連載ミステリー 「八月のカラス」
第12回



7
 小山は冷蔵庫を覗いた。野菜室にはピーマンと萎れかかっているキャベツがあるだけ。
 明日は野菜を補給しなければいけない。メモ代わりに緑色のポストイットをドアに貼り付けた。
 彼は冷蔵庫専用のポストイットを5種類用意している。青色はビールや飲料水の追加。赤は肉類、ピンクは魚介類、黄色がドレッシングや香辛類を示した。近くにスーパーがあるから、それらを剥ぎ取ってエコバッグの中に貼り、買い物をする。まとめ買いはしない。まとめて買うと食べる量は少ないから、残って、新鮮さが失われた。
 彼はピーマンを取り出した。10センチほどの大きいものだ。小さいのは買わない。だから野菜は、スーパーでなく、一つ一つより取りできる八百屋で求めた。スーパーのものはパックされていて、ピーマンなどは小さなものが多いからだ。
 いつも釣り人で賑わう清水公園のわきに間口3メートルの八百屋さんがある。老夫婦が細々とやっているが、商品は新鮮だった。どちらかが病気になれば、すぐ閉店だろう。しかし、いつもにこにこしている夫婦は、どちらもまだまだ病気にはなりそうもなかった。元気ですね、と声をかけると、菜食者ですからと大笑いする。
 取り出したピーマンを片側だけ切って種を出し洗う。中に、みじん切りのニンニクとヒモ、ハツ、牛レバーをオリーブオイルで炒めて詰め込む。味付けは塩コショウとサンショウを抜いた特注品大辛の薬研堀七味唐辛子だ。
 ピーマンはシシトウガラシといわれていたが、いつのまにかピーマンと呼ばれるようになった。戦国時代の16世紀に輸入された野菜だが、唐辛子のフランス名がピマンで、それが定着したのだろうか。
 シシトウガラシといわず、アマトウガラシと呼ぶ地方もある。彼の母親はシシトウとよんでいた。
 香ばしい匂いがただよってきた。
 レバーの色が変わっている。
 IHのスイッチを切る。
 目玉焼き用のフライパンを出し、底に薄くオリーブ油を塗る。卵を二つ落とす。
 そしてIHのスイッチを入れる。
 フライパンが暖まり白身が固まりだした。
 素早くスイッチを切りフライパンにフタをする。
 このままにしておけば半熟の目玉焼きが出来上がる。水は使わない。「熱いフライパンに卵を落としてはだめよ。白身の味が消えるから」と良く母がいっていた。
 あまり食欲はない。昨夜おそく、柴崎と飲んだ酒がまだ抜けていないのだ。

 書庫の焼け跡にしては書籍の残骸が少ない。
 焼け跡に立った時、最初に浮かんだ疑問であった。
 古地図らしい残骸はかなりあった。
 しかし、書籍らしい焼け残りが少ないのだ。ボックスファイルの残骸もあまり見あたらない。写真にはいっぱい写っていたのに。
「柴さん、ここ、本当に書庫だったんですか」
 不審なまなざしで小山を見た柴崎は、屋根まで焼け落ちた現場を見渡しながらいった。
「写真は見たろう、間違いなく書庫。何か腑に落ちないことでもあるのかね」
「書庫の焼け跡を見たことがありますが、こんなじゃなかった。もっと本の残骸がある筈ですが……」いいながら小山は右の首筋をつまんだ。癖になっている動作だった。彼自身はおそらく気づいていないだろう。
「そういわれてみれば、そうだね。重なっている本はなかなか灰にはならないからな」
 まだ濡れている古地図の燃えがらを靴先でつっつきながら、柴崎の目が光った。
 それから二人は近所の聞き込みをした。
 消防署の立ち入り検査は午前9時から始まることになっていた。
 昨夜、警察は現場周辺を特に警邏はしていなかったようだ。消防署の職員もいない。
 出火は午前1時ころだったが、3時間ほど前の午後10時ころ、黒色のトラックが来て、倉庫から本を積み出していることが判明した。
 照明電気を煌々とつけ、二人の人物が本を運び出してトラックに積み込んでいた。書籍の焼け残りが少ないわけだ。
 その人たちは張り巡らされていた立入禁止のテープを取りはずし、はばかる気配もなく堂々と作業していましたから警察が許可していることとばかり思っていましたが、違うんですか。その時のタバコの不始末が出火原因じゃないか、と聞きましたよ。遺体を検査したら心臓発作で事故だったことがわかったから警察も手をひいて倉庫の整理を許し、片付けていたんでしょう、そうじゃないんですか、と倉庫から30メートルほど離れた農家らしい家の口の周りの無精ひげや眉毛が真っ白である住人は、逆に柴崎に聞きただした。
 そうそう、婦人警官が作業に立ちあっていましたよ。その婦人警官、跛行でしたね。服装で判りますよ、逆光線で細かいことまで見ませんが婦人警官の服装でしたよ、ちがったかな、おかしいとは思いませんでしたからね、それほど注意して見ていたわけではありません、ただ跛行で警官がつとまるのかなあ、執務中に怪我でもしたのだろうか、とは思いました。あそこは街灯が近くになく、夜間は真っ暗になるから、普段は近所の者は近寄りませんよ、とも答えた。
 当初、殺害事件かと思われたが、遺体を検査した結果、外傷は倒れた時に書棚のハンドルにぶつかっての裂傷出血で死因は心臓発作であることが判明し、警察の関心は、たちまち薄れてしまったのだった。
 管轄の吉川警察署は、倉庫内の本を引き取るという業者からの連絡が、倉庫の貸し主にあり、家主から倉庫に立ち入ってもさしつかいないか問い合わせてきたので、良いでしょう、こちらに問題はありませんよ、と回答していた。
 青山晋太郎の身内が倉庫の書籍を引き上げたのだろうか。青山氏は孤児だと聞いていたが身内がいたのだろうか。それとも阿修羅の店員だろうか。確か矢木とかいった店員がいた。小山は茶髪に染めた店員を思い出した。倉庫の本は何処へ引き上げられたのだろうか。引き上げに警察はタッチしていなかった。婦人警官と見られた人物は何者だろうか。
 疑問は次々とわいた。
 おかしな話は、もう一つあった。東京へ帰る車内で柴崎が突然いい出したのだ。
「君、幽霊に出会わせたことがあるかね」
「幽霊、ですか……ありませんね。柴さんはあったんですか」
「それがあったんだよ」二人の会話を聞いている運転手が笑っている。
「ほんとうですか」
「今でも不思議なんだが、社へ従弟が訪ねてきてね、そう、ちゃんと受付を通してだが、途中で消えちゃったのさ……」当時を思い浮かべるように目を閉じ、「急用でも思い出して面会を止めたのか、失礼な従弟だ、と思っていたけど、後日、その従弟の家へ行ったら、彼、6年前に北海道で死んでいるんだ」
「マジな話ですか」
「そうだよ。そうそう、君も知っているだろう、その従弟というのは安仲謙の倅だよ。大学の友人と北海道旅行に行って交通事故に会ったのさ。わたしが日本を留守にしている間のことでね。その従弟とも中学生の時に会っただけだから面影もあまりないのさ」
「にわかには信じられませんね」
「ぼくだって信じられないよ。だが、実際に遭遇した。叔母に似ていたがね、替え玉だったんだよ。ホンモノは叔父の若い頃にそっくりだった。それは後で写真を見てからわかったことさ。替え玉がいたことになるが、そんなことをする理由がわからないんだよ」
「幽霊の替え玉ですか…いや、替え玉の幽霊?」
「そう、誰がなぜそんなことをしたのか。変な話だよ。まあ、それが原因で安仲コレクションの処分に立ち会うはめになったんだが」
「へえ、あのコレクション、柴さんが処分に噛んでいたんですか」
「幽霊に誘われてね、とんだことになったものさ。しかし、わたしもいろいろな人を知っているが、蒐集家は面白い人種だね。狂気じゃないかと思いたくなる。叔父貴のSPの所蔵品の山にはまいったよ、都都逸や端唄のものまであるんだから」
 それから柴崎は、築地の病院前から若い女性の幽霊を乗せたタクシーの話を始めた。病院から出て来たらしいその女性は、風呂敷包みを持っていて横山町までという。そして道順をいった。交差点の信号にかかり停車した時にバックミラーでうかがうと姿が見えない。病院帰りで疲れシートに横になっているんだろうと思い、ふたたび発進すると横山町でなく横網公園へ行ってくれ、という。声だけでミラーには姿が映っていないから、横になったままなんだろうか、蔵前通りをしばらく行くと、やっぱり横山町に戻ってください、というから方向転換して横山町に行き、いわれたとおりのタオル問屋から三軒目のビルの前で停車すると、そこでは葬式の真っ最中で、どうぞと言ったが座席に女性客の姿はなく風呂敷包みも消えていた。喪服の男に事情を話すと、このビルのオーナーの娘が昨夜築地の病院で亡くなり、その葬式だという。線香をあげながら遺影を見たら、さっき乗せた女性の写真である。
「同じような話を石原慎太郎さんが何かに書いていたよ」 語り終わって柴崎がいった。
 行きかけた横網公園の近くに娘の恋人がいたんだ、とおまけ話まで付いていた。
「従弟の幽霊は正体不明のままですか」
「いや、思い当たる人物がいるが、なかなか会えなくてね」
「そりゃ、まず会えませんよ」小山は冷やかした。「幽霊なんて存在しないんだから。会えるわけがない。柴さんが幽霊に出会ったなんて信じられないなあ」
「蒐集家が若返って出現したのかも。これは現代の奇跡である」
「奇跡は10世紀ほど前にあったのが最後で、もうないですよ」
「ハハハ、もう奇跡はないか」
 小山は、その時の柴崎の顔に冷やかしているような色が浮かんだような気がした。蒐集家のはしくれとして自分をからかっているのだろうか。珍しい本があるようだ、という情報だけで顔を出した古書マニアの性は、柴さんにとってはおかしいのだろうか。

 跛行の女性といえば大槻も跛行だな。そんなことを思い出しながら食器を片付けていたら電話があった。なんと、彼女からだ。番号は教えていないから岡本氏からでも聞いたのだろうか。
「日章旗を見つけたわよ」
 いきなりショッキングな言葉である。
「戸川賢治の?」
「ほかにある? 校倉書房が出版社よ」

今回を以って「八月のカラス」は休載します。09年から新作を掲載する予定です。突然の計画変更をお許しください。


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