空席通信
2008.05.17 No.128


戦争と写真 5

  日本がアメリカとイギリスを相手にした戦争は、1941年12月8日の早暁に敢行した二つの奇襲攻撃によって開始された。
 一つはマレー半島の英領コタバルへの敵前上陸。午前0時45分。
 もう一つはハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊への爆撃機による攻撃である。これが午前3時19分。
 奇襲攻撃は、いってみれば寝ている相手に襲いかかるようなものである。成功しなければおかしい。案の定、どちらの攻撃も大成功だった。
 この1941年12月、日本は支那と4年越しの戦争--支那事変(1937?)の最中であった。
 支那大陸に進撃して北京、南京、上海、徐州、広東、武漢などを占領した日本軍は、南京に傀儡政府を樹立して拡大する戦争の終結をはかったが、蒋介石が率いる国民政府は米英の応援のもと、重慶に遷都して日本軍に抵抗し、戦闘は膠着状態になっていた。その閉塞状態を打ち破るかのように、戦争は拡大したのである。
 米英との開戦を知らせる新聞には「米英庸懲世紀の決戦」「世界新秩序建設戦」「対米英戦」「米英撃滅戦」「米英破摧戦」などと、いくつもの戦争の呼称が登場し混乱していた。
 戦争の呼称が統一されたのは奇襲攻撃から5日後の12日の閣議で「支那事変を含めて大東亜戦争とする」とさだめられてからであった。
 開戦当初の『アサヒグラフ』を見ると、戦況の急展開に翻弄されて混乱していた編集部の状況が伝わってくる。まず、その点を観察しよう。  『アサヒグラフ』は毎週水曜日に発行される。
 開戦の12月には3,10,17,24,31日と5回の水曜日があった。手元にあるのは17日号(第37巻第25号)からのものである。新聞の広告欄を見ると10日号の広告がある。発行されたことは間違いないだろう。しかし入手出来なかった。3日号が発行されたのかどうか。これも入手していないから未確認。
 8日が開戦日だから、大東亜戦争に関連した写真が『アサヒグラフ』に報道されるのは、単純計算では、2日後の10日号からだろう。しかし、周知のように、週刊誌や月刊誌の発行日は実際の日時より先行している。月刊誌の5月号は4月には発売されている。編集は4月中に済んでいるのだ。週刊誌も同様で最低でも一週間は先行している。したがって大東亜戦争記事に間に合うのは17日号だろう。事実、10号の広告によれば記載されている記事は「世界に儼たり防共13ヶ國」とか「皇軍の黄河二千メートル架橋」といった記事である。「太平洋作戦の米海軍」の記事があるが、戦争の記事ではなく日本を恫喝する米海軍の陣容を紹介しているものだろう。
 この時点で編集スタッフは開戦で騒々しい巷間の話題と同誌の記事内容のタイミングずれにやきもきしていたと推察できる。現在のように瞬時に報道写真が送達される時代ではなかったが、2週間もあれば間に合った筈だ。実際、マニラを占領した(1月2日午後)日本軍入城の第一報写真は1月10日の紙面で発表されている。
 で、17日号だが、これにも戦争記事はない。
 それが登場するのは24日号からだ。なぜなのかは先述したとおりである。
 24日号の表紙は山本連合艦隊司令長官。「米英撃滅第一報 起て!一億国民が国家に捧げる時はきた」と意味不明のキャプションが大きな活字で組まれている。国民が国家に何を捧げるのか、これだけでは判らない、というのが現在の常識だが、当時は自明のことだったのだ。捧げるのは国民の生命である。


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 そんな詮索ともかく、24日号にもハワイの大戦果を報道する写真はない。あるのは撃破したというアメリカ太平洋艦隊の編成を紹介する写真である。そのほかの写真は「包囲陣正に鎧袖一触」のキャプションで飾られた「南方○○方面に堂々進撃する陸軍先鋒部隊」や炎上するシンガポール飛行場、香港といったもの。どの写真も日常に身近でリアルな戦争を感覚させるものではない。八社のマスコミが共同主催した「米英撃滅国民大会」(12.10)が後楽園球場で行われている写真が唯一、身近な戦争色のあるものだ。この写真は10日の夕刊紙面に掲載されたが、その時は8×6センチくらいの大きさだった。『アサヒグラフ』は、ご覧のような迫力あるもの。


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 朝日新聞社は25日、「単なる写真画報としてではなく今後の戦争進展に伴う絶好の参考資料ともなり、永久に今次大東亜戦争の大勝を記念するに相応しい全家庭必備の国民画報である」と『アサヒグラフ臨時増刊 大東亜戦争画報』(34頁)を発行した。
 通常は22頁25銭だが増刊号は30銭だった。しかしここにもハワイの大戦果を伝える写真はなかった。あるのは「我が海軍力」、「陸鷲の電撃的進撃」、「沈没する英東洋艦隊の二巨艦」、新聞と同じように軍事年鑑から転載したような船影写真を添付した「米太平洋艦隊の全滅」などで、樺島勝一の描く「運命迫る英の巨艦プリンス・オブ・ウエルズ」の絵がかろうじて戦闘場面のイメージをかき立てていた。


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 31日号は発行されず、翌年の1月7日号と合併した号(38巻1号)を発行している。42頁40銭。ここにもハワイの写真は掲載されていない。あるのは鈴木御水「ハワイ空襲」、松添健「かくもあらんプリンス・オブ・ウエルズの最後」といった絵であった。このあたりの消息は新聞と全く同じである。その写真が登場するのは昭和17年1月14日号(38巻3号)で表紙には大きく「香港陥落第一報」「見よ・ハワイ大奇襲」とある。ハワイ奇襲の写真は9葉。1日の新聞に発表された6葉のものと大差ない。ホイラー陸軍飛行場が黒煙を上げている様子を4つのアングルで撮影した写真があり、そのうちの二枚が新聞にはなかったもの。これで遅れた報道の顔を立てたつもりなのだろうか。


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 大きな紙面で見る写真は、新聞紙面のものより迫力がある。映像は大きいほど真実らしさが増すのである。そして奇妙にも、次号(1月21日号)の表紙は『アサヒグラフ』の題字の上に「大東亜戦争第4報」と記載してある。いきなりの第4報だ。12月24日号の「米英撃滅第一報」が1報で、新年の合併号が2報、1月14日号が3報と計算すれば、算術的には整合するが、そのことをことわる「お知らせ」はない。
 このあたりが編集部の混乱をしめしている。以後、『アサヒグラフ』は表紙に「大東亜戦争第○報」の文字が必ず記載されている。さながら『アサヒグラフ』が大東亜戦争画報になってしまったかのようである。この文字が小さくなるのは、シンガポール陥落記念号となった1942年3月4日号(38巻10号)の時だけで、1943年12月29日号(41巻26号)の「大東亜戦争第百四号」まで継続された。そして1944年1月5、12日合併号から「大東亜戦写真報道第百五号」と変わる。このスタイルは1944年3月29日号(42巻12号)まで続けられ、つぎの4月5日号(42巻13号)から「大東亜戦写真報道・第百十七号」は従来の位置から表紙下段に移動し文字も小さくなってしまう。代わって従来の位置に座るのは「畫報雑誌」という囲みの文字になったが、それも1945年1月17日号(44巻3号・大東亜戦写真報道・第百五十七号)までである。正確に記せば、この号の前の1月10日号には畫報雑誌の文字がない。わたしが戦時資料として蒐集した『アサヒグラフ』の最終号は1945年7月25日号・大東亜戦写真報道第百七十九号だが、そこにもこの文字はない。消えてしまった。確認した戦時下の最終号と思われる『アサヒグラフ』については、本信の100号をバックナンバーで見て欲しい。
 書誌的なことを長々と語ったが、このような変化は戦況の推移と関係しているように思えるので、あえて記した。それは22頁25銭だった同誌が18頁25銭になり(1943年1月20日号)、同年7月7日号から26銭と値上げし、1944年4月5日号からは二色刷りだった表紙が、一色になってしまうことにも如実に表れている。手元の最終号は15頁で40銭。もう戦争遂行の資源は国内になく敗色が濃厚になってきたのである。
 さて、『アサヒグラフ』大東亜戦争第一号から第49号までで忘れられている写真を瞥見しておこう。丁寧に拾っていたら大変な数になるので、わたしの目をひいたものだけだ。したがって、忘れられているというよりも「珍しい」写真と言い換えれば誤解がないかもしれない。


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 軍神広瀬武夫のことを知っている人も少なくなった。日露戦争の旅順港閉塞作戦に水雷艇の艦長として出撃し、露軍の魚雷によって乗艦は沈没したが、離艦の際に部下の杉野兵曹の姿がなく、その捜査中に敵弾に倒れた海軍中佐である。部下思いの軍人精神美談として語り伝えられ私たちの国語教科書にも登場した。彼は軍神と崇められたが、その偉勲を讃えて神田萬世橋のほとりに銅像が建立された。
 この写真は、39回の命日(3月27日)に挙行された追遠祭の様子をスナップしたもの。わたしは5歳の時に父に連れられて見た記憶がある。そびえるように高い銅像だったという印象が強かった。銅像は彫刻家渡辺長男が制作したものだが、「軍人の殉忠を讃え国民の戦意高揚を強調するもの」として1947年7月21日にクレーンで撤去された。銅像は、その撤去に抗議するかのように吊り下げられた状態で大きく揺れ、ワイヤーが切断して地面に激突した。

 つぎの写真は右から林芙美子、真杉静枝、壺井栄、山川朱美。「新緑に雨煙る4月16日、勝海舟の筆になるという「海軍兵学校」の門標を、雨傘のかげから仰ぎ見る4人の女人部隊。わが無敵海軍の中堅たる青年将校揺籃の地、そして真珠湾口に玉と砕けた9軍神中、4人の将校の母校であるこの兵学校を親しく見学して、感激を新たにしたいというのがこの女たちの念願であった……」と説明がある。女流作家たちの二泊三日の女人禁制学校の見学旅行である。


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 文化人たちが軍報道班員として活躍したことは何回ものべているが、1942年5月13日号(38巻20号)には、つぎのような「殲滅戦を凝視する火野葦平」「第一線陣地を描く向井潤吉」の写真と文が掲載された。
 大本営陸軍報道部員・陸軍少佐富永亀太郎が、大東亜戦争で軍報道班員の活躍が如何に奏功しているか、その努力を国民は大いに買わなければいけないとのべ「報道班として活躍している著名人は多いが、尾崎士郎、阿部知二、石坂洋次郎、富沢有為男、武田麟太郎、火野葦平、海音寺潮五郎や小栗虫太郎等の作家、田中佐一郎、向井潤吉、鈴木栄二郎等の画家、小野佐世男、横山隆一等の漫画家など馴染みの人たちをはじめ、優秀なアナウンサー、写真家、語学者、編集者など錚々たる連中が文案図案その他の構成に当たって居る」と伝えている。

 南方軍報道班長町田敬二はバタビヤで活躍中の報道班員を「戦いつつ建設する文化部隊は南方作戦史のかくかくたる武勲に正に香気ある花を添えるもの」とのべている。これは右から陸軍報道班員横山隆一、阿部知二(横顔)、大木惇夫、河野鷹思、大宅壮一らの写真。


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 1942年4月18日、日本本土が初空襲をうけたが、油断していた本土防衛軍はなすすべもなく周章狼狽し、敵機群は一機の損害もなく支那へ逃走した。この空襲の被害は当初極秘事項として封印された。葛飾区では小学生が機銃掃射で通学路上で死に、早稲田学院の中学生は爆弾の直撃で校庭で死亡した。敵機は一機も損害を受けずに支那へ飛び去った。しかし、燃料が切れ、何機かが日本占領地に不時着して捕らえられた。日本軍は支那大陸で捕獲した敵機を、あたかも撃墜したように見せかけて靖国神社臨時大祭(4月25日)に展覧した。これはその時の写真である。
 米国がハワイ奇襲攻撃の報復として実行した日本本土空襲は、機動部隊が日本の哨戒船に発見されたため、予定を夜間爆撃から日中爆撃に変更、そのおかげで重慶の飛行場に着陸する時間が夜間になり、何機かは日本占領地に不時着したのだが、それを急遽、日本に持ち帰って展覧したのである。「4月18日本州を空襲逃走中我陸軍部隊に収容せられし米軍飛行機中の一部の残骸なり。4月25日陸軍省」という標示が添えられていた。くりかえすが「収容せられし」の実態は、燃料切れなどで不時着した敵機を収容したのであって、撃墜したものではない。すでに「9機撃墜」と虚偽報道をした防衛軍の苦心のアリバイ工作であった。ところが神社境内に集まった群衆の目はだまされているのも知らず「これがあの小癪な敵機か」と「好奇から勝利の歓喜に輝くのであった」という。

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