空席通信
2008.03.19 No.126


戦争と写真 3

 1942年1月1日の新聞紙上に発表されたのは「戦史に燦たり・米太平洋艦隊の撃滅」と題する6葉の写真であった。朝日新聞の東京版の第一面は「我必殺猛襲下の敵主力艦群」「惨憺たるフォード島周辺」の2葉全面写真。比較掲載しないが、ほかの各紙も全く同じような掲載スタイルであった。残りの4葉は第三面の全面をしめる「布哇ホイラー飛行場の壊滅」「爆撃を敢行、悠々敵上空を飛ぶ我が海鷲」「死にもの狂いの敵高射砲弾の炸裂」「海戦劈頭覆滅の寸前にあるハワイの米太平洋艦隊」。いずれの写真も、いろいろなところで、すでに紹介されているから、ここでの転載は止めて、政府発行の『写真週報』(第202号・42年1月7日・精確に表記すれば『寫眞週報』だが以下では現代表記にする)に発表された8葉の写真の中から、主力艦群に魚雷が命中して水柱をあげる瞬間を鳥瞰したものを転載しよう。これは新聞に発表された写真が一部カットされているのに比べてノーフレーミングの写真である。


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 情報を多数の人に伝える新聞や書物に、その情報の補完として登場した事件写真が、表現主義の反動として生まれた新即物主義(ノイエ・ザハリヒカイト)に影響されて、フォト・ルポルタージュと称するものに変貌したのは1928年ころのこと。ドイツの新聞社でカメラマンとして勤務した名取洋之助(1910〜62)が帰国して、フォト・ルポルタージュと称する活動を展開したが、舶来言葉ではなじめないと、日本語訳して「報道写真」の名称が定着した。そして、名取や木村伊兵衛、伊奈信男、原弘などの活躍によって「日本工房」が誕生し、鉄道省国際観光局と国際文化振興会の時代を迎える。木村が撮影した「ライカによる文芸家肖像写真展」(33年)や「報道写真展」(34年)は当時の世間から高い評価を得た。しかし日本工房は1年経たずに解散し「中央工房」や名取主宰の『NIPPON』誌が創刊され山名文夫、河野鷹思、亀倉雄策、土門拳、藤本四八、田村茂、浜谷浩、加藤恭平、菊池俊吉などのカメラマンが登場する。彼らの活動とあいまって30誌近くの写真雑誌も誕生した。そしてこれらの写真家は戦争に飲み込まれてゆくのである。戦争推進の宣伝写真家として。プロセスを無視して、いきなり21世紀の現在で述べれば、「報道写真」は「メディア写真」という言葉に変身している。
 「空席通信」で扱うのは、以上に略説した日本での報道写真史を語るのが主旨ではない。いわゆるアジア・太平洋戦争時代の写真を考察することを目的にしているから、これ以上は詳説しない。


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 戦時期の写真誌として思い出されるのは、政府の粛清・規制や統合政策によって残された以下の5誌『写真日本』『写真文化』『報道写真』『アサヒカメラ』『日輪』である。『日輪』は、興亜写真報国会の機関誌であるから他の4誌とは発行趣旨が異なる。そして、これらはアマ・プロの写真家を対象にした写真専門誌であるから読者層はかぎられていた。現在のようにカメラが消費財でなかった戦時期は、写真機は高価な文化財であった。持っていることがブルジョアのステータスであったのだ。その高価なカメラでの写真撮影などは金がかかり、大衆にとっては高嶺の花で、それを楽しめる人は少数だった。で、ここでは必要な場合のほかは言及しない。
 東方社の、幻の写真誌といわれた『FRONT』は入手が困難であったが、1989〜90年に復刻されて全貌を見ることが出来るようになった。私の集めたものを含めて復刻版『FRONT』について考察したいが、対外宣伝を意図した、これも写真専門誌と考えられるから、この「通信」では触れない。

 ここで取り上げるのは、一般大衆を対象にした『アサヒグラフ』『写真週報』の二誌を脇資料として概観しながら、忘れられてしまっているいろいろな「写真」を中心にして考察する。それらは、新聞、雑誌などに掲載されたものや写真集として上梓されたものまで、体裁はいろいろである。それらの「写真」のキイワードは「記憶が薄れ忘れられたもの、その存在すら気づかれていないもの」である。たいがいの人は、目に見えないものには気づかないが、見れば見えるものでも、気づかないものは一杯ある。


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 『アサヒグラフ』は1923年1月、日刊のグラフ紙として朝日新聞社から創刊された。220号を発行した9月1日に休刊し、同年11月、今度は週刊誌として再登場した。日本でいちばん息の長い写真誌だが、2000年9月に休刊した。

 『写真週報』は内閣情報部(後に情報局)発行の政府御用週刊誌で1938年2月に創刊している。1936年に政府は国民を総力戦に総動員するためには啓発する必要があるとして『週報』を発行した。「政府の行う政策の意図内容を広く一般国民に伝えてその正しい理解を求め公正な輿論の声を聞き、法令の趣旨や内容の普及を図り」「国民との接触を緊密にし公明な政治の遂行に寄与するため」と発行の意義を説明している。『写真週報』発刊の趣旨も、まったく週報と同じで「ただ趣旨達成の手段として文字に代わるにもっぱら写真をもってしたというに過ぎない」と説明した。また「映画を宣伝戦の機関銃とするなら写真は短刀よく人の心に直入する銃剣でもあり何十万何百万と印刷されて散布される毒ガスである」と写真について説明している。その頃の『アサヒグラフ』はB4判28ページで25銭だったが『写真週報』はA4判20ページで10銭という安値だった。毎号の発効部数が150万部といわれていた。


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  情報局が監修し財団法人写真協会編纂の『銃後の戦果』(1944・7)で情報局総裁天羽英二は「文字によるよりも写真は直截に人の胸奥を衝く、言語が通ぜず文字を読めざるも写真は事実を伝え得る。世相激烈な時代においては、語弊はあるが手っ取り早い。当局において週報の姉妹誌として写真週報を編集し両々あいまって国民の啓発、士気の昂揚に資しているゆえんもここにある」と述べている。
 同書には大政翼賛会文化構成部長高橋健二(独文学者・文化功労者・ペンクラブ会長・芸術院会員。1902〜98)の「結局、真実に勝る力はない。謀略は一時であって真実は永遠だからである。この真実を伝えることこそ、啓発宣伝の本来の使命である。そして文字通り真を写す写真がそれを果たすに最もふさわしいものであることは今更ことわるまでもない。写真はある時は偵察機のごとく、ある時は軽戦車のごとく、ある時は探照灯のごとく、あらゆる所に忍び込んで真実の姿を上から横から下から、あらゆる角度からとらえ、写し出すからである。しかも科学的に極度に精確であるとともに芸術的に強く感覚と情操に訴えることができる。頭と同時に胸に迫るのである。写真がとらえた銃後の国民生活の姿は前線のそれとあいまって勝利の記録を全からしめるものである。武力戦に呼応する生産の戦いと生活の戦いの写真は、前線の勇士と呼応してわれらかく戦えりという銃後の国民の誇りと忍苦との尊き記録である」という文もある。


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 この写真集『銃後の戦果』は、同盟通信社、朝日新聞社、産報中央本部などに所属するカメラマンと写真協会の会員16人が撮影した写真を収録している。だから新聞紙面や『写真週報』などで見かけた写真がいくつかある。写真協会は1938年7月に「内閣情報部の対内外写真宣伝を担当する」補助団体として設立され翌年に財団法人に改組している。協会の詳しいことはわからない。情報局第5部第一課の林謙一情報官(朝日新聞社カメラマン)傘下で先述の『報道写真』という雑誌を発行していた。「写真は毒ガスだ」といったのはこの林情報官らしい。『報道写真と対外宣伝』(柴岡信一郎)によれば「半官半民あるいは国の管理下にあった対外的な文化団体」だという。ようするに情報局の外郭団体だったのだろう。わたしが、この写真集に目を留めたのは、野口米次郎の「必勝の一色」という詩が序詩として巻頭にあったからだが、別の理由は、二葉の写真が収録されていたからでもある。一枚は「寒風肌をさす昭和16年12月8日の朝宣戦の大詔を拝して宮城二重橋前に忠誠を誓いまつる民草」のキャプションで紹介されている写真。もうひとつは藤田嗣治の「アッツ玉砕」の絵である。野口米次郎の詩についてはすでに紹介してあるから触れない。「宮城二重橋」の写真は、1941年12月8日の朝とある。それから60数年後の現在、その皇居前広場で、写真と同じようねポーズをしたら、狂人扱いされるのではないだろうか。45年8月15日にも、この写真と同じようなものが残されている。しかも、それは涙を流している「民草」たちである! 戦前は二重橋前を「最敬礼」しないで素通りしたら逮捕される危険があったが、現在の皇居前広場で最敬礼するのは右翼団体か一部の高齢者だけだろう。時の流れを、これほど痛感させる写真は例を見ない。


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 そして嗣治の「アッツ玉砕」(現在は「アッツ島玉砕」とか「アッツ島最後の攻撃」と呼称されている)である。この絵は最近公開されたから実物を見た人が大勢いるだろう。初公開されたのは1943年9月1日から上野の東京都美術舘で開催された「決戦美術展覧会」である。わたしの心のアルバムを開けば松竹映画「愛機南へ飛ぶ」が上映された頃である。この時の画名は「アッツ島玉砕」だった。わたしが実物を見たのは、戦後になってアメリカから「永久貸与」(1970年)として日本に帰ってきて東京国立近代美術館で公開された時である。アメリカ占領軍は「戦争画」をすべて没収し本国へ送ってしまっていたのである。画面を見て、すぐに何かおかしいと思った。わたしが写真や美術書で見たものとどこか違うのである。帰宅して当時の写真を眺めて気づいた。画面右下のサインのところだ。わたしが見たモノクロ写真では、右下のサインは「アッツ玉砕 嗣治謹画 2603』と縦書きになっている。近代美術舘で公開されているものは、場所こそ同じ右下だが「T.Fujita 1943」と横書きだ。サインのそばには、これも加筆かと思われる「アッツ櫻」と呼ばれた花まである。このことはモノクロ写真しか見ていないので断定できないが、とにかく微妙な違和感をいだく。朝日新聞社は「聖戦美術展覧会」を、よく後援していて、その『聖戦美術展画集』などを発行していた。細長い変型版で、古書展で見かけたことがある。「決戦美術展覧会」は陸軍美術協会(理事長・藤田嗣治)主催、陸軍省、情報局、朝日新聞社が後援している。したがって朝日新聞社から『画集』(あるいは展示作品目録)が発行されている可能性は高い。残念ながら未見だ。
 戦争画、とりわけ藤田については、菊畑茂久馬に代表される、優れた研究書があるが、このことに触れているものは皆無である。参考までに記すと縦書きサインにある2603の数字は紀元2603年のことで1943年、つまり昭和18年を表す。川上宏は「藤田嗣治氏の二百号アッツ島玉砕がなんといっても圧巻であろう。夜間作戦のため画面はやや晦瞑だが、作者の角度、敵兵を多数登場させての白兵戦は記録画に新しい形式を生むもの」(『週刊毎日』43.9.26)と評した。
 わたしの違和感が間違っていないとすれば、近代美術舘で公開された絵は戦後になって、あるいは最初の公開後、書き改められた(修正された)ものである。この想像があたっていれば、その行為者は間違いなく藤田自身だろう。彼は、何時、どこで、なぜ加筆修正したのか。この絵は会期終了後(人気が高く会期は3日間日延べされている)陸軍省に献納されている。加筆する時間はどのようにして生まれたのだろうか。
 『芸術新潮』(95.8)に収録されている同画は横書きサインのもの。『太平洋戦争名画集』(67.12)のものは部分的な掲載で右下部分は確認出来ないものである。
 石井柏亭は戦争美術展に展示された絵の前でぬかづいて礼拝していた観客のことを『美術の戦』(43年)に書いている。朝日新聞にも陸軍報道部長谷萩少将が「アッツ島玉砕の前ではしばしば無言のまま佇立、黙祷をささげた」と写真入りで掲載している(43.9.8)。
 いずれにせよ、写真が伝える事実なるものは、被写体が絵画であっても面白いものである。拾遺「余話 3」

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