空席通信とは


空席通信第1号
再開の挨拶

 暫く休んでいた個人誌「空席通信」がインターネットのホームページという体裁で登場します。これまでは最大で二〇部、少ない時は七部といった発信でしたが、こんどはアクセスしていただければ無限にひろがることでしょう。

  そんな期待と不安を持っての再発信です。よろしくお願いします。以下の文章、「通信」の常連は読む必要がないでしょう。なお本信は敬称を略しています。

 村野四郎(一九〇一〜七五・詩人)の死後、意気消沈の金井直と私は、立ち直るために一九七五年の夏、詩誌『回』を発行しました。季刊で一応は同人誌のような結構ですが、同人費は集めず費用はすべて私が負担しました。笹沢美明、板倉鞆音、天野忠、山崎栄治、滝沢忠義、岡部桂一郎、後藤信幸、三廼昭子、長野規ほか総勢十名ほどが同人に名をつらねました。総アートの瀟洒な詩誌で、三年間続けたら終刊にしようという約束でした。春夏秋冬以外に臨時号も発行しました。毎号の常連は、天野、板倉、滝沢、後藤、金井、櫻本でした。

 同誌に連載した拙論「詩人と戦争責任」が完結しないうちに最初に断っていた期日が来て『回』が終刊したため、「詩人と戦争責任」は中途半端なものになってしまいました。その原稿がそっくり残ったので、いくつかの出版社に声をかけたのですが出版を引き受けてくれるところがなく、それでは、と自費出版しました。こうして出現したのが『詩人と戦争』『詩人と責任』(一九七八)です。

 相次いで二冊上梓しましたが、その後は資金が続かず自費出版が出来なくなりました。そこで思いついたのが、折から普及し始めてきたコピー機を利用するミニコミ誌の発行でした。
 
 「空席通信」は、こうして一九七九年一月一日に発行されました。航空会社の宣伝誌のような名前だねなどといわれながら、幸い、支持してくれる人たちがいて読みつがれました。小宮山量平(理論社社主)は私の検証性に注目して児童版の「きけわだつみのこえ」のようなものが出来ないかと声をかけてくださり一九七八年に桑島玄二と共著の『つばめの教室』が上梓されました。

 「空席」は戦争の為に死んだ人たちが、生きていれば在る場所のこと。「通信」は、死んじゃった人たちの無念に代わっての発言、といった意味です。

 主題は一貫して文化人たちの表現責任の追及・追求であります。重いテーマであり、文化人たちから好かれるようなものではありませんが、すっかり忘れらている史実を発掘して記録しておこう、という意図もあるのです。

 「覗き屋」、「西部劇のリンチ煽動者」「暗闇で後ろから殴りかかる男」……などいろいろいわれている人物が開き直っての発言です。

 一九八二年、「空席通信」の読者である長浜功(学芸大教授)の推薦と友人の今野敏彦(東海大教授)の斡旋でマルジュ出版社を紹介され、櫻井香(社長)の好意で『日の丸は見ていた』を上梓しました。

 同書は好評で共同通信が全国紙に紹介し、そのおかげで版を重ね、同じ年に『少国民は忘れない』を上梓しました。その後、八千代出版、青木書店、未来社、開窓社、新評論、創土社、インパクト出版会などから20冊ほど出版しました。それらの詳細は著書目録を参照してください。

 私は、一応は詩人とか評論家などといわれていますが、自称したことはありません。自分では「日曜詩人」=アマチュア詩人と称しています。それでも生意気に詩集は何冊かあり、今手元に残っているものは、『ひょっとこ面』(一九五二)、『放心の星座』(一九五三)、『沈黙の領野』(一九七三)、『夜の扉』(一九七五)の四冊です。

 『放心の星座』は谷中の鶉屋書店の飯田淳次が他界される4年ほど前に古書市場から見つけてきてくれました。

 『ひょっとこ面』は長いこと手元にありませんでしたが、二〇〇〇年に文庫王・均一小僧などの異名がある岡崎武志が見つけだして送ってくれました。

 その経過は氏の著書『古本病のかかり方』(二〇〇〇)に収録されています。

 処女詩集『不良学生の家』や『バケツの中の水』『乖離』などはこの世から消えてしまったようです。
 
 まだまだ述べたいことがたくさんありますが、それは別の機会にゆずって、ともかくこれからのページを楽しんでください。

(櫻本 富雄記)


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