空席通信
2008.04.23 No.127


戦争と写真 4

  私たちが目にする報道写真は、カメラマンと呼ばれる人たちによって制作され提供される。一口にカメラマンと括ったが、その態様はいろいろあった。戦時期では、新聞社に所属するカメラマン、政府や陸・海軍省に召集されて軍の報道班員となったカメラマン、ニュース映画会社のカメラマンなどだ。ベトナム戦争やイラク戦争の際にはフリーカメラマンと称する、どこにも所属しない個人のカメラマンがいてさまざまな戦場写真を公開したが、日本の戦時期には、そのようなカメラマンは存在しない。空襲の被害写真を個人が撮影することはあっても、それは組織や当局に隠れての撮影で個人的に所有する以外には公開など考えられなかった。公開される写真は、組織や当局の公認カメラマンが撮影したもので、組織や当局の検閲を得たものばかりだった。
 彼らが提供する写真には共通することがあった。
 カメラマン個人の写真集・写真展として発表されるもの以外は(これも検閲されて許可されたもの)、よほどのことがない限り、それらの写真が無署名であることだ。これは、その写真についての表現責任が個人には及ばず、組織や当局のものになることである。そして、ということは組織や当局は全く責任をとらないことだ。


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 制作という言葉を使用したのは、撮影という個人的な営為の、したがって個人に連繋する表現責任が,社会的には撮影者と無縁にちかいからである。組織や当局が責任を負うという結構なのである。つまり責任は全く存在しないのである。そして、その組織や当局は、最高責任者が責任を負うのか、複雑な機関部門のそれぞれの責任者が負うのか、限りなく拡散し、気づけば霧消してしまうのである。言葉をかえていえば、組織や当局は、撮影者が被写体を選んだ意図を重視しないからである。戦時期の写真は組織や当局によって操作されたものなのだ。くりかえそう、撮影は当局や組織の操作によって制作されてしまうのだ。
 ところで、各種のカメラマンを総括する言葉はなかったのだろうか。
 まず浮かぶのは、「従軍カメラマン」だ。この従軍カメラマンたち、実際にどのくらいいたのだろうか。今となっては、その正確な数字を把握することは出来ないだろう。
 しかし、かなりの人数になることは、緒戦時の次のようなことからも推察できる。
 1942年5月11日、『月に吠える』の詩人・萩原朔太郎が他界した。57歳であった。同じ日、東京日比谷公会堂で、陸軍省、海軍省、新聞会の共同主催で、ある慰霊祭が行われた。
 新聞会は情報局の肝いりで設けられた統制団体「新聞連盟」(1941年)が新聞事業令の公布により改称した、新聞社を総括する政府御用団体である。
 毎週火、木、土に「日本新聞報」を機関紙として発行していた。敗戦時には日本新聞公社という名称だったが、敗戦を契機に日本新聞連盟と改称し機関紙も「新聞協会報」と改名した。手元には1843年から1958年までのものがあるが、その最後の号(1958.12.22)には「日本新聞協会」発行とある。
 とにかく、あまり研究されていない機関新聞である。わたしが知らないだけで、研究論はあるかもしれない。近藤日出造、那須良輔など6人の漫画家の座談会「時局漫画の進撃路」などは戦時下の新聞紙面に発表された時局漫画の動静を語る貴重な証言であり、そのほか無視できない文化人たちの、言い囃し、書き囃しのいろいろな記事がある。いずれ取り上げるつもりだが、時間があるかどうか……。
 「新聞配達の日」(そういう日があるのです。10月19日)を記念して「新聞配達に関するエッセーコンテスト」を行う、といった最近の新聞記事を見ると、主催者は「日本新聞協会」とある。名称は同じである。戦時中の組織との連続性については知らない。
 この慰霊祭(正式名称は殉職報道戦士合同慰霊祭)は満州事変、支那事変の際と大東亜戦争開戦から1942年4月までに死亡した65人の新聞記者の霊を祭るものであった。65人の中には9人のカメラマンがいた。慰霊祭の模様を伝える書『報道戦士』(題字・日本新聞会会長田中都吉)を日本新聞会が発行している。
 この頃から「報道戦士」という呼称が通用し始めた。
 当局は何にでも、この「戦士」をつけて総力戦の推進を図ったのである。工場労働者は「産業戦士」、農家は「農業戦士」などだ。大人の労働力が不足して少年少女たちが労働に動員されると、「少年産業戦士」などと呼ばれたのである。『報道戦士』(菊判)は114ページの非売品として1942年8月1日に発行されている。遺族に配布したものだろう。序文を転載する。


 従軍記者が第一線の銃砲火に身をさらして壮烈な戦死を遂げたという例は、世界戦史のどの頁をひもといても殆ど記述のないところである。然るに独り我国のみは、幾多の実例を遺している。記者と言わず写真班といわず、映画班、飛行士、無線電信技術者、連絡員等、およそ新聞社通信社乃至は報道関係より従軍を命ぜられるものは、生還を期せざるの覚悟、将兵と異ならず一死尽忠奉公の至誠に燃えて戦場に赴くのである。報道戦士として国に殉ずるもの、満州事変に5名、成都事件に1名、支那事変に44名、今次大東亜戦に於いては僅か半年の間に15名(詳細は『文化人たちの大東亜戦争』でのべている)、実に65柱を数えるのである。去る5月11日、陸軍省、海軍省、日本新聞会の共同主催に依り東京市日比谷公会堂に、これら65柱の英霊を祭祀し、その遺族を招いて合同慰霊祭を執行したのであるが、殉職報道戦士の偉勲は常に吾等の矜りであり、亀鑑である。ここに忠勇なるわれらの同志の不滅の功績を綴ると共に、恭しく冥福を祈念する次第である。

 巻頭には皇太后の「みいくさの危ふき中も知らぬ気に筆にいそしむ人の雄雄しさ」の歌があり、高村光太郎の「戦没報道戦士にささぐ」の詩があり、合同慰霊祭委員長の谷萩那華雄陸軍大佐、陸軍大臣東條英機、海軍大臣嶋田繁太郎の祭文が続く。すっかり忘れられている本だが、遺族たちの祭壇にはまだ保存されているのだろうか。


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 報道戦士と呼ばれたカメラマンの大半は新聞社員だった。そのためだろうか。新聞社は、いわゆる報道写真集をいくつか発行している。新聞紙面に掲載できないほど多量の写真があったのだ。
『フイリピン共和国 報道写真集』(1944)毎日新聞社、『大東亜戦争と台湾青年 写真報道』(1944)朝日新聞社、『マライ総観 現地派遣軍撮影』(1943)朝日新聞社、『軍神加藤少将写真伝記』(1943)東洋経済新報社、『勝たずして何の我等ぞ』(1944)朝日新聞社、『報道記録写真 パブア』(1944)目黒書店、毎月二回発行の『大東亜報』同盟通信社などである。最後にあげた『大東亜報』は1933年2月に創刊された『同盟グラフ』の改題誌だ。蒐集した最終号は1944年9月1日の312号だが、何時まで発行されたのかは不明。
 誠文堂新光社が一万部を限定出版した『大東亜写真戦記』(1943・A4判)は大本営陸軍報道部が監修したもので、陸軍報道班員の撮影した写真や陸軍従軍画家の絵、高村光太郎、白鳥省吾、室生犀星、堀口大学らの詩を収録している。表紙画宮本三郎、カバーは藤田嗣治、見返しは植木力が担当している豪華なもの。税込みで12円76銭。現在の『週刊朝日』は320円。当時の『週刊朝日』は15銭だったから、この本は現在の値段に換算すれば3万円くらいだろう。巻頭を飾る写真は、『銃後の戦果』に掲載されている、あの二重橋前の民草、12月8日早朝の写真。


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 純然たる写真集ではないが朝日新聞社が発行した『軍神加藤少将正伝』(1943)、『山崎軍神部隊』(1944)、『九軍神正伝』(1942)などにはグラビア頁があって、写真が豊富に掲載されているから異色の写真集とも考えられる。

 個人名で発行された写真集はあまり蒐集してないが、徴用令で支那派遣軍総司令部に配属され現地で満期を迎えた池田克己は、上海の大陸新報社に勤務しながら写真集『新生中国の顔』アルス(1944)を上梓した。日本未来派を代表する詩人のめずらしい写真集だろう。


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 詩集『法隆寺土塀』(1948)の日本未来派の詩人が、詩友渋江周堂からもらったライカで撮影した新生中国の写真を収録したものである。「新生中国」とは汪精衞の国民政府のこと。現在の史観では、国民政府は蒋介石の重慶政府に対して日本主導で成立した傀儡政権といわれている。池田克己は「民族的うぬぼれを持つ欧米人の目ではない血肉的愛情を持った目で観察した記録の集積」であるとのべている。詩人の目でも傀儡政府の実態は見えなかったのである。草野心平の詩「柏生よ死ぬな」(『絶景』(八雲書林1940)に収録されているが『戦争と詩』(山雅房・1941)にも再録されている)に登場する国民政府宣伝部長・林柏生の写真が収録されている。彼は蒋介石一派のテロ行為で凶漢に襲われ意識不明になった。一命はとりとめたが心平の詩は、彼の情況を危惧して「死ぬな」と励ましている内容。広東カレッジで草野の同級生である。戦後、漢奸として処刑された人物だ。草野心平はこの国民政府の宣伝部の嘱託になるが、此処では触れない。
 私が所持している池田克己の写真集には「黒田挟範川崎製作所産業報国会」の蔵書印がある。同工場で働く産業戦士たちが中国での自立を夢見ながら手にした写真集だったのだろうか。


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 『フイリピン共和国 報道写真集』は宮本三郎の描く「比島革命の志士ボファッショの記念像」で装丁されている。第一部フィリピン攻略戦、二部フィリピンの文化、三部フィリピン共和国建設へ、の三部構成。第一部の戦場場面の写真以外は熊井健夫報道班員の撮影したものと記録されている。毎日新聞社の「序」を転載しよう。

 序 大東亜戦争は米英の利己的世界制覇の夢を破砕し、わが崇高なる肇国の大理想を新たなる世界秩序の上に実現せんとする人類史上未曾有の大戦争であるが、この戦争目的の現れとして決戦を前に早くも見られたフィリピン共和国の誕生は、永く米国の桎梏下に喘いでいた新共和国民はもとより、東亜十億に民族が等しく歓呼して迎えるところである。本報道写真集は、その誕生の祝いに贈られた記念の写真帳であって、新国家誕生の陣痛ともいうべき比島作戦の経過から、健やかに育ち行く新国土の姿までが艶麗なる印画によって記録されている。しかもこれらの写真は、すべて報道班員の撮影にかかり、これを編集し、印行するものは現にフィリピンにおいて日刊新聞紙の出版にあたりつつある毎日新聞社であるという点において、他に比類をゆるさぬ特異性をもつといえよう。本書の刊行は必ずやわが国民をして前線将士の奮闘の実相と、新国家の全貌を知らしめ、しいては大東亜共栄圏の確立を目的とする今次戦争完遂の決意を固からしむるものであることを信じ、敢えてこれを世に薦める次第である。           昭和19年3月  毎日新聞社


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 このような「序」を読んだ読者は、独立記念日の様子を撮影した何枚もの写真を見て(14葉)、「東亜に還った比島 建設に見る皇軍軍政の寄与」を疑う者はいなかっただろう。二葉だけ転載する。最初の写真は「独立記念日当日の女子行進」、もう一枚は「独立慶祝演奏会で『大比島行進曲』の演奏と合唱の指揮をとる山田耕筰」。この行進曲はもちろん彼の作曲である。お愛敬なのは、最後の写真。宮本三郎の描く「投降を申し出るウエンライト司令官と本間最高指揮官」の絵である。あのパーシバル将軍と山下将軍とのシンガポール降伏会見の構図と日米の位置が逆のほかは全く同じである。
 フィリピンの人たちは、当初、日本の軍政に期待したが、自由のない差別とインフレによる生活苦で裏切られ、日本軍政に抵抗した、というのが歴史の伝えるところだが、この写真集から、そのような気配はまったく感じられない。


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 『大東亜戦争と台湾青年 写真報道』は1944年9月から台湾で実施された徴兵制度を記念し宣揚するために発行されたもののようだが、同時に、その徴兵制度が台湾青年達の要望に応えて実施されるもの、「強制したものではないよ」という面を強調することも目的にしていたような編集である。
 写真は徴兵制実施感謝島民大会で「栄町通りを行進する青年団と合唱隊姿」。


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 『マライ総観 現地派遣軍撮影』は巻頭に陸軍報道部長・陸軍少将谷萩那華雄の序文がある。彼は「…新生マライの眞の姿を紹介しようとする書籍は少なくないが、写真によって「まず見て」分からせる目的を以って編まれたものは皆無と言って差し支えない……」とのべている。そして64ページにわたってたくさんの写真がシンガポール攻略戦の経緯とマライ半島の人文を紹介している。転載したのは「日本語学校」。

 「マライでは日本語普及運動が活発に展開され、着々その成果をあげている。最初の先生は兵隊だった。警備や公務の余暇を見つけて温かな寺子屋式の教場がまず住民たちの新しい意欲に応えて出来上がった。そして逐次本格的な日本語学校が組織され、一年にして既に数千の日本語習得者を出し、さらにこの努力は続けられている。洋々たる前途思うべしである」と言ったキャプションがある。
 日本語学校は詩人・神保光太郎が校長に就任し、井伏鱒二、中島健蔵などの陸軍報道班員が運営に従事した。神保には『昭南日本学園』があるが、井伏や中島は日本語学校について何も語っていない。


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 『軍神加藤少将写真伝記』は1942年5月に戦死した加藤建夫中佐(戦死して二階級特進し少将)の40年の生涯を記録した写真集で、この種の写真集としては、個人アルバムと言っても過言でないほどの写真が(彼の4歳から40歳まで)収められている。加藤少将のことは陸軍隼戦闘部隊として映画にもなり、灰田勝彦の歌う主題歌とともに世間の話題になった。


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 『勝たずして何の我等ぞ』は陸軍省報道部が大東亜戦争第三年の陸軍記念日に「全国民よ強く耐えよ」とうったえて戦意高揚に努めた全国移動写真展の展示写真を収録したもの。『FRONT』の影響が大きい内容である。  集めた写真集を紹介するのが趣意ではないが、以後に語ることのためには、その出典を明らかにしておく必要があると思うので、今少し付き合っていただこう。
 次回では『アサヒグラフ』を瞥見する。



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