空席通信
2009.1.16 No.130


戦争と写真 7


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 「東西盛り場の決戦調」(44.7.26)と題するもの。全ページを転載できないから文章で補足する。この年の3月、「決戦非常措置要綱」が実施され官庁の休日廃止、高級享楽の停止、高級興行・歓楽場の閉鎖、六大都市の国民学校(小学校)の給食などが決定した。何が高級で、どれが低級か。線引きは難しい。それを享楽や娯楽に当てはめるのはさらに無理な話だが、しょせんは軍人や官僚が決めること、いい加減なものであった。待合、芸妓置屋、芸妓、カフェー、バーなどが全て廃止された。有楽町の日劇や浅草の国際劇場は閉鎖されて軍需工場になり、動員された女学生たちが、寒さにかじかむ手をこすりながら、そこで風船爆弾を造っていた。大きな紙風船を偏西気流に打ち上げて、アメリカ本土を爆撃する作戦である。六大都市の国民学校で給食が実施されたのは、食料の配給が行き詰まり、発育盛りの学童に充分な栄養補給がなされない点を考慮しての措置であったが、現状は栄養補給にほど遠い給食であった。長野県の国民学校では、42年頃は「肝油ドロップ」が昼食後に配られていた。44年頃になると、その補給が出来なくなり、蚕のサナギが二粒づつ配られた。いわゆる「女工哀史」の時代に彼女たちが貧しい食事を補うために食した、あのサナギである。
 その頃、深尾須磨子は「戦う花」(国民合唱)で「花も戦うお国の大事、結ぶ心の赤 だすき、長い袂に別れを告げて、大和なでしこ凜と咲く」と作詞した。東では銀座の喫茶店が休業をさせられ勉強室に変貌した写真、浅草観音での飛行機献納募金風景、銀座をもんぺの国民服スタイルで歩く女性などが紹介され、西では、歌舞伎座が軍需工場になり「戦力増強館」と看板を変えていること、道頓堀の芝居小屋の幟や幔幕が戦時債券の幔幕になっていること、松島大通りに出現した大防空壕などが写されている。


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 つぎの写真(44.8.2)は石川達三の「帝国海軍を讃ふ」である。この檄文で石川は「連合艦隊は健在なり」と虚偽にみちた内容を2ページにわたってのべている。ほんとうに健在なら、何も高言する必要はないだろう。高言するところに「虚偽」が見え見えだが、そのような知恵は、当時の国民には無かったのだろう、石川の言説を素直に信じたのである。二年も前の42年6月のミッドウエー海戦で海軍は手痛い敗北をこうむり、開戦当初の戦闘力を失い、健在とはかけ離れた状態になっていた。
 当時の連合艦隊司令長官は豊田副武海軍大将。内閣は小磯国昭陸軍大将が総理で海軍大臣は米内光政海軍大将だった。豊田は敗戦後、戦犯として逮捕され48年に釈放、1957年に他界した。小磯はA級戦犯として終身刑。服役中の50年に病死。米内は東久邇宮、幣原各内閣の海相に就任、最後の海軍大臣になり、戦後、北海道の牧場や食品会社の会長になって48年に死去した。


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 この写真は、上板橋第三国民学校の生徒二〇〇名が群馬県妙義町へ集団疎開したスナップ。「学童集団疎開の第一陣ゆく」と勇ましいキャプションだ。
 11月24日、サイパンから飛来したB29が二時間にわたって本土を空襲した。サイパン島の日本守備隊は44年7月に全滅し、同島はアメリカ軍の航空基地になっていた。例によって空襲の「被害は軽微」と発表され、それを裏書きするような写真が提供されている。それらの写真には「わが高射砲の弾幕を縫って遁走するB29」「B29が遺棄した予備燃料タンク」「活躍する防空陣」などと説明されているが、日本の高射砲はB29の飛行する高度まで着弾しないものだった。B29に届かずに爆発する高射砲弾の弾幕をとおして敵機の編隊が見える。それを「遁走する」とは、よくも表現したものである。この時のB29の襲撃目標は武蔵野の中島飛行機工場が主であったが、荏原、品川、杉並、江戸川なども爆撃され「大型焼夷弾による破壊及び、発火力強度のため初期防火及ばず各所とも火災一挙に発生」、消火活動は困難をきわめた。死傷者550名、被害家屋332と『東京都戦災誌』(53.3.30)は記録している。以後、本土は殆ど連日連夜空襲される事態となった。


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 学童集団疎開については、現在もいろいろ取りざたされ、戦争下の子どもの問題が提示されている。この写真は幼児集団疎開を記録した、この時点での唯一の珍しいもの。大日本母子愛育会の荏原区戸越保育所と本所区の愛隣保館保育部の幼児たちが11月末から12月初旬にかけて埼玉県埼玉郡の平野村妙楽寺に疎開した状況である。幼児集団疎開については、忘れられて語られていない。拙著『日の丸は見ていた』の第三章「ワタシタチハ ナニモイワナイ」が、まとまった初めての記録ではないかと自負している。ぜひ参照してほしい。


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 災害時に活躍するヘリコプターの最初の写真である。アメリカがビルマ戦線で使用したのが世界初のようであるが、日本では未だテスト機の段階であると説明している。(45.2.21)

 本土を空襲するアメリカは、日本の防空態勢がゼロ状態であることを察知してか、艦載機まで使用し始めた。45年2月16日、関東、静岡地区にグラマンF6F、カーチスSB2Cが飛来したのである。機動艦隊が本土沿岸に常駐停泊したのだ。「神州の空を窺うものの運命はなべてこれなることを敵米よ知れ!」の惹句でグラマン(上)とB29(下)の「醜骸」が紹介されている。この号(45.2.28)には2月19日、午前8時、硫黄島に敵軍上陸したというニュースで、日本軍の勇士たちが防備につく様相を紹介している写真もあるが、転載するほどのものではない。次号(3.7/44巻10号)に「皇軍硫黄島に激闘」の写真があるが、敵が上陸する以前に撮影したものだろう。
 艦載機初空襲の日、大隈講堂(早稲田大学)や目黒区上目黒の民家が被弾したが、後日、これは日本の高射砲弾の不発弾が落下したのであることが判明した。射程高度が低い帝都防衛高射砲陣は、味方に被害を与えていたのであった。浜名湖周辺には「つぎは何処を爆撃するか」と空襲を予告するビラ(伝単)が散布された。当局は血眼になってそれらを回収し、所持している者は厳罰に処せられた。
 艦載機は2月25日に再度来襲した。600機におよぶ襲撃で、本土上空を低空で飛来するノースアメリカンP51,グラマンF6Fには星マークが描かれていて、操縦者が見えた。以後、艦載機の空襲も常態化する。山奥といってもいい長野県上田市の陸軍飛行場までが艦載機の攻撃を受け機銃掃射を浴びている。『アサヒグラフ』は3月に7,14,21,28日と4冊発行されている。この間に硫黄島守備隊全滅、東京大空襲などがあったが、それらを報道する具体的な写真は翌4月5日号のものだけである。


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 つぎの写真は3月21日号の表紙「3月10日の帝都空襲に於ける民防空陣の消火作業」と説明されているもの。
 『アサヒグラフ』はこの号(45.4.5)から月三回発行の旬刊制になった。資材が不足してきたのである。その表紙写真だが、ビルマ戦線で英軍の反攻に対して猛射をあびせて奮闘中の皇軍機銃陣との説明、何処まで真実か、この写真からは判定できないだろう。何処の戦線と説明しても通用する便利な写虚(真でなく、うそを写したもの)だから。
 『アサヒグラフ』には軍報道班員や文化人たちの文章、読者の投稿マンガ欄など、写真以外のページも、開戦初期はにぎやかであった。それらにもふれたいのだが、写真が主体だから、あらかたは割愛している。そんな中でつぎのものだけは触れておこう。逗子八郎(歌人・井上司朗情報官)が「捨命精進」と題する文を45年3月7,14,21,28,4月5日号と5号にわたって連載発表している。時期が時期だから題名を見ただけで「神風特攻隊」のことと判断できるだろう。日本人の死生観を説き特攻隊の精神を正成、正季の楠公親子が死にのぞんで交わした「七生報国」と同一だと『太平記』から引用している。この井上情報官の文に限らず、『アサヒグラフ』に発表された文は、その筆者の全集や作品集には、まず収録されていない。隠されている。忘れられてしまってもいる。グラフ誌だからと軽視せず、それらの文を丹念に検証する必要がある。


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 さて東京大空襲の被害を伝える写真は、既述したように4月5日号に発表されている。「焦土を越えて我等は征かん」という5葉。右上が(1)その下が(3)、左上が(2)(5)その下が(4)とあり、(1)焼跡の整理とともに鉄屑回収に奮闘する軍隊、(2)工場再興に挺身する学徒勤労部隊、(3)焼跡を耕して菜園に、(4)炊事や洗濯に見せる負けじ魂といったキャプションである。つぎの写真は焦土を乗り越えて生産場へ、と説明している。「負けじ魂」とは、どのような神経で表現しているのだろうか。この号には「醜翼の墓場」としてB29搭乗員の死体写真もある。そこにはつぎのような文が併載されている。全文引用しよう。

敵B29の殺伐爆撃によって、わが方の受けた損害も決して少なくはない。しかしこれは戦争の冷厳な実相だ。弱気は断じて禁物である。敵が其の凶悪な殺伐を繰り返せば、その都度猛烈なわが激撃戦によって、敵は手ひどい痛打を受けつつあることをも併せて思うべきだ。最近に於いては来襲の度ごとに平均約5割強が撃墜、大破の憂き目に遭うているのである。厖大な建造費をかけ、莫大な燃料を費消し、不足し行く搭乗員をかりあつめ、驚くべき整備の無理を重ねながら飛来するこの敵も、本土上空に於いて痛烈な出血を強要されているのである。勿論楽観は許さるべきではない。算段高い敵である。新基地より費用のかからぬB24を、戦闘機護衛のもとに送り出すであろうことは、夙に指摘されているところだ。しかし、彼等が凶悪な戦術・戦略の爆撃を行う度に、わが本土及びその周辺が、醜翼の墓場になって行くことを、敵はよく覚えておくがいい。

 無署名の文だが、カメラマンが書いた文章ではないだろう。
『アサヒグラフ』は、焼け跡を菜園化し、つまり戦災地を畠にして食料増産しよう、楽しい穴居生活(ちっとも楽しそうでない)、家は焼けても闘志は焼けぬ(焼け野原の中のバラックで談笑しているいろいろな風景)、神田復興義勇隊の「農作隊」などの写真を繰り返し使用するようになる。勤労に挺身する女学生の写真などは、胸の札が(校章だろうか)同じ札の生徒が何回も登場している。同じものを繰り返し使用したのだ。


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 つぎの写真は手持ち『アサヒグラフ』の最終号7月15日(第44巻24号)の表紙で、「弾薬検査に必死敢闘の女子学徒挺身隊」と説明している。これも、よく登場する校章の女学生たちである。
 この号にはほかに、特攻隊員たち、飛行機増産工場、先生たちの田の草とり、とたいしたものはない。あえて挙げれば、名古屋地区に落とされた焼夷弾から草刈り鎌をつくる模様が写されているものだろう。山のように積まれた焼夷弾殻が見える。一本の焼夷弾殻から6挺の鎌が出来るなどとノー天気なコメント。日米の圧倒的な物量の差については全く論評していない。


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 さいごに、この号の裏表紙をしめる広告を掲載しよう。少国民世代にとっては脳裏に焼き付いているコピーである。写真を語る文に、広告画を引用して、皮肉ぶっているのではない。複製技術の時代に、スキャナーで紹介する広告画も、映像のひとつであり、「大衆的テクノ画像」であろう、などとフルッサーの言葉を引用するつもりもない。このようなコピーが当時のあらゆるメディアに溢れていた状況が、認識されればいい。医薬品の広告や、女性の生理用品の広告も、兵器増産、戦意高揚に結びつけられて、その種のコピーが溢れていたのである。
 さて、気づいた読者もいるだろうと思うが、『アサヒグラフ』に収録されている写真をいろいろ転載した中で、44年秋から45年の敗戦時に登場した生き神と言われた若い人たちのものだけは転載しなかった。彼等の大きな空席に匹敵する写真が、『アサヒグラフ』に掲載された中には一枚も無かったからである。無かったのではない。実際に撮影されたが軍の機密のために、あっても掲載を許可されなかったのだ、と解釈しよう、そう自問自答したからである。さらに、所詮、『アサヒグラフ』は国家の宣伝写真ばかりだといってしまえば身も蓋もないからである。
 知覧高等女学校の女学生たちが、満開のサクラの小枝を振って特攻機を見送る有名な写真は、戦後になってから発表された。大阪の毎日新聞社が大切に秘蔵していたものだ。この写真の衝撃は「硫黄島の星条旗」を吹き飛ばしてしまう。しかし、繰り返すが、そのショックは戦後であった。したがって、ここに転載しない。
 その写真が、戦中の紙誌面に掲載されなかったことを、喜ぶべきか、悲しむべきか。
 誰が? 国家? わたしたち?

 戦争を遂行した犯罪者として連合国から巣鴨拘置所への出頭命令がだされた5摂家筆頭関白家の近衛文麿(1891〜1945)は、命令に服さず自殺して54年の生涯を終えた。彼は木戸幸一から「すぐに辞めたがる男」などと評されたが、三回、内閣総理大臣として戦時日本の政治をリードした。
 第一次近衛内閣では日華事変の不拡大政策が破綻するや「国民政府を相手とせず」の声明を出して戦争終結の道を閉ざし、第二次近衛内閣では新体制運動を展開して国家総動員の翼賛体制を実現した。そして第三次内閣で、主戦論の東條陸相に屈服して総辞職、日米開戦の事態となった。新体制運動では国のあらゆる団体や組織が、「バスに乗り遅れるな」の言葉のもと、新しい体制へと変革したが、興亜寫眞報國會も、そのような時流によって1940年12月に組織された写真家の団体。組織の詳細は知らないが、機関誌『日輪』を発行していた。手元にその42,43年のものがある。いつまで刊行されたのかは不明である。


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 写真家の団体が発行する機関誌だから、注目する写真が掲載されているかと期待したが、特別に取り上げる写真はない。写真家団体と言っても、個人写真家の集合体であるから新聞社や雑誌社のような力はない。写真家が身の保全のために「乗ったバス」にすぎないからだろう。したがって当局から利用されたり、会員向けに不足してきた写真資材を特別に提供されるようなこともなかったようだ。この忘れられている機関誌『日輪』が、わが国の写真史に残したものがあるとすれば、それは同誌に掲載された写真でなく、花森安治の「感想大詔報答展について」(42.3月号)、吉田延美の「写真報道班員の手記」(42,4月号)、宇野重吉の「移動演劇隊は行く」(43.5,6月号)などの文であろう。当時、認知されていたプロ写真家は年鑑などの資料によれば、三十数名だった。これには映画会社、新聞社、出版社などの専属カメラマンは含まれていないだろう。三十数名の中の金丸重嶺、杉山吉良、土門拳、真継不二夫などは、少国民世代のわたしも名前を知っているが、他は、ほとんど知らない写真家たちである。土門拳は軍の命令で働くなんてゴメンだと報道班員や軍需工場での勤労を忌避した希有な写真家などと言われているが、まだ誰も検証していない。今では著名な大竹省二、緑川洋一なども、『日輪』ではまだ投稿のアマチュアである。『日輪』の常連は猪野喜三郎、板垣鷹穂、稲葉晴煬、岡田紅陽、喜志義一、渡辺義雄などである。全巻を通覧しての感想ではないから口幅ったいが……。戦後、「暮らしの手帖」を発行した花森の戦時下の文章は少ないから貴重な資料だ。「感想大詔報答展について」は目次に記載されている表記で本文では「感想」がゴチックで「大詔に応へ奉る写真展を観て」と表記されている。花森は大政翼賛会宣伝部の職員として「国民が全生活を捧げ前線には血みどろの決戦が続けられているこの時、写真家は御民われ生けるしるしありの覚悟で国に尽くせ」と檄をとばしている。吉田延美は新聞社のカメラマンらしいがジャワで展開された報道班員の言動をカメラマンの目を通してのべている。ジャワで発行された「うなばら」に掲載の写真は彼の撮影したもののようだ。『うなばら寫眞畫報』や『天長節奉祝記念寫眞帳』など、はじめて知った現地出版の書影などもあり、現地少国民への日本語教育の様子を示す写真もある。『文化人たちの大東亜戦争』を上梓した際、軍報道班員の写真家たちのことを、かなり調べたが、吉田延美の名はなかった。映画関係者の中にポート・ダーウインの爆撃写真を撮影した人物で「吉田」という人物がいたが、不鮮明な資料で名前まで確認出来なかった。宇野重吉の文は、原爆の犠牲になった移動演劇隊の被害のことばかり語られる現在、戦争推進隊としての勇ましい移動演劇隊の活躍ぶりを語っている。

 戦争と写真のことを語るのであるから、『FRONT』をとりあげなければ画竜点睛を欠く、と言われるだろう。
 このグラフ誌は一般の人がほとんどふれたことがない特殊な性格のグラフ誌であるから(古書界を長い間彷徨したが同誌にであったのは一回だけ)、触れなくても良いと考えるが、同誌の作成に関わった人物と戦後、ある街の成人教育講座で、ともに講師を務めたことがあり、その縁で、いろいろ取材できたので、次回で、それらに基づいてちょっとだけ触れよう。

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