学生諸君へ
第2回 元皇国少年櫻本富雄に訊く

学生諸君へ
今回は少し長い内容ですが、対談を取り上げました。吉川麻里さんは海野十三の研究や戦時下の写真家のことなどを調べていらっしゃる方です。

元皇国少年櫻本富雄に訊く
聞き手 吉川麻里

はじめに

吉川 櫻本さんが最初の評論『詩人と戦争』『詩人と責任』を出版されたのは一九七八年のことでした。それから二十年、一貫して「文化人」の表現責任を追及する仕事を持続してこられました。その著作は小説も含めて二十冊になります。現在評価されている「文化人」が、「大東亜戦争」下に書いた戦争への協力を示す文章を発掘し提示する、その仕事を支えるものとして、膨大な数の戦時下の文献の蒐集があります。『探書遍歴』(’94、新評論)によると「勇ましい皇軍の武談や美談」を読むことで櫻本さんは軍国少年になるのですが、それらの本は、敗戦後消えていきます。「私が夢中になって読んだそれらの文章は敗戦を契機に著者自身に否定されて、その存在すらアイマイになってしまったのである。わがアイデンティティは消失した」。ここから探書遍歴が始まるわけです。失われた自分探しという内的な必然性が櫻本さんを仕事に駆り立てるのです。けれども、戦時下の作品が持っていた力というのは現在からはなかなか見えてこないというのが私の実感です。そのような小説によってアイデンティティを形成された櫻本さんに、どのようにそれらの小説に引き込まれていったのかを具体的に教えて頂けたら幸いです。まずは、読書に目覚めたきっかけから伺えないでしょうか。
櫻本 『探書遍歴』は、僕自身の執筆姿勢から言いますと邪道なんですよ。詩集は別として、十七冊目の本ですが、あれまでは自分のコメントとかポリシーは、ほとんど表面に出さないようにして、資料に語らせるという姿勢をずっと貫いてきました。それはどういうことかって言うと、とにかく戦時下の資料をお偉いさんたちが知らなさ過ぎるんだよね。評論家だとか、学者だっていう人たちが、あまりにも知らないんで、戦時下についてこれだけの資料があるんですよって提示する必要があるんじゃないかと。それをどのように著者に結び付けて評価して解釈するかっていうことは二の次で、それは読者にやってもらえばいいことであって、僕の仕事はいろいろな資料を提示すること。そういう姿勢で始まったことなんですよ。『探書遍歴』の時に、編集者から少しこの辺で櫻本さんの意見なり考え方なりを提示した方がいいって言われたわけですよ。そこで、僕自身に関わることも付け加えて、読者サービスのつもりで書き始めたのが『探書遍歴』でね。
 極端にはっきり申し上げますと、僕は、はっきり断罪するつもりでいるんです。戦時下に戦争翼賛的なものを書いた文学者を本的に認めない。僕はそういう姿勢です。それじゃ十把ひとからげになるじゃないかってよく言われますけど、じゃあ妥協してどこまでを許してどこまでを評価したらいいかっていう区別が際限なく広がって、結局、まあまあっていう日本の伝統的な解決法に結びついちゃうんだよ。僕が意見を出さないというのはそういうこと。切り捨てちゃう。だけど、金子光晴は、実に好きな詩人なんですよ。だから、金子光晴そのものは最初そんなにけちょんぱに貶していないんです。書いた時は一番最初に金子光晴に送っているんだから。なしの礫でしたけども。僕は死者に鞭打つっていうのは大嫌いだったから、亡くなった方は後回しにして、生きている人を先にやったわけです。でもご本人は結局黙殺でしょ。金子の場合は周りが反戦詩人と持ちあげちゃっているわけ。だから周りは絶対に譲らないわけですよ。その姿勢は今でも変わってませんからね。僕はそういう連中を槍玉に挙げているんです。
吉川 それはよくわかります。
櫻本 それがよくわかんないんだよね、他の人には。

乱歩との出会い

櫻本 僕は村野四郎という詩人に中学生の時から師事していたんですが、村野さんがよく「櫻本君、書いたりするのは五十過ぎてからでいいから、それまでは一生懸命本読みなさい。」と言われていたんです。僕はそれを忠実に守ってね。五十過ぎたら推理小説の傑作を一つ書いてやろうと思って、トリックいっぱい集めてあるんだよ。
事務局 何で推理小説なんですか。
櫻本 推理小説が好きなんですよ。一番最初に読んだのは乱歩だったんだから。乱歩の「孤島の鬼」。あれは半ページくらいの伏せ字がいくつもあったんだよ。何で江戸川乱歩かというと、とにかく図書館にあった、『全集』(’31〜’32、平凡社)が。いつでもそれが、あまり貸し出されていなかった。他の読みたい本はないわけ。すぐに返す出る返す出るの繰り返しだから。久米正雄の『青空に微笑む』(’35)なんかも後半の三ページか四ページはなくなっちゃっているんだよ。『少年賛歌』(’30)とか『ああ玉杯に花うけて』(’28)とかは表紙がない。そんな図書館で、乱歩だけは唯一ちゃんとあったんですよ。僕には発禁になったとか伏せ字になったとか、そういうものを書いている作家だという意識はぜんぜんなくてね。だから読んだんだけども。それが常時あったということはおそらく、大人の感覚として、人前で大仰に読める本ではないというのがあったんじゃないでしょうかね。
吉川 おいくつの時に読まれたのですか。
櫻本 最初に読んだのは三年生です。面白かったね。とにかく、今で言うと漫画本を読むみたいな感覚で手当たり次第に読んでいたんです。『死線を越えて』(’20)の賀川豊彦の本は図書館にいっぱいありましたが、あの辺は読んでみたけど面白くなかった。それから『少国民版 海軍』(’43)とか『空の軍神│加藤少将伝』(’43)などを読むようになったのは五年生になってからです。これは裁縫室で読みました。この加藤軍神は僕と誕生日が同じなんですよ。

「クラス八分」と軍神もの

吉川 四年生の三学期に「クラス八分」になって、校長室や裁縫室に隔離されるわけですね。
櫻本 しかしクラス八分というのはよくやったと思うよ、先生も。
吉川 どうしてクラス八分になったのですか。
櫻本 一番の原因は、とにかく悪かったことは間違いないよ。いろいろいたずらしたから。何かあるともう僕のせいになっちゃう。僕がやったことでなくともね。要するに、先生に憎まれてたんだよ。「明治節」(一一月三日)の時だったかな、朝、先生の出勤と一緒になっちゃって、子供ってのは先生が煙ったいんだな、追い越すと挨拶しなきゃならないんで、ちょっとゆっくり行こうとうしろから行くわけ、そうすると先に登校した連中が校門の所で僕たちを待ってるんだね、そこに来たもんだからワーとなっちゃって、先生は自分の教え子たちが迎えてくれると思ったんだな、それが先生通り越して僕の所に来たもんだから、先生は頭に来たと思うよ。あれは怒られたねー。それで、すっかり憎まれたんでしょう。先生の権威よりね、こっちの方が権威があった。ガキ大将だったから。先生のひいきの子をいじめたりしたこともあって、あの櫻本は何とかしなくちゃいけないということになったんだと思うよ。
事務局 クラス八分の当時、軍国教育は厳しかったのですか。
櫻本 厳しかったよ。僕は「紀元二千六百年」の年に小学校に入学したんだけど、その一、二年の時の担任の先生が何を教えたかって言うと、けんかをしたら絶対負けちゃいけない。けんかに負けたら自分は死ぬ、そういう心構えですれば絶対負けない。そういう教育をされたんだ。それを僕たちは真に受けたわけ。本当に死ぬ気でやると負けないですよ。それから三年生で担任が代わって、その先生が一年間、僕に軌道修正をしたんだよ。腕力だけじゃだめだよっていうことをそれとなく教えてくれた先生だった。本を読むというきっかけを与えてくれたのはその先生かもしれない。だけど一年じゃ効かなかったな。とにかく僕は自分の世界が絶対で、相手の立場になって考えるということなどしなかったから。だから恐ろしいもんですよ、教育っていうのは。
 本を本格的に読み出したのは四年生の時のクラス八分になってからです。『海軍』を読んだのは五年生の時です。夢中になりました。今度は動機が大分変わってくるんですよ。こんな不名誉な状態にいたんじゃしょうがない、みんなを見返してやろう、それには立派な勲章をもらわなくちゃいけないと思ったんだよ。天皇陛下のために、偉い兵隊さんになればみんなを見返してやれるんじゃないか、そんな意識が多分にありました。「軍神」の物語もずいぶん読みましたよ。
吉川 この岩田富雄の『少国民版 海軍』には、海軍に入って後に「九軍神」の一人となる真人と、体格検査ではねられてしまい、海軍を忘れるために画家への道を歩み出す親友の隆夫が出てきますが、どちらの登場人物に感情移入されたのですか。
櫻本 僕は真人の方ですよ。それから妹が出てくるんだよね。
吉川 隆夫の妹が真人に恋愛感情を持っているんですよね。一九三一年生まれの山中恒は、朝日新聞連載の初出の「海軍」で描かれていた恋愛小説的な要素が、少国民版では省かれていて失望したという感想を記していました(山中恒・山本明編『勝ち抜く僕ら少国民』’85)。櫻本さんは少国民版に思い入れがあるそうですが、どういうところに作品の魅力があったのですか。
櫻本 やはり最後に「軍神」になるところかな。とにかく天皇のために大手柄を立てることが、一番の方法じゃないかと。だってかなり劣等意識に悩まされるよ、学校へ行ったって全然相手にされないんだから。
吉川 軍神ものと言えば、菊池寛『空の軍神』を『戦時下の古本探訪』(’97、インパクト出版会)で取り上げられています。戦中に初めて読まれた時は「ずしりと心にこたえた」そうですが、そのことをもう少し具体的に聞かせていただけませんか。
櫻本 あれは後書きだったか序文にだったか、コチンとくることが書いてあるんだよ。ああ、俺はこんなことやってちゃだめだなと思ったな。「現代の英雄は真面目で勉強家で、よく規則を守り、一歩一歩偉くなっていっています」なんて書いてある。これはこたえたな。
吉川 「クラス八分」の身にはこたえたということですね。『古本探訪』で「軍神」の兄の手紙と小説の末尾を引用されていますが、こういう部分を当時、どのような思いで読まれたのでしょうか。
櫻本 感情移入して読んでましたね、僕は。加藤少将の本はいっぱいあるけど、これが一番よくできているんじゃないかなあ。子供にわかるように書いてある。教訓なんだけれども、表に出してないんだよね。天皇陛下のためだとか一生懸命書いてあるけれど、ストレートに、先生のお説教みたいには感情に入らないで、ストーリーとして入って来る。やっぱりこれは菊池寛の筆力じゃないでしょうか。当時そんなことは全然わからないけどもね。

「少国民」と立志小説、科学小説

事務局 そういう感想は、今読み返しても全然変わらないものですか?
櫻本 それはちょっと違うね。例えば『青空に微笑む』なんか戦後になってからもう一度読みましたが、全然だめ。お話にならない。でも最初に船でお金を取られちゃうところなんかは面白かったんだよ。
吉川 船で泥棒と間違われたり、サーカスに売られそうになったり、悪党に脅迫されたりと、次から次へとピンチが訪れますが、偶然の連続によって危機を脱しますね。現在の目で読むと、かなりご都合主義的ですよね。
櫻本 そうそう、ご都合主義なんだよ。話がうま過ぎるんだよね。
吉川 少年時代に読まれた時は、また違ったわけですよね。
櫻本 そうです。感動して読みました。あれは、「少年倶楽部」に連載されていたんだけれどね、傑作でね。読者から一番評判よかったんじゃないかな。
吉川 三三年、三四年に連載されていますね。
櫻本 リアルタイムで読んでたら大変だよ、いま七十代八十代の人じゃないかな。僕達の時は単行本で読んだんですけど。戦後、久米正雄が持っていた資料が古書界に出たことがあるんですよ。それに講談社から回送された読者のハガキがいっぱいありました。ミカン箱いっぱいぐらいあったかな。それで一部だったみたい。おおかたの読者ハガキは原作者に渡ったみたい。実際は久米正雄が書いたんじゃないんだよ。岩脇鉄という無名の人らしいが―。
吉川 『青空に微笑む』は、『海軍』より十年ぐらい前にかかれた小説で、まだ戦場とか軍神は出てこない。その手前の話ですね。
櫻本 立志小説だよね。あのころ、『一直線』(’31)だとか『少年賛歌』だとか『あゝ玉杯に花うけて』とか、佐藤紅緑だよね、『青空に微笑む』もそういう一連のものとして読んだんですよ。だから『海軍』や『空の軍神』とかの読書姿勢と比べたら、こっちの方がはるかに文学的だよな。立志小説は今では通用しないけど、僕なんか田舎で育ったから、東京へ出てくるということは一旗揚げようという意識が多分にあったわけですよ。
吉川 この少年も三宅島から上京しますよね。それにご自分の姿を重ね合わせて読むわけですね。
櫻本 そうそう、夢中になって読んだよ。
吉川 話が戻りますが、「三〇年後に『空の軍神』をデパートの古書展で入手して再読し、しばらくぼんやりした。あの頃のことが、昨日のことのようにはっきり思い出せたからである。」(『戦時下の古本探訪』)と書かれていますが、三十年前の自分を客観的に振り返って、どのような思いを抱かれましたか。
櫻本 うーん……。とにかく、懐かしかったからね。一番最初に頭の中に去来したのは、こういう風にして教育されたんだなという感慨が大きかったですね。『ハワイ・マレー沖海戦』(’42)という、原節子が出ている映画があるんですけどね。それを戦後に何度か見直した時にもつくづく感じましたが、ああ、こういう風に映画を作ったら観る子供達はその気になっちゃうと思いましたよ。それと全く同じ感想ね。
吉川 それは小説の巧みさということですか。
櫻本 そう。菊池寛の筆力。
吉川 海野十三のようにイデオロギーが出ているのでない小説ということですね。イデオロギーでなく、小説のリアリティや細部の面白さというものですね。
櫻本 そうそう、でも海野十三っていうのはイデオロギー一辺倒じゃないと思うよ。これは、昭和一八年の「少国民新聞」なんだけど。
吉川 「黒人島」ですね。これは読んでみて面白さがわからなかったんですけど。その面白さを教えて頂きたいのですが。
櫻本 これ、すごく面白かったよ。まず、エキゾチックで魅力があるんだよ。黒人なんて見たことないもん。第一、キリンもゾウもワニも見たことないんだから。だから、南洋一郎の作品と同じ。海野十三にしてみれば「黒人島」はちょっと変わっているんじゃないですか、彼の本領は科学小説だから。南洋一郎を意識して書いたんじゃないかな。残念なことに、尻切れとんぼになっちゃったけど。
吉川 「少国民新聞」には子供の投書がいろいろ載せられていますね、新兵器の発明だとか。櫻本さんも一緒になって考えられたのですか。
櫻本 そうそう、海野十三は特にそんな作家だよね。だって『怪塔王』(’39)なんてテープレコーダーが出てくるんだよ。テープレコーダーなんて考えられなかった。今だったら笑ってるけど。テレビなんて今の人当たり前だけど、テープレコーダーショックはあれ以上だったよ。研究室を訪ねると「ああ、うるさい。わしは今研究中じゃ。誰が来ても会わんぞ。帰れ。帰れ。」って中から言うんだよ。そしたらね、それテープレコーダーだったんだよ。アリバイつくりね。
吉川 そうした未来科学的なものが面白かったわけですか。
櫻本 そうそう、だって塔そのものがロケットなんだもの。
吉川 それにしてもよく覚えてらっしゃいますね。
櫻本 今その話をする時に、同時に、僕の頭の中には挿絵が出てくる。
吉川 挿絵によって想像がふくらむわけですね。
櫻本 この挿絵っていうのは誰も問題にしないけれども、罪が深いよ。この「八太郎将軍」という漫画は面白かったね。それで「少国民新聞」は売れたんですよ。これは本当に面白かった。こういうのを毎日読んでいたんだから、これはもう天皇陛下万歳になるよ。本当に罪は深いよ。

櫻本少年の「愛国作文」

櫻本 あ、そうだ、愛国作文見せなきゃな。あんまり見せたくないんだけれども。朝日新聞の長野版に出たんだ。昭和一八年の六月六日の。
事務局 書き換えられてはいないんですか。
櫻本 書き換えられたよ。先生が書き加えたところもあるしさ。
吉川 どういう状況で書かれたのですか。
櫻本 朝日新聞社の長野支局から県下の小学生に山本元帥の国葬にちなんで作文を書かせてくれっていう依頼が学校へきたんですよ。先生が各学年から選んで、四人ずつだったかな、四、五、六年生に書かせたんです。
吉川 櫻本さんが愛国作文を書かれたのは、役割が回ってきただけで、進んで書いたのではないんですね。
櫻本 指名されて書いたんだから。指名されたと話したら家のやつらは大騒ぎしたんだよね。これは名誉のことだから一生懸命いい文章を書かなきゃなんないということで。それで添削が始まったわけですよ。
事務局 「涙が出てきた」というのは本当なんですか。  
櫻本 そんなに覚えてないなあ。その辺はもう違うと思うよ。米英を撃滅してやるという気持ちはありました。確かワシントンへ行って爆弾を落とすって書いたんだよな。それは削られちゃった。ばかみたい。これで褒美もらっちゃった。
吉川 この愛国作文は、軍神ものや軍国美談を読むことによって、櫻本さん自身が「皇国少年」になられたことを証明するものと考えていいでしょうか。
櫻本 そうですね。でも、そういう内的なことよりも、僕が読書から学んだのはテクニック、レトリックですね。なるほどこういう風に書けばよいのかと。だから、かなり冷めて読んだね、最後は。僕の「六年生になって」という作文があるの。あれは傑作だったんだよ。それ読んで教師が感動しちゃって、即「クラス八分」解消になっちゃった。でも肚の中でバカヤローって思ってた。先生を完全に意識して書いたの。先生だましてやろうと思って。そういうレトリックは本から学びました。
吉川 「転向声明文」みたいなものですか。
櫻本 そうそう、「転向声明文」だ。
吉川 天皇に命を捧げるというのは、本音の部分もあったのですか。
櫻本 それはほとんど本音です。決まり文句で書いたけれども、それは決まり文句ということだけじゃなくて、実際にそう考えていたから書いたんだよ。僕は本当に天皇陛下のために死ぬつもりでいたもんね。
吉川 それは教育の力ですか。
櫻本 そうだと思います。そういう教育を受けたから。それが不思議に思わない。とにかく戦争一色でした。(四五年の「朝日グラフ」を見ながら)こういうのを毎日見せられていれば、もう死ぬなんてことは当たり前のことなんだよ。現に毎日毎日そういう歌を唄わせられて。「勝ち抜く僕等少国民、天皇陛下の御為に死ねと教えた父母の……」なんてね。
事務局 敗戦とか終戦が想像できましたか、その時に。
櫻本 いや、ぜんぜんできない。最後に神風が吹くと思っていたもの。負けるわけないと思っていた。だからよく戦後になってアメリカとやって勝てるわけないとかいう人がいるでしょ。ちゃんちゃらおかしいですよ、僕たちに言わせれば。文化人の中にはわかっていた人もいるかもしれないけど大多数の人間はそんなことぜんぜん。しかも一九四一年、四二年あたりは景気がよかったからね。難攻不落のシンガポールまで落としちゃったから、絶対勝つと思っていたね。本当に鬼畜米英だと思っていた。このすぐそばに水元ってところがあるんだけど、そこの小学生が「大東亜戦争」が始まってすぐにアメリカに殺されているんだよ。四月一八日に。
吉川 最初の空襲による犠牲者ですね。
櫻本 アメリカ人はそういう小学生まで殺すって宣伝するような教育を受けちゃっているからね。今になって冷静に考えてみれば、一九四二年の小学生の正式な服装はゲートル巻いたし、学制帽じゃなく戦闘帽なんだから。それに学校は二階建てで、グランドがあるから、兵舎に見えるわけ。アメリカ人の意識の中に日本人はちびというのがあるから、空から見りゃ子供だか兵隊だかわかんないですよ。だから誤射したって僕は当たり前だと思うけれど、その頃は、子供だとわかって殺したと思っていたよ。
吉川 ご自身の愛国作文について「私自身が戦争に加担したことを証明する、まぎれもない証文である。その罪責は、どのような反省をもっても、清算できるものではない。」(『日の丸は見ていた』’82、マルジュ社)と書かれていますが、この作文のどういうところが、読者を戦争に動員するような役割を果たしたのでしょうか。
櫻本 ははは。そりゃあもう全文そうだよ。
吉川 この作文を読んだ読者に影響を与えたということですね。
櫻本 そう。僕は「戦争責任」という言い方が好きじゃなくて「表現責任」って言いますが。これが単なる学校の作文で終われば、先生や友達の目には触れるとしても、大多数の人の目には触れないわけでしょ。ところがこういう風に活字になっちゃうと不特定多数の人が読むわけです。僕のこの記事を読んで、ああ、こんな子供がいたら安心して戦争へ行けるって言って出征した兵隊さんがいるかもしれない。そういう意識は常に表現する者は持ってなくちゃだめでしょ。これは小学四年生の作文だからそんなこと言うと大げさだって言われるかもしれないけど。兵隊さんだけじゃなくて同世代の少国民を励ましたかもわかんないですしね。
吉川 櫻本さん自身は同世代の作文を読んで励まされたことはありますか。
櫻本 ありますよ。模範作文なんかを読んだりして。これはすごい作文だなっていうのは随分あります。そのころ、模範愛国作文集みたいなのがいっぱい出たんですよ。文部省がコンクールして文部大臣賞を貰った作文を筆頭にした作文集を僕も幾つか持ってますけど、そういうのを読んでみんな随分励まされて。要するにそれも一つの教材になっているわけ。だから、教育っていうのは恐ろしいよ。
敗戦体験
吉川 敗戦は、どういう状況で迎えられたのですか。
櫻本 それがもうまるっきり、純粋には思い出せないね。いろんな知識が入り込んじゃって混乱しちゃってる。覚えているのは、講堂に正座してね、校長先生始めみんなの先生が泣いているんだよ。それで、誰が二番目に腹を切るかという話をしてね。一番に腹を切るの校長に決まってるから、二番目に腹切るのは誰か、そういうことが生徒仲間の間で話題になっていた。僕はもうその時は連帯していなかったから冷ややかな目で見てたんですけど。それは八月一五日じゃなくて一週間ぐらいずれてたんじゃないかな、一五日はちょうどお盆休みじゃなかったかと思うんです。
吉川 ラジオで「玉音放送」を聴いたとかいうのは。
櫻本 ラジオも聴いたと思いますよ。それは家で聴いたような気もするけどはっきりしないですね。今でも完全にありありと思い出すのは、夜、電気がこうこうと部屋を照らしたということ、これは強烈に覚えてるね。それ以外は、八月一五日前後の記憶は、色んなこと見たり聞いたりしてわかんなくなってます。実際どこまでが僕たちの本当のその時の体験だったかは正直に言って思い出せないですね。
吉川 敗戦後しばらくすると文化人たちが次々に戦中の言と反対のことを言い出すわけですが、それまでに「真空地帯」があるそうですね。
櫻本 新聞記事やなんかがどっちつかずの状態ということですね。ありましたね。でも、それは僕の戦後の感想です。八月一五日からマッカーサーが来るぐらいの間に、日本がどうなるかということがまだはっきりしていなかった時に、八月一五日から月末までの一五日と九月も入りますけどね、その間の新聞の記事なんかを見ると、依然として変わっていない。吉川英治の「英霊に詫びる」という文章なんか見ても、市川房枝にしても、みんな天皇陛下に対して申し訳ないっていう気持ちが基本にある。それが天皇制批判になってくるのは随分と後になって占領軍の方針が決まってからです。それまでの間は悪くいえばどっちつかずの状態だけれども、そのどっちつかずも限りなく戦前に近いような姿勢でみんな発言していました。その辺のことを「真空地帯」と言ったんじゃなかったかな。

仕事のモチーフ

吉川 そのような敗戦体験を経て、この仕事を始められたきっかけについて伺いたいのですが。
櫻本 友人の金井直(詩人)に言われて、金子光晴のことを書いたのがそもそものきっかけでした。金子光晴だけでなく石川逸子という詩人についても書きました。彼女は「南京虐殺」とか「広島原爆」といった詩を書いているんですが、自分が実際に体験もしないことを知識だけを元にして書いている。批判の対象として書くとしても、そういう姿勢はおかしい。いくら詩であったとしても。見てきたようなウソを書いているんじゃないか。そういう姿勢は金子光晴をただ反戦詩人とやみ雲に祭り上げる姿勢と全く同じじゃないか、という取り上げ方で論じたんだけどさ。それでこれを書いた時に金子のファンから反論があったんですよ。櫻本に時代状況がわかるか、全く時代状況がわからないのによくもあんなことが書けるな、という主旨の批判文です。それで僕はコチンと来たんだよ。敗戦後すぐから、いろんな資料を集めるようにして、僕は僕なりにあの時代の状況をもう一度勉強するつもりでかなりやってきたつもりなのに、それが時代状況がわからないなんて言われてコチンと来てね、『日の丸は見ていた』(’82、マルジュ社)を書き出したんだ。本当に時代状況がわかっていないのか調べてもらおうじゃないかってね。
吉川 詩人を対象にされたのはなぜですか。
櫻本 僕自身詩を書いてましたからね。だから詩集はいっぱい集めてましたから、詩人を一番最初に表現責任として取り上げたんですよ。僕はそれだけでやめるつもりでいたんです。ところが文化人にまで広がっちゃった。
吉川 どのような意図でですか。
櫻本 目を転じてみると詩人だけじゃないんだよ、戦時下のことを知らされていないのは。一番頭に来たのは黒沢明とか今井正という映画監督が反戦映画監督みたいに騒がれているんだよね。ところが彼らは戦時下にすごい好戦的な映画を作っている。それはおかしいんじゃないかと思うのに、誰も映画界で言わないんだよ。それだったらこっちも映画については素人だけれども憎まれ口きいてやろうかなっていう気になるわけ。そうなると今度は小説家や評論家って言われている人たちも槍玉に挙がってくる。それで際限もなく広がっていっちゃっているんですけど。流行歌手もやりたいし、紙芝居ももう一度やりたいと思っています。(今野敏彦との共著『紙芝居と戦争』’85、マルジュ社がある。)

「カラス」の意味

吉川 本当に幅の広いお仕事をされていますね。櫻本さんは表現責任をテーマにした推理小説も書かれています。「太平洋戦争下に、軍やファシズムに屈せず、文学者の良心を守り抜いた希有の作家」という秋月俊成の神話が「特攻隊の意義」と題する戦中の秋月自身の文章の出現によって崩れてしまうというものです。タイトルの『夜明けに啼くカラス』(’91、新評論)は秋月俊成の神話を崩すような真実を告げる、秋月にとって不吉なもののメタファーだと思うのですが、この小説を読んだ時に櫻本さんのお仕事に結び付けて、櫻本さんは「カラス」なんだと直感的に思いました。住井すゑのインタヴューにも「外ではやかましくカラスが鳴いていた」とあり、『満蒙開拓青少年義勇軍』(’87、青木書店)のあとがきの最後にも「カラスの声を聞きながら」とあります。櫻本さんは「カラス」にどのような思いを込めていらっしゃるのですか。
櫻本 「カラス」には実にいろいろな意味を込めています。僕が一番最初に「カラス」についてのイメージを膨らませたというのは、偉くなってみんなを見返してやろう、国民の鑑になってやろう、靖国神社の一番上の祭壇に祭られるようになろうと決心すると、そのために一番安易にできることというのは少年航空兵になることだったんですよ。少年航空兵になることは海軍の予科練に入ることなんだよ。陸軍にもあったけどね。海軍の土浦航空隊が霞ケ浦に一つあったでしょう。古川ロッパが主演の映画(「敵は幾萬ありとても」’44)があって、一生懸命少年航空兵を養成する教育者が主人公の映画なんですけれど。その舞台が三重県の香良洲というところなんです。そこにもう一つ、三重海軍航空隊というのがあったんです。霞ケ浦の予科練が満杯になったために急きょ海軍が作ったんですよ。僕が海軍の予科練に入るとすればそこのはずだったので戦争中に行ったことがあるんです。一人で無銭旅行して。そうすると香良洲っていうところは、街全体が海軍になっているんだよ。その地名があの「カラス」という言葉にかなり強烈に残ってます。戦後も一番最初に香良洲の海岸へ行きました。そこで一人、少年航空兵が腹切っているんだよ。三重海軍航空隊の森崎湊が八月一六日未明、天皇陛下に申し訳ないって、腹を切るんだよ。その死んだ場所が一九四六年まで香良洲の海岸に残っていたんです。そんなことがあって、香良洲という名前にはかなりの思い入れがあります。だから僕が「カラスの声を聞きながら」って言う時には、その香良洲の風景がずっと浮かんでいるわけ。そういう意味を込めているんですよ。
吉川 それに加えて「カラス」には不吉な、という意味もあるんですね。
櫻本 もちろん、それが一番ですよ。それがたまたま僕の思い入れがあった三重海軍航空隊と重なったということです。
吉川 今「平和的」文化人と認められている人たちに対して、不吉なカラスが迫っていくというようなイメージがあるわけですね。
櫻本 そうそう、そういうイメージです。
吉川 櫻本さんはご自分のことをそういう意味での「カラス」と意識されていて、悪役に徹していらっしゃるような印象を受けるのですが。
櫻本 そりゃあもう、悪役に徹しているよ。僕は開き直っているからね。僕は、十把ひとからげに、戦時下の文化人をターゲットにしている。吉川さんもそう書いているよな、そんなことしてたらまた新たな空白を作ることになるってね。よく言われるけど、僕はあえてその批判は受けるつもりでいます。僕の一番の動機は、知られていない資料を僕が集めたものの中からどんどん公表して、とにかく皆さんに考えてもらおうということなんです。『日の丸は見ていた』の次の『少国民は忘れない』(’94、マルジュ社)ぐらいからかな、若い人たちからの読者カードが来るようになりました。彼らは受け取り方が全然違うんだよ。僕たちみたいにその当時を知っている人間は、そんなこと言うけれどもあの時代はしようがなかったよという、多分に一億総懺悔みたいなムードがあるんですよ。僕自身もそういうムードはあるわけ。こういう作文書いているんだから。多かれ少なかれリアルタイムで戦時下にいた者は、やみ雲に批判なんかできないですよ。僕はそういうムードがあっても、仕方ないと思ってたけれども、どっこい大学生の読者たちから、ぜんぜんこんなことは知らなかったけれども、こういうものはどんどん公表して教えるべきだ、というカードがいっぱい来て、それで僕はかなり意を強くしましたね。

五十歩と百歩の距離

吉川 それでは、櫻本さんの仕事の姿勢について具体的にお伺いしたいと思います。戦中詩の質に関して「欣然と飛び出した弾丸も、いやいやながら発射させられた弾丸も、心臓に命中すれば、その心臓の持ち主を、あの世へ送る結果になる点で差異はない。」(『空白と責任』’83、未来社)とおっしゃっています。それが櫻本さんの立場ですね。
櫻本 沈黙以外にないわけですよ、引き金さえ引かなければいいんだから。偉そうなこと言うんだったらなぜ黙ってなかったのか。一般人がそういうことになったということは僕は決して咎めないんだけれども、仮にも文化人と言われた人間がそんなことやっちゃいけないと僕は思います。こと文学に関して、もっと広げて芸術に関して、そのくらい理想的なものになっていて欲しい。この世の中なんてあらかたはでたらめでしょう。まあまあとか、なれあいでもってますよね。きれい事だけでは絶対に済まないでしょう。せめてそういう世界の中でも文学の表現ということについては、やっぱりきちんとしたきれい事であって欲しいという、そういう願いが人一倍強いと思いますよ。青くさいですか。それだけにたとえ一行でも翼賛的なこと書いたということについては、もうきちんと決着つけないと、現状は変えられないよ。例えば、作家のいい部分、ああ、金子光晴だっていい詩はあるよー、その分は認めて戦争中の分は要らないって言い出したら切りがなくなっちゃう。僕は詩人の場合は詩人と考えない。言葉の職人と思っているから。戦時下の日本の詩人はみんなそうですよ。たしかにうまい詩を書くけれども、それはレトリックがうまいということであって、芸術ではないと思います。そのくらい考えなくちゃケリがつかないと思う。
吉川 高崎隆治は「あの、戦争下での五十歩と百歩の距離はけっして大同小異と言ったようなものではなく、少なくとも十五年戦争下を生きた者なら、それが実は天と地ほどの隔たりであることを知っているはずである。」(『戦争と戦争文学と』’86)と言っています。ここが櫻本さんと高崎隆治の姿勢の一番の相違点だと思いますが。
櫻本 五十歩と百歩の差については鶴見俊輔さんも言ってますね。この五十歩の差は実に大きいということをね。あの戦時下の状況を知っていれば知っているほど差は大きいと言うんだけど、僕はそれは詭弁だと思います。それが解釈の話と結びついてくるんだけれどね。だけど、それを言い出すと、五十人殺すのと一人殺すのでは一人の方が罪が軽いかということになっちゃう。同じでしょ、だって。
吉川 櫻本さんのおっしゃる通りだと思います。五十歩も百歩も協力した点では、みんな、表現責任は免れないと思います。それを前提にした上で、作品のどんな面で協力したとか、作品の質の違いは見ないといけないのではありませんか。
櫻本 その辺が僕、他の人と違うところなんだよな。頑迷なところだね。僕は質も認めないんだから。質もあえて認めない。確かにそれは吉川さんのおっしゃる通りなんです。近藤日出造の漫画と横山隆一の漫画を比較した時に、近藤日出造の方がむき出しの協力なんですよ。横山隆一は、庶民的なユーモアのベールがある程度かかっているんだよね。その辺のところは確かに質の違いと言えば言えるから、じゃあ横山隆一の戦争協力と近藤日出造の戦争協力とを比較した時に、近藤日出造の方が罪が重くて、横山隆一の方は変わってくるんじゃないかと、質の違いと言うのはそういうことでしょ。
吉川 「質」と言うのは、例えばスローガン的なものを全面に出した小説と、櫻本さんがおっしゃったような『海軍』や菊池寛の小説など、表に出さずにうまくストーリーの中に入れてあるというような質のものとがありますよね。そのような、今読んでも通じるような作品、ある意味で質の良い作品の方が、スローガン的なものよりもかえって読者に読まれて、彼らを動かすような力を持っていたのではないでしょうか。そういう意味で、個々の作品の「翼賛」の質を見極めないと、読者を動かした当時の作品の力が見えてこないと思うんですけれども。
櫻本 そりゃあ、まったくその通りだと思いますが、僕はそこまで踏み込む必要はないと実際のところは思っています。僕は、最初に断ったようにあくまでも資料提供で、それをもとに皆さんに考えてもらえばいい、そういう姿勢なんですよね。

「当時の読み」について

吉川 作品の質と言えば、「金子光晴論の虚妄地帯」(「文芸展望」12号、’76)をめぐる論争を思い出します。戦中詩を読む場合、研究者にとって大事なのは作家であり「作者の真意」であるのに対し、櫻本さんは当時の読者がどう読んだかを問題にしているという立脚点の違いから、結局論争はかみ合いませんでしたね。ここでは読者の存在を顧みないという日本文学研究者の盲点を櫻本さんが衝かれたわけです。ただ、櫻本さんに対する疑問もあります。それは、櫻本さんが戦争に協力した作品の技術批評などする気にならないと、作品の分析を放棄してしまっているところです。櫻本さんは当時の読者がどう読んだかを問題にされているのに、それでいいのでしょうか。作品の字面だけを追って作品の世界をイメージしないという読み方が実際に「当時の読み」だったのでしょうか。
櫻本 読者っていう言葉が問題であって、僕は「当時の読み」と確かに表現していますが、その作品を当時発表できたということはどういうことかというのがまずあるわけ。絶対に反天皇制のものじゃないわけですよ。そうだとしたら絶対に発表できないんだから。発表できたということはとりもなおさず迎合的な文章なんです。だから「読者」って、そういう意味で言っているわけ。ただその本を読んだだけでなく、それが社会的に発表できたっていうレベルの、編集者の目というか、検閲の目というか、社会の目というか、とにかくそれを社会が許すというムードがあるわけです。逆に言えば、発表できたっていうことは発表させたっていうことだよ。そのムードで文章を評価しなくちゃいけないのではないか。さらにどの程度まで質があるかということは、僕は少国民のレベルで考えるんだけれども、そんなことまで忖度してこっちには批判精神があったんじゃないかとか、反戦の思想が中に込められているんじゃないかとかそんな姿勢で読んでいる読者は一人もいなかったと思いますよ。もう全部そんなことは論外で、とにかく一億総天皇制で読んでいたんだから。
吉川 発表されたものには、反戦などあり得なかったということですね。読む人にはわかるというのはないんですか。 櫻本 僕はそんなものはなかったと思うね。あったとしたら、それは戦後の猿知恵だと思う。書くっていう行為が持続されたってことは、当局に迎合したことを書いているから持続しているんだよ。
吉川 そういう意味で責任があるのはその通りなんですが、自分の意図をもって書き続けた姿勢というのは見ないといけないんじゃないですか。
死んだ人は何も言えない
櫻本 見なくちゃいけないかも知れないけど、それは生き残った者の奢りだよ。死んじゃった者はそんなこと言えないぞ。
吉川 そりゃあ、そうですが。
櫻本 生き残りの奢りというのは文学的な表現ですが、もっと言うとそれは平和ボケな頭ですよ、そんなこと言えるのは。だったらそれ信じて死んじゃった人はどうなるの。金子光晴の「勝たねばならない、信念のために」(「湾」、「文芸」’37・10)なんて詩を読んで、「支那」へ行って死んじゃった兵隊さんがいたとして、あれはウソだったなんて、生き返ったら言えるけど死んじゃったら仕方ないでしょ。
吉川 櫻本さんの立場としては、作家は筆を折るべきだということですね。
櫻本 それが僕の、一番はっきりした結論です。表現者として、文化人としてみんなから尊敬される立場にいた人だったら、その人の意にそぐわないことは絶対書かない。最後は沈黙だよ。だって、沈黙して死刑になった人は一人もいないんだよ。逆に言えば、なぜ沈黙しなかったか。たまたま発言しなかったのは、当時は無名の人たちです。田村隆一は海軍少尉です。鮎川信夫も中桐だって無名ですよ。無名だったからきれいな白い手で生き永らえたんだよね。要するに沈黙に近いことがやれたわけ。家永三郎さんだってそうですよ。まだ歴史学者として無名だったから、書かされなかった。ところが、吉川英治だとか高村光太郎、佐藤春夫なんていう人たちは盛んに書かされたわけでしょう。それを本当に非協力だったなら、書くなって言うの。軍に指名されて、報道班員としてビルマへ行ってこい、ハイといって従軍する。高見順なんかそうですね。阿部知二はジャワへ行って来いと言われた時に、行かなくてもいいんだから。行かなけりゃ殺されるって言うけど、殺された人間はいないんだよ。あれは戦後の詭弁です。現にサトウ・ハチローは病名挙げて医者の診断書を付けて結局逃げちゃった。彼は翼賛歌を作ったりして協力したけど、従軍しなかったことは、程度のいい沈黙だよね。
 なぜ沈黙をしなかったのかということは、八月一五日以降なぜ書いたかということでもあるんだよ。戦争中は沈黙しなかったとしても八月一五日以降すればいいじゃない。自由な表現ができるようになった時に、自分の戦時下の姿勢を反省して。そういう文化人が、何人いると思う? 著名な人で僕の知っている人は音楽家の信時潔ぐらいだよ。あとは古関裕而なんていうのは、甲子園の歌作ったり……。古関裕而の戦時下の歌は全部短調なんだって。だから反戦の意味があるんだってさ。リサイタルする時に古関裕而の軍歌唄う現代の女性歌手がいるんだって。「ああ紅の血は燃ゆる」とかを必ず唄うんだって。唄って聞かせないと、あの歌に込められた古関裕而の反戦の思想が伝わらないって言うの。短調だから反戦思想ですって言われてもこっちは困っちゃうんだよ。現に行進曲であれ唄ったんだもの。だからその辺のところはすごく難しい。これは僕の強がり、逃げ口上って言われるかわからないけどね、じゃあそういうこと言うけども、実際に空襲で死んじゃった人、戦争で死んじゃった人はどうなるのっていうことを言いたいわけですよ。「空席通信」を自費出版でやったのも、その「空席」という言葉には戦争で死んだ人という意味が多分にあるわけです。戦争で死んだ人は何にも言えないんだから。
 金子の詩を「ルビンの杯」と言ったけどね、それは僕に言わせればかなり好意的な表現ですよ。どちらにも読めるっていう意味でね。問題の彼の作品はどちらにもは読めない、戦争詩だよ。(『僕等の愛国寶典』を見ながら)実際にこういうの書いているのに反戦詩があったなんて信じられないよ。なぜ書いたのか。本当に反戦詩人だったらこんなの書かないと僕は思いますよ。「ヒトラーユーゲントに倣え」なんてね。「見よ、不屈のドイツ魂」(金子光晴「見よ、不屈のドイツ魂」『僕等の愛国寶典・實用ものしりダイヤ集』所収、「少年倶楽部」’38・10、別冊付録)なんていうのは。武藤貞一とよくぞ並んで書いたと思うよ、これ。だから五十歩百歩の違いなんていう問題を進めていくと難しいと思います。五十歩の違いに文学的な質とか、その内容の程度、レトリックだとかいろいろな問題を絡ませて作品を読み取るというのは僕に言わせれば勝手な深読みだと思うけどね。

作品の力

吉川 そうですね。私も読み方や解釈の仕方で、作者を救おうという意図はぜんぜんないんです。私が「質」というのは、表現責任はあるという前提で、作品のどういうところが読者を動かしたかということなんです。字面だけでなく、構成や内容と言ったところでの、現代にも通じてしまうような作品の力を見ないといけないと思うんですよ。
櫻本 そういう面を見てどうなるの。
吉川 例えば、具体例で言いますと、ここに『海軍』があります。これは一九八三年に原書房からリバイバルされたものです。
櫻本 ええっ、これ初めて見た。(『海軍』を手に取って)ああ、これ軍記ものの出版社ですね。
吉川 それは、戦中を対象化するといった目的ではなく、帯に「爽やかな青春像」とあるように、ある種のノスタルジーを持ってリバイバルされているようです。あの頃はよかったなあみたいな。河盛好蔵が「解説」を書いてます。
櫻本 河盛好蔵ね。フランス文学者ね。これもひどい文化人だよ。
吉川 私もひどいと思ったんですけど。その「解説」で「この小説に描かれている日本海軍の伝統精神は、今日から見てもまことに立派なものである。この規律、この訓練、この信義、この自己犠牲、この勇気、これらは民主主義の社会においても依然として尊重さるべき徳目である。」と述べています。
櫻本 天野貞祐が喜びそうなことだな。
吉川 このように、現代においても評価されるということについてどう思われますか。
櫻本 これはもう話にならないな。だけど、こんなの知らなかったよ、僕は。実際に読まれているのかな。これは七十の爺さん連中が読んでるんじゃないかな。若い人は読まないと思うよ。
事務局 この手の作品は戦後に結構出てますよ。例えば光人社からは火野葦平や、棟田博の戦争小説集とか。
櫻本 これは完全に懐メロだよね。しかもそういうこと……あのね、教育勅語が否定されたのは一九四七年でしたね。マッカーサーからはっきり教育勅語とか青少年に賜りたる勅語だとかいったものが、学校において国家神道に結びつくものだから廃止するようにって通達が出る。あの直後に、時の文部大臣天野貞祐が、今までの教育勅語に書かれていた徳目のものを作らなくちゃいけないということで、「国民実践要領」(’51)を発表するでしょう。国会でみんなに追及されて結局白紙に戻すんだけど、あの中に教育勅語は全部否定されるべきものじゃない、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ」といったところは現在も通じる日本人の徳目だということが書いてあるけど。今の河盛好蔵の解説も全くそれに似てるね。
吉川 櫻本さんは、『海軍』を今現在ご覧になってどうですか。少国民の時は夢中になられたそうですが。今の評価はどうですか。
櫻本 書かれている内容そのもの、要するにプロパガンダ的なことについては絶対認められないけど、小説としてはこれは優れているよ。
吉川 そこなんですよ。
櫻本 実によくできているよ。
吉川 櫻本さんが『海軍』の価値を否定されるというのはイデオロギー的な面からですよね。まぎれもなく戦争に協力した作品であるからです。ところが、小説としての面白さがあったために戦争中は櫻本さんもそれを夢中になって読まれたんですよね。それを戦後になって、イデオロギー的な理由によって分析の対象にさえしないと言って、作品を斬ってしまうということでは、実は作品の面白さは否定されていないことになるのではないでしょうか。イデオロギーだけで斬っているので、作品の面白さ自体は今も否定されていないわけでしょう。そういう、この作品が当時持った力は現在の視点での善悪では割り切れないんじゃないでしょうか。
櫻本 吉川さんの言う「質」っていうのはそういうこと?
吉川 そうです。イデオロギー性ではなくて小説の持つ作品の面白さ、リアリティとか構造とか方法とか、そういうところが当時の櫻本さんを動かしたのだし、こういう風に今読んでも読めるという人もいるわけじゃないですか。そういうところでの批判をしないとやはり作品の否定にはならないんじゃないでしょうか。
櫻本 それは言えるかもしれない。だけど、吉川さんはこれ読んで面白かった?
吉川 うーん……。
櫻本 僕が聞きたいのはそれだよな。僕が小説として優れていると言ったのは、多分に懐メロ的な要素が加味されていると思いますよ。果たしてこれが本当に小説として優れているかとなると、ちょっと別だと思うけどな。
吉川 この小説は確かにうまく作ってあるとは思いました。後に軍神になる真人を天才的な人物ではなく好感の持てる努力家に設定しているところとか、後半になって視点が親友の隆夫に移り、この人は海軍に入れなかったのですが、隆夫の視点で軍神の活躍が描かれるところとか。
櫻本 確かに吉川さんが言った問題で、一番好適なのはね岩田豊雄じゃなくて、吉川英治だよ。戦争中に書いたものが戦後にも読まれているんだよね。
吉川 『宮本武蔵』なんかそうですね。そういう意味で、櫻本さんの批判は河盛好蔵にとっては痛くも痒くもないと思うんですよ。作品は優れているんだからって言うでしょう。だからこの人にも届く批判をしないといけないと思うんです。
櫻本 そうねー、それは言えるな。(『海軍』の奥付を見ながら)一九八三年に出てるのかー。とにかく戦時中のものと比較する必要はあるでしょうね。直してないかな。『宮本武蔵』は完全に直してありますよ。皇室関係のところなんか。南北朝の。これも書き換えてあるんじゃないかな。
吉川 さっきの質問に戻りますが、そういう意味での「質」なんですよ。作品の面白さとか。だから櫻本さんも現在でもこの小説は優れているとおっしゃるじゃないですか。そういうことを全然分析されないでこれはイデオロギー的にバツだというような姿勢ではその作品が持った力を芯から否定できていないと思います。
櫻本 それは言えるね。芯から否定できていないね。僕の否定は今までそういう否定だからね。ただそういう否定だからね。もうそれから先は若い人にやってもらうよりしようがないよ。
吉川 でも櫻本さんは、戦時中に読まれて心を動かされたわけですから、心を動かした魅力を一番知っているわけじゃないですか。その辺のところをもっと。
櫻本 あのね、その辺が、僕の個人的な理由かどうか知らないけど、僕ら昭和一ケタの少国民世代は八月一五日の敗戦以後まるっきり価値観がぐらりと変わっちゃったわけでしょ。その頭の中の混乱ていうのは、きちんと整理されていないと思いますよ。ガン細胞じゃないけどかなりあちこちに転移しているんじゃないかな。だからこういうのを当時どういうところに心をうたれたとか、どういう風に読み取ったかという、そういう視点を今の時点で展開しろって言っても、完全には復刻出来ないですね。多分に混乱した戦後の価値が頭の中に入ってきちゃっているから。あっちこっち転移しちゃっているから、ガン細胞みたいに。だからもしそういうことをやったとしても、それは多分に戦後的な発言になっちゃうよ。それに書き直し\改ざんといってもいいが\の提起する問題、「優れている」という言葉の概念問題など「質」をめぐっては、いくつかの問題があると思います。
吉川 櫻本さんは「住井すゑにみる『反戦』の虚構」(「論座」1 │ 5、’95)で、「私は敗戦直後から、戦時中の諸雑誌や単行本を収集してきた。天皇に命を捧げることが生きがいの軍国少年に、なぜ私はなってしまったのか。それを究明したくてのことであった。」と書かれています。今のお仕事はそういうことにつながっていますか。
櫻本 いや、まだそこまではつながってないですね。今僕が一番頭を悩ましてるのは、集めた資料をどういう風に記録して残しておかなくちゃいけないかということの方が大きいね。死蔵だけはさけたいよ。

「満州」│「思いやり」と深読み

吉川 櫻本さんはご自分の著書のことを資料集と言って、あえて作品を深読みせず、資料の提示を中心にやってこられましたが、『満蒙開拓青少年義勇軍』(’87、青木書店)だけは他と違うように思えます。そこでは島木健作『満洲紀行』(’40)を評価されていますね。『満洲紀行』は戦後に読まれたのですか。
櫻本 そうです。島木健作だけですよ、『学習資料』について書いたのは。満州のことであれだけ書いてある、今でも読める満州ものというのは島木の『満洲紀行』だけじゃないですか。島木は書くべきことは書いている。少年たちがどんなにひどい状況に置かれているかってことを本当にさりげなく書いているんですよ。
吉川 同じように菅野正男『土と戦ふ』(’40)についても「本の内容が満蒙開拓青少年義勇軍の推進に役立つもの、と判断された上で出版されたことは否定できない」としながらも「深読みすれば」「立ち遅れている義勇軍対策の解決を当局に迫っている書とも思えるのである」と評価されています。ここでは作品の内容に踏み込んだ「深読み」をされていますよね。それはどうしてですか。
櫻本 あのね、長野県人というのは、満州への思いは、マイナスの意識を持っているんだよ。借金があるんですよ。僕の場合、お袋の方の大日向村のことだとか、僕の好きだった、満州に行ったおじのことだとかね。このおじはすごいんだよ。ソ連軍に捕まってシベリアに抑留されて脱走してくるんだよ。大連まで来てね、そうしたらかねて決めておいた所に長男がいないんですよ。娘と次男とおばさんはいち早く日本へ送り返しちゃったわけです、一九四六年に。脱走して帰ってきてみると、長男がまだシベリアにいるというのがわかって、もう一度シベリアへ行くんだよ。収容所を転々として探して長男に会って、二人で脱走してくるんだ。そういうおじきなんだよ。それでね、最初におばさんと娘と次男坊が、次男坊は僕と同じ歳なんだけど、帰ってきた時に一番最初に家へ来たんだよね。小諸が小海線の乗りかえ駅だったから。いとこたちの手が、震えているんだよ。今でも覚えているけど。そういう思いやりがあったから、満州についてはかなり深読みしましたね。
吉川 手が震えているといった、身ぶりや表情などの身体的なものから、語りきれないような記憶がいとこたちにはあるのだと感じられたのですね。今「思いやり」とおっしゃいましたが、櫻本さんは『土と戦ふ』を読む時も、このいとこたちへの「思いやり」を切り離すことはできなかったはずです。つまり、この記憶への想像力を持って読まれたと思います。ですから満州に関しての本は内容に踏み込んで「深読み」せざるをえなかったんだと思います。だから、その……
櫻本 同じようなことが、他の文化人には向けられないかということですか?
吉川 そうなんですよ。
櫻本 そりゃあ、そうなんだよな。よく言われるよな。だけど僕は金子はかなり深読みしているつもりですけどね。あとは、深読みする前に頭に来ちゃうんだよ。例えば、中桐雅夫なんてね「 Lost generationの告白」(’47)ってあるんですけれど、頭に来るよ。あれ読んで『山本五十六元帥』(’43)を読んでご覧なさい。これは白神鉱一っていう本名で書いてます。戦後、彼は山本五十六の「や」の字も触れていないんだよ。中桐雅夫の名で発表してないんですよ。だから知らない人は全然知らないんですね。彼がくろがね会に入ってあんなこと書いていたなんて知らない人の方が多いでしょう。
吉川 櫻本さんが満州については深読みされるのは、ご身内のこともあり事情がよくわかっていたからですよね。でも、満州と同じように戦時下の状況や作家の立場なども十分にご存知ですよね。それなのに詩人や作家に対してはやっぱり深読みされないですか。
櫻本 うん、してないね。何でかなあ。ただもう、なくなって空白とされている資料をきちんとまとめておけばなんとかなるだろうっていう、そもそもの動機が単純なもんですからね。それについて、書いた人も何も言わないんだから、何かひとこと言ってもらわないとオチが来ないな、そういう気分があってのことですから。そもそもの出発が。
 今でこそいろんな人たちが注目したり関心を持ったりしてくれているけど、最初の頃は全然誰も関心を持っていなかったんだよ。だから何やってるんだろうと思ったもの。憎まれ口書いてさ、しかも出版社たらい回しになって原稿がボツになったりしてさ、本は出せないでしょ、それであんな資料の山で、こんなに集めちゃって一体何やって来たかって、そう思いましたよ。そう思った時期あったもん。ぜんぜん何にも反応がないんだから。要するに黙殺だからね。
吉川 変な仮定ですが、戦時中櫻本さんが少国民でなしに詩人として過ごしていたら、どうなっていたでしょう。
櫻本 それはもう、すごい、こんなもんじゃないよ。もっといい詩をいっぱい書いていたと思うよ。高村光太郎よりもっとうまい詩をね。読者を鼓舞したと思いますよ。本当にそう思っていたんだもの。人生わずか五十年とか言うけど、僕たちの頃は二十年まで生きたらいいと思っていたんだ。十七、十八で予科練に行って飛行機に乗って落っこちるというのは、当たり前のことだと思っていたんだから。それについて疑問も何も感じなかった。そういう緊張はなんたって今の人には伝えられないよ。完全に異常ですから。そういう異常な状態に日本中が仕立てられていたんだから。それは紛れもない事実だよ。それを戦後になって冷ややかに見てたとかさ、批判したとかなんとか言っても信用できないよね。そういう話は伝わらないね。
(一九九八・一一・一、櫻本氏宅にて)

インタヴューを終えて

 このインタビューは拙論「櫻本富雄を読む」(『〈大衆〉の登場 文学史を読みかえる 2』)において示した櫻本富雄氏の仕事に対する疑問点を直接質す目的で行った。戦時下文学は不毛であり「空白」であった、とする既成の文学史に異議を唱えるのが、櫻本氏の仕事である。しかし、既成の文学史から「隠蔽」されていた作品群を「翼賛」文学として断罪することに終始しているのではないか。そのような姿勢は、まさにその「翼賛」文学に夢中になった「少国民」としての自己のあり方をなおざりにする、つまり「空白」化することではないか、という疑問である。
 インタヴューでは櫻本氏自身の「空白」部分、「少国民」としての在り方を知ることができたように思う。「記憶」を美化したり絶対化したりせず、むしろ戦後の記憶のフィルターを意識しつつ回想に努める態度。そこから、断罪的に見える櫻本さんの仕事の核心には、戦中の自己を対象化する試みがあることが窺えた。戦争体験の「記憶」に頼るのでなく、むしろその「記憶」を対象化するために、資料を繰る。そのような在り方に、戦争体験のない私は励まされた。戦中を対象化する試みは体験者であることに還元されるものではないはずである。共有する問題意識を持ちつつ、戦時下文学の「空白」を埋める作業に加わりたい。
 インタヴューは五時間に及ぶものであったが、紙幅の関係で割愛せざるを得ない個所も多かった。最後に、三階の書庫まで何度も往復しながら、弾劾的な質問にも誠実に答えて下さった櫻本富雄氏に感謝する。

櫻本富雄(さくらもととみお) 一九三三年生まれ。詩人。インタヴューで取りあげたもの以外の著書に『戦争はラジオにのって』(’85、マルジュ社)、『燃える大空の果てに』(’86、日本図書センター)、『文化人たちの大東亜戦争』(’93、青木書店)、『大東亜戦争と日本映画』(’93、青木書店)、『日本文学報国会』(’95、青木書店)、詩集『沈黙の領野』(’73)などがある。最新刊にwぼくは皇国少年だったx(’99、インパクト出版会)がある。
吉川麻里(よしかわまり) 一九六九年生まれ。日本近代文学。「海野十三の南方徴用体験」(神谷忠孝・木村一信編『南方徴用作家』’96、世界思想社)など。

(インパクト出版会刊『文学史を読みかえる4』より)

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