空席通信
2009.7.21 No.131


戦争と写真 8

 『FRONT』を語ることは、同誌についてある程度の知識を前提とする場合、そうでない場合とによって、叙述の容貌が全く異なってしまう。後者の場合は、そもそもの始まりからのべればよい。煩雑を嫌わなければ、さして問題はない。しかし、その煩雑は、それだけで一冊の書になるくらい厖大なものである。例えば、今の一般大学生は『FRONT』についての知識は皆無といっていい。そこで、昭和史から語ることになる。それがまた厖大な量であり、無知との関わりになる。高等学校までの歴史教育では、この部分がぽっかりと空白だからだ。このようなことになった責任は、大半が戦後教育を担った人たちの双肩にある。ある意味では生徒は被害者だ。しかし同情しない。自己学習する生徒もまれではあるが存在するのだから。
 つぎのような、全く別の面もある。
『FRONT』にかかわった人物が多士済々であり、しかも彼等彼女等がそのことについて多く語っていないし、資料も秘密のベールにつつまれている部分が多いから手にするものは戦後になってのものばかりである。したがって、入手した一次資料の検証からスタートするというスタンスの本信にはむかない。
 ここでは、前者の場合と勝手に決めて、略述にとどめよう。
 くわしい全貌を知りたい人は、戦後に書かれたいくつかの関連本があるから、それらを参照すればいい。特に、平凡社が復刻した『FRONT』を推薦する。この復刻本、既に版元では絶版で再版の予定もないと言うから、古書店で見つけるか、所蔵している図書館で調べることだ。古書店の場合はかなりの高価であることを覚悟しておいた方が良い。現存する全冊が三回に分けて復刻されているが、それぞれに付いている「解説」三冊が重宝である。古書の場合は「解説」添付の有無の確認を忘れてはいけない。

 1942年2月、『FRONT』が創刊された。1・2号の合併号であった。理由は不明だ。このように創刊号から合併号を発行した例は、あまり聞かない。
 同年3月、3・4号の、これも合併号を刊行した。以後、特別号二冊を含めて10冊・14号まで刊行されて敗戦を迎えている。ダブルナンバー(合併号)になったのは、本文32ページという当初の計画では、テーマが大きすぎて収まらないから、というおかしな説がある。そうなら計画を変更して創刊号からページ数を増やせばよいだろう。
 日本文化の宣伝でなく日本国力・軍事力の誇示・宣伝が主題だから「海軍号」がダブルナンバーなら「陸軍号」も同等に扱わなければ海軍と張り合っている陸軍側からクレームが当然あったろう。それで後は、だらだらと前例踏襲という伝統的な日本的処世が行われたと推察出来る。うがった推察をすれば陸軍対海軍の対立である。
  現在目にすることが可能な『FRONT』の表紙を全てカラーで紹介している文献は無いから全号転載する。


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FRONT刊行リスト
1-2号(海軍号)1942年。3-4号(陸軍号)1942年。5-6号(満州国建設号)1943年。
7号(落下傘部隊号)1943年。8-9号(空軍号)1943年。10-11号(鉄号)1944年。
12-13号(華北建設号)1944年。14号(フィリピン号)1944年。
特別号(インド号)1944年。特別号(戦時東京号)1945年。

 括弧内の文字は、制作者間の通称で、各号に正式な名称はない。
 わたしは復刻された『FRONT』を資料にしているが、1-2号は蒙古語で書かれたもの。その裏表紙の奥付に当たる柱には、わけの分からない蒙古語で書かれた四行の文中に括弧付きで、小さく(日本東京市小石川區金富町四十七番地)とある。この1-2号は、原本を見たことがある。その時は、この表記に気付かなかった。モンタージュ手法を駆使した写真が連続するページに圧倒されて裏表紙まで落ちついて見なかったのである。この番地(現在の文京区春日町)は東京市長の田尻稻次郎(1850〜1923)の邸宅所在地である。その邸宅(222坪)を岡田桑三という個人が購入し、そこを「東方社」と呼ばれている『FRONT』の出版社としたのである。だから、ちんぷんかんぷんの文字が並ぶ柱のなかにある日本文字は発行所の所在地を表示しているのだろう。
 この「東方社」を語るあたりから話がややこしくなる。岡田個人の裏には日本陸軍の参謀本部が控えていて、購入資金もそこが出所らしい、といわれているからである。
 それでは岡田桑三とはいかなる人物か。いわゆる『人名事典』や『人物事典』などにあたっても見あたらない。映画俳優? 軍の諜報にかかわる人物? 彼は市長の豪邸を購入するほどの金満家? 自己資金で購入したのだとすれば、その資金はどのようなことから蓄財されたのか?
 現在なら税務署の目がキラリと光るような話題だが、真相は分からない。彼が軍の諜報に何らかのかかわりをもった人物であったのではないかと想像するだけである。


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 もうすこし書誌的なことにふれる。海軍・陸軍号は15カ国語版が7万部ほど刊行されたという。それを確認する客観的資料はない。創刊時に、中国語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、スペイン語、オランダ語、ポルトガル語、タイ語、ベトナム語、インドネシア語、蒙古語、ビルマ語、インド・バリー語の外国版が予定されていた、という証言だけである。英語版は実物を確認しているが、他の言語版は写真では、いくつか見ているが実物は見ていない。
 この海軍号は評判が良かったので(というより海軍が大喜びして出版に協力したから)日本語版『大東亜建設画報』と誌名だけを変え「日本電報通信社」から42年の8月に定価1円80銭で販売された。表紙の上の部分に「大東亜建設」と大きく印刷され「設」の文字のつぎに「画報」と縦に印字されている。下の方には「亜細亜の護り━━帝国海軍」の文字。
 1-2号から14号まではA3判、特別号はB4判。7号と14号、それに特別号が48ページで、他は64ページである。A3判といってもぴんと来ない人のために言うが、縦42センチ・横29.7センチ。まさに豪華雑誌である。ちなみに、総合雑誌の『中央公論』『改造』などが90銭、映画の入場料が封切館で80銭の時代である。
 編集スタッフは、創刊号を「陸軍号」にするつもりで、準備してきたが、海外では日米開戦で海軍の評判が良かったことから、急遽、「海軍号」に切り替えたのだといわれている。この証言もにわかに信じられない。元来、人気など度外視した対ソ国威宣伝の出版企画だったはずだから。切り替えは他の理由だろう。緒戦の戦果にほくほくの海軍は取材にも積極的に協力したのだろうというのが私の推測である。陸軍は海軍ほどに誇る戦果がなく、軍機をたてに消極的だったのだ。現在、両号を比較してみると、「陸軍号」にはスタッフの創刊へのエネルギーを感じる。この「陸軍号」の「ロシア語」版は他の「陸軍号」と表紙が異なる。『大東亜建設画報』やこの「ロシア語」版などから窺えることは、宣伝誌故の変幻自在だろう。広告により、洗脳面より宣伝〈誇示〉を第一義としたのが『FRONT』である。

 岡田桑三(1903〜83)の母「よね」は英国人の父と日本人の母の間に生まれた。このあたりの消息は桑三の一子である岡田一男が文章(「父、岡田桑三---東方社初代理事長のこと」)を残している。「よね」は裕福な横浜の商家の跡取り娘としてわがまま放題に育った。新劇女優の東山千栄子や、あの羽仁もと子、説子などと付き合っていたようだ。やがて一番番頭の美平と世帯を持ち桑三が生まれる。だから岡田桑三にはハーフの血が流れていた。彼のことを、ドイツ人の父と日本婦人の混血児といっている間違った文章もある。いずれにせよ、独特の美貌、今で言う「イケメン」であったから山内光という芸名で日活映画のスター(松竹映画ともいわれているが間違い)であった、といわれても首肯できる。日活京都時代には岡田時彦や岡田嘉子などと交流があった。国立近代美術館のフィルムセンターには彼が出演した映画が保存されている。
 彼が視覚表象に手を出すのは18歳でのドイツ留学がきっかけであった。ベルリンのカイザー・ウイルヘルム芸術アカデミー美術工芸学校の舞台美術のアトリエに留学したが、この留学の際に、渋沢敬三(日銀総裁)、森戸辰男(文化功労者)、村山知義(劇作家)などと知り合い、後年の華麗な人脈の基盤を創った。彼等の(肩書きが)当時のものでないことは断るまでもないだろう。
 『FRONT』の出版社である東方社は陸軍参謀本部の直属出版社というのが実態であった。これは間違いない事実である。出資者の中には三井、住友、三菱と言った財閥がいたようだが、参謀本部がバックにいたから実現したことで、それを証明する資料は、軍の中枢秘密機関がらみであるから、明確には残されていない。『東方社業務計畫』だけが現存している。「参謀本部特殊機関東方社」とか「陸軍参謀本部写真部東方社」などといろいろ言われているが、この『業務計畫』からはそれが証明出来ない。見たことはないが、その社員証明書(身分証明書)があれば軍からの徴用を免除された、ともいわれている。
 それで半世紀もまえのことを思い出した。村野四郎(1901〜75・詩人)が「よっちゃん、よっちゃん」と呼んでいた詩人小林善雄に村野四郎の書斎で会ったことがあった。戦前の彼は「新領土」の同人だった。二人の詩人の仲がどういったことか、詳細は知らない。しかし、かなり親密な関係であることは、二人の会話を聞いていて理解できた。彼の住まいが村野宅の近くだったからだろうか、村野の書斎でよく同席した。ある時、彼に「戦場はどちらでしたか」とたずねたことがある。年齢から推察して当然戦闘経験があると思っていたからだ。
 東方社の職員だったから、徴用されなかったという返事だった。その頃のわたしは「東方社」についての知識が充分でなかったから、話はそれまでであった。わたしの親戚に金属会社を経営している者がいて、その工場は軍の指定工場として飯盒、鉄兜、鉄条網などの兵器を生産していた。いわゆる軍需工場である。工場の門の脇にはいつも警官がつめていて、出入りの人物を監視していた。工員たちは徴用を免除された。「東方社」も、そんなたぐいの会社だろうと思ったわけだ。村野の「理研」もそうだった。後年、ある古書店主と東方社について会話していて、たまたま小林善雄が同社の職員であったことに触れたら、店主は、彼と親しく、東方社の身分証明書を見せて貰ったことがある、と明言した。
 徴用で横須賀の工場にいた人が、つてで「東方社」に就職した話がある。参謀本部の文書でその工員は徴用解除になり、転職できたのであった。参謀本部の権力である。閑話休題。

 東方社については判らないことが多すぎる。関係者たちも多くを語らずに他界している。饒舌な中島健蔵などは一番の適役だろうが、肝心なことは全く語らなかった。ここではわたしが把握した関係者たちの名前をランダムにあげておくにとどめる。

 岡田桑三、山室太柁雄、今泉武治、菊池俊吉、木村伊兵衛、原弘、林達夫、岡正雄、岩村忍、杉原二郎、小幡操、春山行夫、太田英茂、建川美次、鈴木清、茂森唯士、中島健蔵、渡辺勉、大木実、濱谷浩、関口満紀、坂口任弘、辻潤之助、西野和夫、風野晴男、林重男、山本房次郎、多川精一、蓮池順太郎、勝野金政、飯倉亀太郎、田村清吉、桂小四郎、国司羊之助、小川寅次、宇佐美リツ、山川幸世、高橋錦吉、八木武雄、小泉謙次、土肥元雄、向坊マサ、三神勲、村上冬樹、滝田幸雄、北条真記子、三宅君子、平武二、小林善雄、光墨弘、内田武夫、薗部澄、岡上守道、服部四郎、中野菊夫、淺野隆、海老原光義,巌谷大四、高倉テル。


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『FRONT』に収録されている写真は報道写真というより宣伝・広告写真だろう。署名のないものばかりであり、ここに紹介する価値もない。政府発行の『寫眞週報』の写真も報道写真より広告写真が圧倒的に多い。その『寫眞週報』の初期のものには(19号まで)「今週のキャメラ」として撮影者の名前が記載されたりしたものがある。で、土門拳神話(前記)がストレートには受け取れない理由の一つとして彼の撮影した写真(1938・6・8号)を紹介しよう。この号は従軍看護婦の特集号で、その他に「大日本青少年団ドイツ派遣団」も特集していて、この撮影にも土門は関係しいていて、勇ましい写真があるが、1葉1葉に土門のクレジットがないから、どれが土門のものと特定できない。ついでに木村伊兵衛の「和平の芽ぐみ」も紹介しておこう。これは1938・7・6号のもので「南京城内」「上海南京路」などと撮影場所が記されている。
 土門拳が国際文化振興会の嘱託を辞任したのは、彼の論文「対外宣伝雑誌論」(『日本評論』1943 9月号)が発禁処分を受けたのが原因だが、これを彼の反戦思想のルーツとして(彼の言葉によれば「心のふるさと」として)、「戦争中はつらかった。国民徴用令による徴用工として軍事工場へ引っ張られるか、赤紙によって銃を取らされるか、報道班員として戦場へ狩り出されるか、この三者択一が、当時、僕たちのすべてに課せられた道であった。その三つのどれも、ぼくは御免だった」という『古寺巡礼』(1963年 美術出版社)の「あとがき」に連携することには与したくない。「御免」で生き抜ける時代ではなかった。至る所に相互監視の目が光っていたのだから。私の父は反戦思想家ではないが、普段から口が軽く、「天皇陛下にだって生理作用はある」などと公言して特高から睨まれていたが、不用意に天皇が靖国神社を参拝している写真が掲載されている新聞を切り裂いてガラスに貼ってあったのを見とがめられ、警察の留置所に2日拘留されたことがあった。ガラスに紙を張って爆弾で飛散するのを防ぐため、当時は何処でも窓ガラスに紙を貼ったのである。土門拳について論じるのが主意ではないから、これ以上は言及しない。『土門拳 生涯とその時代』(阿部博行 法政大学出版局 1997)、『報道写真と対外宣伝』(柴岡信一郎 日本経済評論)は参考になるだろう。
 戦時下に発行されたグラフ雑誌は、他に『NIPPON』(日本工房)がある。それは入手していないし、閲覧もしていないから本信では触れない。「赤十字の下に」と題する土門拳の組写真があるそうだ(1938・7月号 井上祐子「戦時グラフ雑誌の宣伝戦」)。『寫眞週報』の彼の写真も、組写真である。「御免」は安易な言葉。そう思いませんか。

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