空席通信
2010.7.7 No.133


戦争と写真 9

 この『空席通信』は戦時期が取材の対象であるから、戦後の事例に触れるのは本意でないが「東方社」について、述べておきたいことがあるので、とりあげておこう。
 その前に、東方社の身分証明書を入手したので「余話19」で紹介しておいた。周知のことだろうが、総裁の建川美次は『敵中横断三百里』のモデルになった軍人である。と言ってもぴんと来ない時世になったかな。
 東方社は社屋を空襲で消失し、参謀本部の改組に伴って所属も東部軍司令部の管轄になり、仕事もほとんどなくなった。それで社員たちは謀略宣伝物や書類の整理焼却に明け暮れていた。この辺りの証言は、多川精一の『戦争のグラフィズム』がくわしい。しかし、なぜ参謀本部から離れたのか。敗戦を間近にして軍部が解体を始めたことが大きな要因だろうが、具体的には説明されていない。整理焼却の仕事は、敗戦を境に最高潮になり、在庫の『FRONT』は、この時すべて焼却された。焼却炉からはおびただしい未焼却書類などが吐き出され、付近は(空襲の激化で木造社屋の東方社が焼失するのを恐れ、九段下の野々宮写真館に移転していた)その焼きのこり物であふれたという。社名も、占領軍からの戦争犯罪追及を恐れて、いちはやく「文化社」と改称した。社員には解散手当てを支給したが、インフレで殆ど目減りしたというが、その手当ては2100円だった。平均給与が100円前後の時代である。幸い、疎開しておいた資材がかなりあったから、それを利用して、何とか新会社を再建しようと努力した。
 中島健蔵や木村伊兵衛が中心になって、いろいろ処世したようだ。中島健蔵の『回想の戦後文学』にも、この辺りのことが簡単にのべられている。しかし、彼が、そこで述べたかったことは、東方社の最後の姿でなく、新生の文化社の初仕事であった『東京・一九四五年秋』(1946年7月刊)のことである。これは1945年の東京を記録した貴重なグラフ資料である。理由は中島も述べていないから不明だが、題名とキャプションには英訳文が添えられている。多川精一は占領軍のPXに納本するため、和英併記で記述した、と述べ「国家宣伝という使命から解放されて、見たままをありのままに撮った解放感がよく出ている」と自画自賛している。私は、当時、ああ日本も占領されてしまった、と暗澹とした思いに取り憑かれた。写真は木村伊兵衛や原弘が中心になって撮影した。どの写真も無署名であるが、添えられている文章は中島健蔵の執筆だと本人が証言している。手元にある同書は、比較的状態が良いから、その文章も読み取れるだろう。上野広小路の山下寄りに東叡堂という書店がった。そこで購入したのだが、当時の8円は私にとって高価だった。この店では、『チャタレイ夫人の恋人』を、清水の舞台から飛び降りる思いで買った事などを思い出す。
 中島は「被占領下という気がねの中で書いたものだが、戦後の荒廃の最中での描写であった」と述懐している。
 もう、この風景を覚えている世代は少なくなった。多川の『戦争のグラフィズム』(前記)にも、一部が紹介されているが、私の物と、表紙が異なる。何種類かあったのだろうか。これも不明である。『東京1945年・秋』は『TOKYO FALL OF 1945』といった英語になっている。秋はautumnと学習したが、「fall」は米語の秋である。「落ちる=負ける」といったニュアンスが感じられていやな題名だ。日本人として忘れてはいけない風景である。奇しくもまもなく、また「八月」が来る。以下に全ページ紹介する。

東京・一九四五年秋

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