空席通信
2004.09.10 No.123

歌と戦争 22

「日本の西洋音楽の父」などといわれ文化勲章を受章している山田耕筰が、戦時下に軍装で街頭に現れ、「音楽挺身隊」に奉仕した狂態もさることながら、「若き血に燃ゆる者」の慶応義塾の応援歌を作詞作曲した堀内敬三が、率先して英米音楽の追放を叫んだ言動も、日本音楽史に残る大きな狂態であろう。
 1940年(昭和15年)は、国中が「紀元2600年」の行事に大騒ぎした年だが、この年の3月、内務省は俳優などの芸名から風紀上面白からぬもの、不敬にあたるもの、偉人の尊厳を傷つけるもの、外国かぶれのものなどの追放を指示した。
 藤原釜足は藤原鎌足を冒涜する名前とされて藤原鶏太になり、ディック・ミネは三根耕一になった。彼の本名は三根徳一であったから徳を耕にしたのである。そのように古賀政男が命名した、と後年、彼は語っている。
 外国かぶれの追放は、敵性語排斥運動になり、英語やカタカナ語がやり玉に挙げられた。こうして学校の授業から「英語」が追放される。
『音楽之友』は1942年新年号の巻頭に堀内敬三の「大東亞戰爭に處する音樂文化の針路」と題する論文を掲載した。彼はその論文で「ここに米・英の音楽を閉め出すべき事を提唱する」とのべ、「大東亜戦争は音楽家にとっても大きな戦いである。皇軍と共に我等は働き我等はかたねばならなぬ」と結語している。堀内敬三は同じような主旨の論文を、主筆を担当する「音楽文化新聞」や『音楽之友』にくり返し掲載した。ドボルザークの「交響曲・新世界」から「家路」を取り出して作詞したことなどけろりと忘れている。

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 内務省と情報局が本格的に「敵性語」や「敵性音楽」の追放をはじめたのは1943年になってからだ。それ以前に、音楽家のほうから、政府の排外主義を先取りした動きがあったことを、記憶しておく必要があるだろう。禁止令やさまざまな規制は、権力におもねる「自己規制」の精神が率先して生み出すのである。
 情報局が発行した『寫眞週報』257号(1943年2月3日)は「むかしむかし或るところに舶来物をありがたがって日本人にはさっぱり分からない薬や化粧品や看板がありました」と扉にかかげた「米英色を一掃しよう」の特集でああった。その「米英レコードをたたき出そう」のページは「耳の底に、まだ米英のジャズ音楽が響き網膜にまだ米英的風景を映し身体から、まだ米英之匂いをぷんぷんさせて、それで米英に勝とうというのか。敵への媚態をやめよ。耳を洗い、目を洗い、心を洗って、まぎれもない日本人として出直すことがまづ先決問題だ」のキャプションでレコードを供出している写真やレコードを木銃で割っているマンガなどを掲載した。そして4ページにわたって「廃棄すべき敵性レコード一覧表」を発表した。レコード会社が、ポリドールは「大東亜」、コロムビアが「ニッチク」、キングが「富士」、ビクターが「日本音響』に改名したことは既述した。

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 日本ビクターは「アロハ・オエ」「グランドキャニオン」をはじめ491枚。
 コロムビアは「星条旗よ永遠なれ」「夕日に赤い帆」など377枚。
 ラッキーは「セントルイスブルース」「峠のわが家」など45枚。
 ポリドールは「スワニー河」「ブルーハワイ」など117枚。
 日本テレフンケンは「ペルシャの市場にて」など31枚。
 テイチクは「ダニューブワルツ」「コロラドの月」など65枚。
 合計1126枚。

 「レコード」は「音盤」と呼び変えられたが、この通達の時点では「レコード」と使用されている。通達書類を作成した当局の担当者は、これにかなり困惑したのではないだろうか。いずれにせよ、平常心で考えれば噴飯物の事件であった。
 日本が南方の文化工作の一環として御用会社「南洋映画協会」を設立したのは1940年の12月であったが、この協会は、日本映画を南方へ輸出する際に、日本のレコードも輸出した。そのレコードの選定役を担当したのが「日本音楽文化協会」だった。協会は次のような45枚を選定した。
 コロムビア からたちの花、まちぼうけ、愛国の花、海行かば、この道、僕等の団結、浜辺の歌、荒城の月、アリランの歌、放浪の歌、もしもし亀よ、松島音頭、別れのブルース、雨のブルース、宵待草、丘を越えて、酒は涙か溜息か、日本大好き、かっぽれ、向こう横町、海の向こう、朝だ元気で。
 ビクター  島の娘、踊り子の唄、ハルピン夜曲、たそがれ、懐かしき故郷、長崎物語。
 キング   愛馬進軍歌、愛馬行、江差追分、山中節、八木節、鹿児島小原節、草津節、佐渡おけさ。
 ポリドール 椰子の実、乙女の唄、唐人お吉、有明草紙、野崎小唄、お駒恋姿、国境の町、砂漠の旅。

 当時としては、妥当な選択であったかどうか。その判断は読者にゆずるが、早速、この選定にクレームをつけたのが、堀内敬三であった。彼は「酒は涙か溜息か」「別れのブルース」「島の娘」「砂漠の旅」などは頽廃的流行歌に過ぎないと主張したのである。選定はやり直しになり、南洋映画協会の輸出熱もさめて、レコード輸出騒動は尻切れトンボになったようだ。
 岡本一平の「とんとん とんからりと 隣組……」(「隣組」)を作曲した飯田信夫は、陸軍報道班員として大宅壮一、阿部知二、横山隆一などと共にバタビヤに進軍したが、占領地の文化工作必需品として日本作曲家の楽譜を緊急に送ってくれと、堀内敬三との「ラジオ対談」で訴えた。情報局は早速、この訴えを取り上げて、日本音楽文化協会と日本出版文化協会に協力を命令した。同時に、情報局は「楽譜浄化」の名目で日本の楽譜や音楽図書の出版統制を始めた。そして中山晋平、野村光一、小松耕輔、堀内敬三他8名で構成する「音楽図書審査会」が出版統制に顔をきかすのである。
 敵性レコードの追放は、当時の新聞記事、たとえば「毎日新聞・大阪版」(1943年2月28日)の「壊滅近し・敵性音盤の山」と三段抜きの写真入り記事で成果を宣伝している。貴金属品やお寺の梵鐘などが戦争協力ということで供出を命じられたが、ほとんど効果はなかったという。レコードも同じことだったのだろう。大阪市民局文化課は「一枚10銭で買い上げる」などと発表している。市民の積極的な提出があれば、考えられない措置である。
 1945年の正月に、私は友人の東京の親戚が友人の家へ運び込んだ疎開荷物の中にレコードがあって、名前だけは知っていた「セントルイスブルース」や「口笛吹きと犬」のレコードを見たことを憶えている。見ただけで聴かなかったが……。
 この敵性音楽の追放にからんで、学校の卒業式で歌われた「蛍の光」騒動があるが、すでに拙著『少国民は忘れない』で触れたので割愛する。

 音楽に敵性という概念を押しつけて追放するなど、野蛮行為以外の何ものでもないが、それを当たり前と考えてしまうほど戦争は、人を狂気にしてしまうのである。
 アイ・ジョージが歌う「戦友」が、異国の人たちの心をなぜ揺さぶるのか。
「勝利の日まで」を歌って、なぜ少国民が命がけの勤労に従事したか。
「勝ち抜く僕等少国民」を歌って、子どもたちがなぜ「天皇陛下に命を捧げる」ことを当然と考えたか。
 歌には不思議なエネルギーがいっぱいある。

 音楽家や歌手は、歌と戦争とのかかわりをどのように考えているのだろうか。そのかかわりに関連した責任をどう考えているのだろうか。
 日本が戦争に破れてから、小田切秀雄は文学検察官と自称して高村光太郎を名指しで詩人の中の第一級戦犯であると告発した。宮田重雄は藤田嗣治を「軍部に阿諛し巧い汁を吸った茶坊主画家」と指弾した。山根銀二は山田耕筰を戦争犯罪人と追及した。日本共産党は神田共立講堂で「戦争犯罪人追及人民大会」を開催し、天皇を筆頭に1000余名の戦犯名簿を発表した。

新泊中佐(クリックで拡大)
 どの事例も日本人同志の紛争だが、告発・指弾・追及する側の、自身の責任を棚上げにしてのものであったから、何の実りもなく消え忘却されてしまった。
 これは日本人が現在どのように生きなければならないか、と問うことを忘却していることである。  最後になったが、八十の「比島血戦の歌」を、勝手に鉛筆をなめなめ「ニミッツ、マッカーサー」と加筆したといわれている情報局の親泊中佐の写真を掲載しておこう。

歌と戦争  完


 この「歌と戦争」は12月に『歌と戦争』の外題でアテネ書房から上梓します。添付資料がモノクロになりますが、その分、数を増やす予定です。

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