連載ミステリー 「八月のカラス」
第11回



6
 カーテンが引かれている彼女の個室はナースステーションの真向かいで、部屋のドアは開いていた。簡単に外れそうもないストッパーで止められている。要監視の患者だからか。男のような太い眉毛をした太った看護師が(師長であることを示すナースキャップを茶色に染めた髪につけていた)ガラス越しにこちらを睨んでいる。
 石膏に包まれた彼女の右足が、天井からさがっている吊り環のような器具に繋がれて固定されていた。点滴台に架けられているパックから黄色い液体が細いチューブを通してぽとぽとと落ちて彼女の右腕に点滴している。ベッドの下に隠すように置いてある透明のプラスチック容器から、細い管がマットの中に消えている。彼女の尿管に接続しているのだ。容器には茶色の尿が溜まっている。病室用のテレビの脇にキャスター付きの小さなテーブルがあり、花瓶に薔薇がいけられていた。ピンクと赤の薔薇。ピンクの薔薇は萎れかかっている。
 彼女は眠っていた。耳から外れたiPodのイヤホーンから歌が小さく聞こえる。「…泣けたらいいね うんと素直に泣けたら なぐさめられて…」彼女が好きな「道化の恋」の歌詞だ。カラオケで彼女が歌うのを何回も聞いた。阿久悠作詞・浜圭介作曲で、桂銀淑が切々と歌いヒットした歌である。確か歌い出しは「今が一番つらい時 心も体もぼろぼろで」だった。そんなことを思い出しながら枕元から落ちそうになっているiPodを手に取った。彼女の鼻の頭と右頬が擦り傷で変色している。濃い暈が瞼を包んでいる。あの世を見てきた目を塞いでいる瞼だ。
「どうして、こんなことになったの。何も相談しないで」と詰問するつもりだったが、彼女の包帯に覆われた寝顔を見ていて、そんな気持ちが萎えていった。若い女性の尊厳も恥じらいもなく、檻にいれられた獣のようにベッドに固定されている……。
 イヤホーンから聞こえる歌が韓国語に変わっている。「J」だ。韓国語で歌われているのをはじめて聞いた。哀調を帯びたメロディー。意味はわからない。「夢見た夏の日 遠く消えたとしても J わたしの愛は 今も変わらない」といった訳詞がつけられて桂銀淑が歌っているのは聞いたことがあった。訳詞のように、恋人を失った切ない歌詞なのだろう。恵美子はつらいだろうなあ。自分だけ生き残ってしまったのだから……。
 桂銀淑の歌に聞きいっていたら、
「純子、来てくれたの」
 目覚めた彼女がいった。かすれた、何年も喋ったことがないかのような声だ。
「今、来たところ。どう、大丈夫なの」
 小さな声でよく聞き取れなっかたが、「心配かけて、ごめんね」といったようだ。涙がすーっと彼女の目尻から流れた。

 純子になら、何でも相談出来た。そんな親友に、わたしは真実を語る機会を永遠に失ってしまった。
 でも、信じてもらえただろうか。
 話したところで、世間からは、相手の死をいいことに、身勝手な言い訳だ、なんて根性の悪い自己本位の女か、そう思われることだろう。
 でも、純子なら信じてくれただろう。しかし、どう話したらいいか。一度ついた嘘は消すことが出来ないだろう。これは裏切りだ。
 好きになった人が出来て、結婚するつもりだが、学業を続けたものかどうか、まだまだ勉強したいことはあるし、中途半端な結婚生活をしたくもないし、あなたも好きな人が出来ればわたしの悩みがわかってもらえるのだろうが、などと相談された時、彼と一緒になっても、学校は続けられるでしょう、彼も理解してくれるわよ、二人に愛があるんならと言ったのだったが、その際に、わたしにも、好きな学生がいる、と嘘をついてしまったのだ。しつこくメールや電話をくれる学生がいたことは事実だが、わたしはまったく迷惑している、残念ながら好意を持っている男性は目下のところいませんと言えばよかったのに。嘘をついたのは幸せそうな純子に、愚かにも軽い嫉妬と反発を抱いたからだった。後になって悶々としたが、嘘を告白する機会は巡ってこなかった。そして、この騒動だ。嘘は真実らしく虚飾されてしまった。
 死ぬこと-無理心中-などまったく考慮外のことだった。殺されるなんて!
 諦めました。自分の気持ちの整理をしたいから、最後に、一度だけ会って話を聞いてください。これでもスポーツマンの端くれです。二言はありません。真剣な彼の態度に打たれて話を聞いてやろうという気持ちになった。愛を感じたことなど一度もなかったのだから、話の後で、きっぱりことわればよい。相手も諦めてくれるだろう。そう簡単に考えていた。しかし、彼はわたしの顔を見つめるばかりで、何もしゃべらない。サッカー部の選手だと聞いていたが(サッカーの試合など観戦したこともないし、選手というのが本当なのかも確かめなかった)、立派な体格の男が、ポケットに手を入れたままもじもじしている様子は見られたものでなかった。
 学生たちから「サンシャイン」と呼ばれている人文科学系研究棟本館はキャンバスの中では一番高い12階建てだった。その屋上には誰でも東と西側の二つのドアから鉄製の階段をあがって出入り出来た。ドアには「立入禁止」のプレートが貼られていたが施錠されていることはなかった。この本館は10階からは教官の研究室で占められていてエレベーターでは、よく教官といっしょになるから、学生たちが利用するのは9階までで、それから上は敬遠されていた。そのうえ、冬は吹きさらしになり、夏は焼けるような日差しをもろに受けたから、学生たちが屋上にあがるのは春先と初秋くらいだった。屋上には特にベンチなどは設けられていないが、何者かが教室から持ち出したのだろう、木製の椅子が3脚と汚れた灰皿が転がっていた。屋上の周囲は、一応、1メートルほどのフェンスで囲われている。
 はじめて屋上に登った彼女は周囲を見回した。キャンバスには大きな欅の並木が見上げるようにそびえていたが、その梢も遙かな眼下だ。ぐるっと、周囲は遮るものがない空間ばかり。まさか、投身自殺するから立ち会え、とかじゃないでしょうね。そういえば、高橋たか子だったかしら。1933年に東京の女子専門学校の女学生が友達と三原山に登り自殺した。調査すると一ヶ月前にも同じような自殺があって、そのどちらにも同じ一人の友達が立ち会っていることが連絡船の乗船名簿から判明した。その友人は自殺幇助罪に問われたが、その事件をモデルにした、泉鏡花賞受賞の小説があった。題名はなんだったかしら。きれいな藤色の表紙だった。そんなことを考えていた。
 一瞬だった。異常な気配に気づいた時は遅かった。
 突然抱き上げられて、そのままフェンスを越して落ちていった……。台風が去って二日目の晴れた10月だった。
 彼のポケットにあった遺書には「ふたりはあの世で幸せになります。許してください」とあった。その遺書に、わたしの署名はない。しかし、集中治療室で2日間、意識のない時間が経過している間に、その遺言は一人歩きして、マスコミ全通信社に大学生心中事件は定着してしまっていた。
 誰も信じないだろう。信じられないことが続きすぎる。
 見舞いに来てくれた純子が、一時間後に交通事故で死亡してしまったことも。
「また来るからね。どんどん元気になって、おしゃべりしようよ」
 そういいながら手を振って病室から出て行った純子。チュールプリントのスカートをふんわり揺すって……。

 人気のない海岸を歩きながら、恵美子はときどき立ち止まって、人工関節を装着した右足をさすった。ぎしぎしと音を出すような違和感が絶えずあった。
 灰色に曇った空を、黒い鳥の群れが飛んでいる。寄せては砕ける波。打ち上げられているいろいろな漂着物。そんなものを踏まないように注意しながら、ゆっくりと水際を歩いていた。目に見えない重いものを引きずっているように歩いていた。いや、彼女が、何物かに引きずられているように歩いていた。それは誰の目にも悩みを抱いての散歩に見えた。不安の彷徨。
 明日から3月になる海岸は風もなく静かだった。海は春の衣装をまといはじめていた。
 ドーベルマンを連れた男が彼女とすれ違った。男が軽く会釈する。恵美子は無視した。いや、男の会釈に気づかなかった。
 彼女の視線には風景が映っていなかった。
 見つめているのは茫漠とした彼女の心だった。
 男は毎日、犬の散歩をしていたが、今日で、彼女とすれ違うのが10日目になった。小さな海辺の町のことだから、その若い女性が、大学の先生の別荘に宿泊していることは、すぐに知れ渡った。先生の助手ではないか、という噂だった。別荘には管理をする老夫婦が住み込みで働いていたが、口の堅い夫婦で、近所の人と、おしゃべりするような関係は避けている様子だった。先生の親戚だということだったが、それも確かな話ではなかった。老婦は太った丈夫そうな外見であったが無口だったし、男の方は外出する時、車椅子だった。そんな訳で、老夫婦から若い女性の情報は全くなかった。
 駐在所の警官は峰岸先生のことだ、心配することはないだろう。海岸は誰の散歩にも解放されている、と町の噂を取り上げなかった。実は先生からしばらく病気上がりの生徒(親友のお嬢さんでね)を療養のため宿泊させるがよろしくと連絡があったのだ。町の人たちはそんな事情を知らないから、自殺するのではないかと駐在に注進した者がいたのである。たしかに、腿のあたりが色落ちしたインディゴ系のストレッチデニムにスキッパー襟の黄色い、型のくずれたプルオーバー姿で汀をうつむいて歩く様子は、ただならぬ気配を漂わせていた。

 死なずにすんだ大槻恵美子は、14ヶ月にわたる入院生活をした。右足のギブスが取れ、松葉杖になり、杖になり、支えがなくてもどうやら歩行出来るようになり、そしてすっかり無気力になってしまった。
 人との会話が鬱陶しかった。このままではいけない、なんとかしなければ、本当に自分は駄目になってしまうと判っていた。でも、どうしたらいいのか判らない。両親も弟も、いっさい事故のことには触れなかった。恵美子も何も言わなかった。厚生労働省の部長である父が、鳥羽に公務員用の保養施設がある。そこなら12月の今は空いているからリハビリをかねてしばらく行ってみたらどうだ、とすすめた。旅行も良いかもしれない、と虚しい希望をもって、出かけて見た。しかし、保養所の部屋から一歩も出ることなく、一週間を過ごした。生まれて初めてお酒も飲んでみた。悪酔いした。ものすごい頭痛が残っただけであった。居場所がない、頭の中はたえずぼんやりしている、処方されたバルビタールの混じったゲップをする、突然男に抱きつかれる幻覚、どこへ行っても違和感がつきまとった。
 こんな気持ちになったのは男が死に、自分が生き残ったからではない。あれは突発事故に巻き込まれただけのことだ。男の死に責任はない。その死を少しも悔やんでいない。男の親が面会に来たが拒絶した。何の関係もないのに迷惑な話だった。
 保養所には12日間宿泊して家に戻った。どこにいても同じだと判ったからだった。

 遠くから汽笛が、すすり泣くように聞こえた。沖を船体に大きな太陽を描いているフェリー船が横切ってゆく。
 恵美子は自身の不注意から巻き込まれた事故で怪我を負い、その自分を見舞いに来てくれた親友が、その帰途に交通事故で亡くなってしまったことにショックを受けた。
 周囲の者たちは悪いことが重なったのだから無理ないと思っていた。
 重なってなどいなかった。彼女にとって悪いことは純子の事故死だけであった。あんなことが起きなければ純子は見舞いなどせずに死ななくてすんだのだ。しかも純子は妊娠していた。
 わたしの存在は周囲に不幸をもたらすだけではないのか。もう誰にも会いたくなかった。外出もせず家の中に引きこもっていた。
 そんな情況の時、所属していたセミナーの指導教官である峰岸(父と東京大学で一緒だった)から、わたしの別荘で資料整理をする生活をしばらく続けてみたらどうか。いや、資料整理はどうでも良い、海岸での生活は気分転換になるよ、資料整理は気が向いたらでいいんだよ、と声をかけられたのだった。事故から2年たっていた。旅にでても変化はないと鳥羽で経験済みだったが、何となく出向く気になった。
 資料整理といっても、それは教授の書斎の書棚にある本を系統立てて分類し、整理する簡単な仕事だった。それが名目上のこととすぐに判って、恵美子は教授の好意に感謝した。峰岸は野村阜のペンネームで文藝評論家としても活躍していたから、書棚には、専門分野の社会教育学関係の書籍に混じって、文芸書がかなりあった。恵美子は、それらの中から未読のものを選んで読んでみた。しかし、集注せず、気づけば本から顔をあげてぼんやりしているのであった。

 春風が吹き、花が散って、新緑がまぶしい季節になり、海岸を訪れる人が多くなった。観光客向けの商店が閉じられていたシャッターを開いていた。
 彼女は、ほとんど客のいない喫茶店のテラスでコーヒーを飲んだ。意外に、おいしいコーヒーだった。
 わたしは、いったい何をしていたのだろうか、と自問した。
 そして、はじめて、死ぬほど人を愛するとはどういうことなのか、と自殺した男のことを考えた。わざわざ面会に来た男の両親のことを思った。
 白いチョウチョが、空いているテーブルの上のペチュニアの鉢の周りを舞っている。急に、家に帰りたくなった。道を引き返すのではない。新しい道を進むのだ。思いを振り切って残っている冷めたコーヒーを飲み干した。
 彼女の目の下の隈はうすくなっていた。
 4月末、彼女は海岸の家を後にした。教授の書棚はきれいに整理されていた。


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