、私財を投じてニューヨークに建設したミュージックホールは、カーネギーホールと呼ばれ、音楽家があこがれる桧舞台の演奏会場である。
 ここで「戦友」(真下飛泉・三善和気)を歌い、大喝采を浴びた日本人歌手がいる。
 わたしと同年だが、誕生日が9月27日でわたしより一日早い。カタカナの芸名で通用しているが、れっきとした日本人。本名を石松譲治というアイ・ジョージである。
 彼は有名になってから軍歌について「戦争の善悪とは別。事実として、僕らは軍歌を聞いて歌って育った。泣く時も笑う時も額に汗する時も、軍歌があった」と少国民時代を述懐している。
「戦友」は1906年に発表された。歌詞は長く、14番まである。一番の歌詞を紹介しよう。
戦友 ここは御国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石のした
 アイ・ジョージは公演会で、これを歌う際に「軍歌と思わないで聞いてください。心の歌です」と訴え、歌い出すと会場はしわぶき一つ聞こえなくなるそうだ。
 反戦歌でない歌が、なぜそのように人の心をとらえるのだろうか。国家の「命令・服従」と人間の「心情」との葛藤が歌い込められているからだろうか。
 音楽は不可思議だ。
 軍歌や戦時歌謡を、聞いて歌って育った世代として、わたしには忘れられないそのような歌がいっぱいある。
 小学校(当時は国民学校と呼称した)で歌ったもの、巷間でおぼえたもの、そして童謡などである。「鉄砲かついだ兵隊さん 足並み揃えて歩いてる とっとことっとこ歩いてる 兵隊さんはきれいだな 兵隊さんは大好きだ」の「兵隊さん」、「みんなで勉強うれしいな 国民学校一年生」の「がくこう」、「日本よい国きよい国 世界に一つの神の国」の「日本」、「どんな短い鉛筆も どんなちいさい紙切れも 無駄にしないで使います そうです僕達私達 欲しがりません勝つまでは」の「ほしがりませんかつまでは」などなど。
 戦時歌謡とも軍歌とも分類できない忌まわしい歌もある。「四大節」と呼称した国家の行事、一月一日、紀元節、天長節、明治節に歌ったもの。
一月一日 年の始めの例とて 終わりなき世のめでたさを 松竹たてて門ごとに 祝う今日こそ 楽しけれ。
紀元節 雲に聳ゆる高千穂の 高根おろしに草も木も なびきふしけん 大御世を 仰ぐ今日こそ たのしけれ。
明治節 あじあの東 日いずるところ 聖の君の現れまして 古き天地 とざせる霧を大御光に隈なくはらい 教えあまねく 道明らけく 治め給える御代尊。
天長節 今日のよき日は 大君のうまれたまいし よき日なり 今日のよき日は 御光の さし出たまいし よき日なり ひかりあまねき君が代を 祝え諸人 もろともに 恵みあまねき君が代を 祝え諸人 もろともに。
 大人達が歌った戦時歌謡や軍歌は、テレビの歌番組やラジオで、いまでもたまに聞くが、これら少国民むけのものは、聞いた記憶がない。
 歌詞の一部をごまかした「お山の杉の子」(吉田テフ子・佐々木すぐる)ぐらいだろう。作詞者は無名の主婦だがサトウ・ハチローが補作している。この歌は1944年度の音盤文化賞を授与された日本少国民文化協会(後述)の公募歌。戦後に「歌のおばさん」と呼ばれて人気が出、政治家に転向した安西愛子が歌った。戦時下ではめづらしい「明るく元気な歌」と歓迎されたが、彼女は続いて「嗚呼神風特別攻撃隊」(野村俊夫・古関裕而)を歌っている。「お山の杉の子」の作曲は中山晋平と佐々木すぐるが競作し、佐々木のものが選ばれた。
 この時の中山晋平の作曲楽譜は見たことがない。戦時少国民歌謡は、おおかたが敗戦と共に葬り去られてしまったから残っていないだろう。
『SPレコード60,000曲総目録』(アテネ書房)に軍歌3200曲のリストがあるが、その中から「童謡」を抽出しよう。

チョコレート兵隊  ?
ザクザク兵隊さん  林柳波・千振勘二
ザクザク兵隊さん  林柳波・千振勘二
コドモノタンクタイ  高橋掬太郎・上原進一
チュッチュ ノ ヘイタイサン  長島和太郎・長谷川堅二
ドンドンヤマコウゲキ(上)  林じゆん・長谷川堅二
ドンドンヤマコウゲキ(下)  林じゆん・長谷川堅二
ヘイタイサン バンザイ  久保田宵二・大塚澄雄
バウヤハタイシヤウ  西條八十・長谷川堅二
コドモノ陸軍  高橋掬太郎・半澤誠一
きたへる足  弘田龍太郎
カチヌケニッポン  小田俊与・山田耕筰
フクチヤンと兵隊  横山隆一・古賀政男
をぢさん ありがたう  土岐善麿・中山晋平
とっぴき爺さん(入営の巻) (上)  中根茂・下山光
とっぴき爺さん(入営の巻) (下)  中根茂・下山光
とっぴき爺さん(空軍の巻)  中根茂・下山光
とっぴき爺さん(海軍の巻)  中根茂・下山光
ぼくらの海国  玉木登美夫・山田栄一
ポチの出征  佐伯孝夫・服部正
ツヨイコ ヨイコ  清水かつら・中山晋平
フレフレ日ノ丸  久保田宵二・平岡照章
ツヨイナニツポン  若杉雄三郎・中山晋平
つはものの歌  東辰三・東辰三
をぢさん ありがたう  土岐善麿・中山晋平
戦争ごつこ(陸軍の部) (上)  長谷山峻彦
戦争ごつこ(海軍の部) (下)  長谷山峻彦
戦争てまり歌  林柳波・河村直則
ドングリ兵隊  山村耕二・山本雅之
コドモ翼賛ノ歌  武内俊子・河村光陽
さうだ僕等も決戦だ  玉木登美夫・丹生健夫
さうだ僕等も決戦だ  玉木登美夫・丹生健夫
よい子つよい子  風間康男・丹生健夫
けふは大詔奉載日  高橋民次郎・河村光陽
さうだ僕等も決戦だ  玉木登美夫・丹生健夫
戦争てまり歌  林柳波・河村直則
コドモ翼賛ノ歌  武内俊子・河村光陽
ちんころ兵隊  ?
僕は軍人大好きよ  ?
戦争ごつこ  金井貞雄・永井巴
カッポカッポ兵隊  松村又一・長谷川基孝
チューリップの兵隊  松村又一・河村直則
僕は軍人大好きよ
つくしの兵隊さん  ?
戦争ごっこ(上)(軍歌入)  ?
戦争ごっこ(下)(軍歌入)  ?
戦争ごつこ  貝塚正治郎
戦争ごつこ  貝塚正治郎
僕は軍人大好きよ
戦争ごつこ(上)
戦争ごつこ(下)
オモチャノシングン  山村耕二・山本芳樹
オクニノマモリニナルンダヨ  結城よしを・山口保治
オモチャノ動員  西岡水朗・長谷基孝
オ空ヲ見張リノ小父サン  青芝港二・長谷基孝
ウントツクロ  小田俊与・山口保治
オイチニの新兵さん  松村又一・貝塚正治郎
オイチニの新兵さん  松村又一・貝塚正治郎
お兄さんの軍隊ラツパ(上)
お兄さんの軍隊ラツパ(下)   合計60曲


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「カチヌケニッポン」(小田俊與・山田耕筰)、「フクチヤンと兵隊」(横山隆一・古賀政男)などに目が向くが、これら60曲の内容は皆目見当がつかない。小田俊與には『聖戦画帳戦う東條首相』がある。そこには「東條兵団」(大村能章作曲)や「宣戦の大詔を拝し奉りて」(同)などの歌謡が収録されている。
 歌詞がわかればメロディーが浮かんでくる歌もあるだろう。しかし、ここにあるのは、わたしの知らない歌ばかりである。レコード化されているから残っている音盤もあろう。
 このリストには同じ題名のものが複数ある。これは同じ歌でも歌手が違ったり、レコードの発売会社が異なったりしているからである。それらの会社名や歌手名は省略した。
 戦時下に児童文化を支配したのは情報局の主導で1941年12月23日(天皇誕生日)に創立された社団法人日本少国民文化協会であった。小野俊一理事長の下に舞踊、遊具、紙芝居、童話、演劇、音楽、文学、絵画、映画、ラジオ、出版の11部会があった。協会は機関誌『少國民文化』(1942.6〜1944,12月)を毎月発行した。それらは復刻されているから、協会の全貌を知る一助となるだろう。一口で言えば戦時下の児童文化人を総動員した御用団体である。
 この日本少国民文化協会が制定した歌がいくつかある。まず、その制定第一号ともいうべき「日本のあしおと」である。楽譜には「文部省検定・情報局推薦 社団法人日本少国民文化協会作詞作曲」とあって、誰の作詞、作曲かは不明。一番の歌詞を引用しよう。


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日本のあしおと ザック ザック ザック ザック ザック ザック ザック
へいたいさんの あしおとだ
ザック ザック ザック ザック ザック ザック ザック
つよい日本の あしおとだ  第二弾は東京府西多摩郡大木野国民学校訓導の長坂徳治が作詞した「少国民進軍歌」である。これは陸軍省、軍事保護院と共催で公募した歌で、応募1万7千篇の中から選ばれ、作曲を佐々木すぐるが担当した。霧島昇が歌うレコード(1942年8月・コロムビア)が残されている。少国民世代は、歌詞を見ればメロディーが浮かぶだろう。
少国民進軍歌 とどろくとどろく足音は お国のために傷ついた 勇士を護り僕達が共栄圏の友とゆく 揃う歩調だ 足音だ//
ひびくよひびくよ歌声は 戦死をされたますらをの 忠義の心うけついで 感謝で進む僕達が 歌う国歌だ 君が代だ//
ひらめくひらめくあの旗は 戦地の苦労思うとき 小さいながら僕達も 負けてなるかと胸張って 仰ぐ国旗だ 日の丸だ//
呼んでる呼んでるあの声は ほまれの遺児ともろともに 未来を担う僕達が 雄飛のときを待っている 7つの海だ 大陸だ
 機関誌『少國民文化』には、時々、「今月のレコード」のページが登場した。執筆者は音楽部会幹事の園部三郎(日本音楽文化協会、日本レコード文化協会理事)や上田友亀(?)だった。
 このページには、聞いたこともない「日の出行進曲」(佐藤惣之助・弘田龍太郎)、「そうだ僕等も決戦だ」(玉木登美夫・丹生健夫)、「靖国の子へ」(米山無紫・河村光陽)、「落下傘部隊}(佐伯孝夫・島口駒夫)、「国民総進軍」(宮田東峰作曲・服部良一編曲)などのレコードが登場し、それらについて論じられている。
 協会は日本放送協会と共催で「ミンナウタヘ」大会を、1942年11月7日に開催した。会場は全国に展開したが、東京では神田の共立講堂が会場であった。「放送により全国の少国民をして同一歌曲を同一時に唱和せしめ音楽を通して少国民の団結を強化し大東亜建設推進の意気を旺盛ならしめ併せて歌唱力の向上に資せんとす」(趣旨)といった大会である。課題曲は「日本のあしおと」「鍛える足」「進め少国民」「朝日は昇りぬ」「愛国行進曲」の5曲だった。「鍛える足」(片桐顕智・成田為三)は「初等科音楽2」の教科書にあ流文部省唱歌、「進め少国民」は日本放送協会の選定歌、「朝日は昇りぬ」は文部省唱歌である。


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 日本少国民文化協会が選定した歌を列記しよう。
「少国民海の歌」(矢口賢之介作詞)は公募歌で五千八十篇の中から選ばれた。3番の歌詞は「皇軍遠く堂々と 進む海原幾千里 つづく僕等もやがて見よ 体鍛えて海へ行く 僕等は海の少国民」といったもの。1943年7月17日に神田の共立講堂で開催された「海行く少国民大会」で発表された。
「愛国子守歌」(雨宮頼保作詞)は大日本婦人会と共催で公募したものである。応募総数七千余篇の中から「ねんねん よい子のねる国は 神さま お産みになった国 海からお日さまのぼる国//ねんねん よい子のねる国は さくらの咲く国強い国 みんなで忠義をつくす国//ねんねん よい子のねる国は 富士のお山のあるお国 千年万年つづく国」が第一席に入選した。
「軍艦旗の歌」(藤浦洸・佐々木すぐる)は海軍記念日にちなんで制定された。二番の歌詞は、つぎようなもの。「無敵の日本海軍を 示す旗印にふさわしく その潔さ 軍艦旗 ぼくらも共に仰ぐのだ そうだそうだ ぼくらも共に仰ぐのだ」。
「大東亜少国民の歌」があるとする資料(『SPレコード60,000曲総目録』前出)があるので、調べたが判らなかった。
「お国のために」はサトウ・ハチローが作詞し弘田龍太郎が作曲した戦争末期(1945年2月にコロムビアからレコードが発売された)のもので、「お山の杉の子」を安西愛子と唱和した加賀美一郎が、わたしの知らない岡本美智子という歌手と歌っている。その三番の歌詞は「ぶんぶん廻るは何でしょうか ぶんぶん廻るは機械です あの町この町どの町も 飛行機増産 はげんでる みんなではげもう お国のために」。

 手元にある歌集資料から、少国民のわたし自身が、かつて愛唱した歌を列記しよう。中には少国民向けの歌ではないものもある。この他にも目に付いた歌があったが、うすら覚えであったり、今ではもう歌えない歌なので割愛している。

「子を頌う」(城左門・深井史郎)
 1942年に放送された「国民合唱」である。「太郎よお前はよい子供 丈夫で大きく強くなれ お前が大きくなる頃は 日本も大きくなっている お前はわたしを越えて行け」の歌詞。とんでもない子どもだましの歌だった。作詞者は敗戦後、いち早く詩誌『詩学』を発行した詩人である。この歌に関しては口を閉ざしている。
「兵隊さんよありがとう」(橋本善三郎・佐々木すぐる)
 朝日新聞社が「皇軍将士に感謝の歌」として公募したもの。童謡作曲家佐々木すぐる(1892〜1966)は、「ありがとう幼稚園」や「きょうからお友だち」などの作曲家として知られていて、戦時下の作曲にはあまりふれられていない。それをいいことに、素知らぬ顔をして天寿をまっとうした。「皇軍将士に感謝の歌」では「父よあなたは強かった」(福田節・明本京静)のほうが有名だが、少国民は「肩をならべて兄さんと 今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです お国のために お国のために戦った 兵隊さんのおかげです」を愛唱した。
 「父よ……」の作曲家明本京静(1905〜72)は深草三郎や夏山しげるの芸名を持ち東京帝国大学を中退して歌謡界に進んだ人物。軍需省が選定した学徒動員の「ああ紅の血は燃ゆる」の作曲家でもある。
「大日本青少年団歌」(市瀬正生・宮原薫)
 二羽の赤い鷲のマークの団章とともに、頭にしみこんでしまっている歌である。全国の青少年を傘下にした大日本青少年団は、ナチスのヒットラー・ユーゲントをモデルに1941年1月16日、大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会の4団体を統合して結成された。小学校三年生以上の男女、中学校や女学校に進学しない25歳までの男女が団員で、皇室に奉仕する訓練を強制された。その団歌である。「若き者 朝日の如く あらたなる われら大日本青少年団 ああ 御稜威あまねきところ 空は晴れたり空は晴れたり いざともに 聖恩の旗 仰ぎつつ 勅語を胸に われら起たん」の歌詞は生涯わすれない。
「神風節」(日本音楽文化協会・日本音盤協会制定)
 一番の歌詞は「吹けよ吹け吹けメリケン嵐 どうせ浮き雲 迷い風 大和島根は ゆるがぬ島根 吹くぞ神風 敵を呑む敵を呑む えいえいえい」というものだが、少国民は歌詞をいろいろに変えて歌った。
「マライの虎」(島田磬也・鈴木哲夫)
 大映映画「マライのハリマオ」の主題歌。現地で撮影したものと宣伝されたが、後半は千曲川にある小諸のダムで撮影されていて、わたしはその撮影を見学した。真っ白なスーツに黒メガネをつけたスパイが怖かったものである。「南の天地 肌にかけ 率いる部下は三千人 ハリマオハリマオ マライのハリマオ」(『軍歌と戦時歌謡大全集』)が一番の歌詞だが、「肌にかけ」のところは「股にかけ」と歌っていた。どちらが正しいのかは不明。(後日、書庫で別の資料を参照すること)
「勝ち抜く僕等少国民」(上村数馬・橋本国彦)
 1945年、つまり敗戦する年の「国民合唱」である。「勝ち抜く僕等少国民 天皇陛下の御為に死ねと教えた父母の 赤い血潮を受けついで 心に必死の白襷 かけて勇んで 突撃だ」とすざましい歌詞である。この歌も「心に必死の……」の部分をわたしは「決死」と歌っていた。子どもの歌には、このような例がおおいのだろう。友人の詩人Kは、この歌の2番を「必勝祈願の墓参り……」と歌っていたそうだ。原詞は「朝参り」だ。毎月、大詔奉戴日(8日)には早朝に神社(氏神)の境内清掃と祈願式をしたことなどを思い出す。学校行事の一環だった。現代なら信仰の強要と問題になることだろう。

 日本放送協会が発行した『ラジオ年鑑』(一九四三年版)によると、「幼児の時間」(平日の午前10時から30分)、「少国民の時間」(同、午後6時30分〜)、「国民学校放送」(同、三回)などの時間に、歌を放送した。「アシナミソロエテ」「そうだ僕等も決戦だ」「進め少国民」「大東亜少国民の歌」「またも勝ったぞ陥したぞ」などだが、詳細は不明。
 山田耕筰が軍装姿で街頭に飛び出し「音楽挺身隊」の行事を率先するなど、狂気の沙汰だが、戦時下では、それが狂気でなかったのだから怖ろしい話である。次回では、締めくくりとして、もう一つの狂気沙汰、敵性音楽の排撃についてふれよう。


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