連載ミステリー 「冠着山事件」
第1回


プロローグ


 何もない。
 どうしたことか。
 あたりを見回す。
 静寂。
 真っ白い砂漠のような地平の彼方。覆い被さるように地球が見える。
 左腕に装着しているステイタスメーター(位置表示計)を見た。間違いない。月面の「静かの海」である。イーグル号が着陸した地点。
 ところが、レゴリスに靴跡がないのだ。オルドリンのものも、アームストロングのものも。
 宇宙飛行士たちが月面に残した靴跡は、隕石の衝突でもないかぎり、永遠に残る、といわれている。その靴跡がまったく無いのである。彼等は月面探査の記念に星条旗を立てた、というが、その痕跡もない。
 詳細にレゴリスの表面を観察した。イーグル号の着陸した痕跡まで見あたらない。いや、見あたらないというより、もともと何も無かったかのようにレゴリスはきれいだ。雪原に例えればバージン・レゴリスである。
 くっきりと刻まれているのは、「サクラ3号」から、今立っている足下まで続いている靴跡だけだった。私の足跡だ。耐久メーターを見る。
 「ムサシ6号」が回収に来るまで、酸素も時間も充分ある。
 北に向かって歩き出した。体重が感じられないから、あぶなげな歩行である。ゆっくり足を踏み出す。
 プリニウスのクレーターが見える。
 人がいた。
 焼けて真っ黒になったものを抱えている。
「ドーバー海峡が見えてきた時だよ。まさか友軍の爆弾で撃墜されるとは!」
「これでGMOも組めなくなりましたね」
「楽器もないよ、これじゃね」
 焦げたトロンボーンをかざす。抱えていた楽器だ。それからグレン・ミラーはぺろりと唇をなめた。
 見殺しだ。無線機はうーんという音を最後に機能しなくなってしまった。救援はない。部下は降伏に賛成するだろうか。家族の顔を思い出しながら、ふと弱気になった。烈風が視界を閉ざす。雪が混じっている。
 見当識がなくなっている。何処にいるのだ。軍刀を握って瞑目しているのは守備隊長ではないか。月面ではない。
 フジタは皇紀年号と日本語の署名を塗りつぶして西暦年号と英語のサインをした。アメリカへ行くのだから、この方が良いだろう。ついでに小さな野草を描き足した。それから後退して全体を眺めた。玉砕部隊の最後の姿。
 何もかも見捨てて行くのが人生である。愛着は感傷の別顔で役に立たない。ティッシュが消費されハンカチが濡れるだけだろう。


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