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第3回 戦時下の「マンガ」について

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 一九四〇年八月三一日に設立された「新日本漫画家協会」は、第二次近衛内閣が推進した「新体制運動」に呼応し、現役マンガ家たちを動員一本化した組織であった。
 「新漫畫派集団」「漫画協団」「三光漫画スタジオ」「新鋭漫画グループ」「国防漫画連盟」「東京漫画社」「新漫画隊」などに所属して、てんでんばらばらに活躍していた若手のマンガ家たちや、組織に所属せずフリーで活躍していたマンガ家たちが、「新体制のバスに乗りおくれるな」を合言葉に結集したのであった。
 この協会は、機関誌『漫画』を「新しい国民雑誌」と自称し、第一号は一〇月に「新体制号」として発行された。日独伊三国同盟を祝して三国の外相が乾杯しているマンガ(近藤日出造画)が表紙になっている。
 当時の資料には、協会の委員として近藤日出造、横山隆一、小野佐世男、松下井知夫、小川武、池田三郎、利根義夫、大野鯛三、永井保、小川哲男、杉柾夫などの名前が記録されている。
 発足した協会は、軍の「献艦献金運動」に協力して似顔絵展を開催したり、「翼賛一家のキャラクターマンガ」を創案したり、機関誌が大政翼賛会宣伝部の推薦誌となったりして大日本帝国の侵略政策に便乗した御用集団になった。
 会員たちの作品は『漫画』(一九四〇〜五一年)をとおして見ることができる。
 「翼賛一家のキャラクターマンガ」は、当時の雑誌や新聞に、いくつも発表されているが、まとまったものとしては『翼賛漫畫進メ大和一家』(矢崎茂四、山本一郎、松下井知夫、長谷川町子・一九四二年)がある。
 協会の中心的な存在であったのは「新漫畫派集団」に所属していたマンガ家たちであったが、会の運営に感情的な対立をした加藤悦郎、安本亮一などが、一九四一年の夏頃に脱会して「建設漫画会」を結成した。建設漫画会は大政翼賛会宣伝部監修の『勝利への道』(一九四二年)を発行している。
 建設漫画会の中心的人物だった加藤悦郎やその仲間たちは『新理念漫画の技法』(加藤悦郎著・一九四二年)『勤労青年が描いた増産漫画集』(加藤ほか・一九四四年)『新体制漫画読本』(加藤ほか・一九四〇年)『太平洋漫画読本』(加藤ほか・一九四一年)などを上梓している。
 戦時下の日本のマンガ界は、ごたぶんに漏れず、いくつもの師弟グループの割拠する世界であった。いわゆる大家といわれた北沢楽天、岡本一平、田中比左良、堤寒三、下川凹天などの下に、弟子と称する若手マンガ家たちが集結していたのである。新日本漫画家協会は、この大家を除外した若手マンガ家たちの集団であった。
 一九四一年一二月、アジア・太平洋戦争が勃発、マンガ家たちは従来より強力な戦争翼賛態勢を構えようと立ち上がり新日本漫画家協会を解散して「日本漫画奉公会」を一九四二年五月一日に結成した。これには一部のマンガ家たちが軍の宣伝隊員として徴用されるといった状況が関与していた。
 日本漫画奉公会は大家を含めた日本マンガ家の総動員組織で会長・北沢楽天、副会長・田中比左良、顧問・岡本一平、監事・細木原青起の総勢九〇名であった。
 そして「聖戦必勝態勢昂揚肉筆漫画」の展示会を開催したり「決戦漫画展」の全国主要都市巡回を主催して戦争推進に翼賛した。それらの運動の一端を収録した『決戦漫画輯』(一九四四年)が発行されている。
 大日本帝国を擁立していた軍隊は海軍、陸軍で、両者は表面的には協力態勢を保ちながら、その実、ことごとに反撥しあっていた。戦局が悪化しはじめると、その反撥は顕著になり戦争遂行には無意味な競争に走った。そんな結果に誕生したのが大東亜漫画研究所と報道漫画研究会である。一九四三年の夏頃である。前者は海軍、後者は陸軍の要請で設立された。
 どちらも近藤日出造が中心になって結成されたものだ。この近藤日出造の戦争翼賛の姿勢を、峯島正行(一九二五〜・『週刊漫画サンデー』の編集長などを努めている)は、暇な老人たちのお先棒になって献金運動や国防漫画展覧会を開くことだけがマンガ家の国家への奉公ではないだろう。マンガ家の本当の仕事は他にあると考え近藤日出造は軍を利用して暇な大家たちの目が届かない組織を結成したのである、と好意的な解釈している。
 大東亜漫画研究所には近藤日出造、横山隆一、秋好馨、清水崑、杉浦幸雄、那須良輔、横井福次郎、松下井知夫、塩田英二郎、荻原賢次、小泉貞雄などをはじめとする二八名の現役マンガ家たちが参画した。
 いっぽうの報道漫画研究会は会長が岡本一平で、メンバーは大東亜漫画研究所と同じであった。
 残されている両者の作品や岡本一平を会長に擁するなどの事実からは、峯島正行のような好意的解釈は引き出せない。
 当時の国家権力がマンガ家たちに何を要請したのか。その要請にマンガ家たちはどう応えたのか。この疑問に答えている資料を紹介しよう。
 一つは横山隆一の『ジャカルタ記』(一九四四年)に寄せたジャワ派遣軍宣伝報道部長陸軍中佐町田敬二の序文。『ジャカルタ記』は、横山隆一が宣伝部隊の任務を果たし帰還してから上梓された戦争体験記である。
 この陸軍中佐は、その文で端的に「こん日では漫畫も戦力であり画家もむろん戦士である」とのべている。
 もう一つは建設漫画会の加藤悦郎(一八九九〜一九五九年)の文。加藤悦郎は函館出身だが、日本プロレタリア美術家連盟のシンパで左翼マンガを描いた。その後、転向して日本の侵略戦争を積極的に翼賛した。戦後は再度転向して日本共産党に入党し『アカハタ』などに権力批判のマンガを描いた。変わり身の早い人物である。別の表現をすれば世渡りの上手な無節操マンガ家だが、戦時下は政治マンガを描いて、日本の遂行する戦争の正当性を世界に説いていた。長文であるから要約引用である。

 日本漫画家の理念│此の心構こそ其の根底をなす│(要約)
 世界は今、輝かしい黎明をむかえようとしている。世界の吸血鬼たる米、英の魔手に握られた支配と搾取の鉄鎖を寸断し、彼等の心臓に、最後の止めを刺さんとするのが、即ち、大東亜戦争である。
 このような大聖戦を最後まで戦い抜くためには強大優秀な武力を必要とする。しかし、武力以外の国家力がこれにともなわなくては折角の武力も、その実効を十分に発揮する事は不可能であり、したがって聖戦の完遂もまた断じて期し難い。
 あらゆる国家力が、一つの国家目的に結集、整備され、真に国家の血となり、肉となり、骨となり得る完全な態勢をもつ国家が「高度国防国家」なのである。高度国防国家確立への献身的な協力を通じて、大東亜戦争の完遂を期すること、これが一億国民の光輝ある義務であり絶対的な国民的理念である。文化戦線の一翼に立つ漫画家にとっても、この真理は断じて例外であってはならぬと信ずる。
 過去十数年間におけるわが漫画界は商業主義的ジャーナリズムへの迎合と阿諛をこととする職人的、商人的漫画家の続出を見たのみで、漫画そのものも、愚劣低劣なナンセンス物か、さも無くば、国際共産党の御用漫画でしかない若干のプロ漫画を見るに過ぎなかったのである。今や、わが一億国民は、真に大和民族としての誇りと伝統にめざめ、わが祖国をして真に大東亜の盟主たらしむべく敢然として起ったのだ。われら日本国民は、もはやなにものにも依存する事をゆるされぬ。たのむのは、わが力のみ。芸術またしかりである。日本の漫画芸術を真にわが国民の芸術たらしめるために、また、その国民的芸術を通じて、最後まで大東亜戦争を戦いぬくために、即ち、戦いつつ建設し、建設しつつ戦うために、断然、欠くことのできないものなのだ。
(加藤悦郎『新理念漫画の技法』)

 転向を繰り返す人は基本的に信用できないが、彼のことを「戦争への協力者だったという反省の心から漫画を捨てずに漫画に再び挑戦した」マンガ家で「日本の漫画家の一典型を示した人といえる」とする評価もある。
 人の評価には、その立場や視点によって全く逆転するような結論になる事例がある。それぞれの評価が絶対ではないことを認識して偏狭にならないことが大切であろう。
 戦時下のマンガ家たちの主な活躍の場は、前述した『漫画』や掲示した資料などのほかに、朝日新聞社が発行していた『アサヒグラフ』、情報局が発行した『寫眞週報』、商業月刊誌の『漫画日本』、「東京新聞」などであった。これらのほかに、子どもむけのマンガ、マンガ映画、マンガ紙芝居などがある。
 子ども向けのマンガは、当時の少年倶楽部や少女倶楽部といった商業月刊誌、毎日新聞社が発行した「少國民新聞」、朝日新聞社の『週刊少國民』などで知ることができる。
 最後の『週刊少國民』には戦時下唯一の大河マンガ「ナマリン王城物語」(松下井知夫作)が連載されていた。マンガ映画やマンガ紙芝居は、あまり残っていないが、松竹動画研究所が製作した「桃太郎 海の神兵」(一九四五年)が保存されていて鑑賞できる。
 戦時下の日本マンガをめぐる詳細な具体例は拙著『戦争とマンガ』(二〇〇〇年・創土社)を参照されたい。

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