学生諸君へ
第7回 教育塔

 教育者になろうとする者、指導的地位につこうという人、様々な希望を将来に持っている諸君に是非知っておいてもらいたい情報を、このページではとりあげることにしているが、今回の情報も知らない者のほうが多いのではないだろうか。

 ここに二冊の本がある。どちらも1937年に発行された。奥付によると、

 『教育塔誌』1937年10月20日発行 帝国教育会編纂 非売品
 『教育塔』 1937年10月30日発行 大阪市教育会編
 
 大阪市教育会編纂の「教育堵」が関係方面にだけ配布された本かどうかは、「教育塔誌」のように奥付に明示されていないからわからない。しかし値段が表記されていないから大阪市教育会傘下の学校に、配布されたものであろう。つまり、どちらも非売品の本と考えられる。
 私が所持している『教育塔』には「大阪府大阪市墨江第二小学校図書之印」があり、そこに黒い消しのスタンプがおしてあるから、学校が不要書として整理し払い下げた本である。それがどのような経路であったかは不明だが、ある時、神田の古書店で見つけた。
 同書の「序」には「昨年教育塔前に於いて第一回数育祭が執行されたのを機会に、本会がこれら貴重なる資料を網羅した一大記念誌を編纂する計画を進めつつあった折柄、帝国教育会に於いてもたまたま同様の企のあるのを聞き、本会は当初の計画を極度に縮小して重複を避け単にその要録を編むことに方針を変更した」とある。したがって『教育堵誌』『教育塔』は、二冊で表裏一体をなす書籍だろう。
 「教育塔誌」の題字は帝国教育会会長永田秀次郎(1876?1943年)の揮毫である。これは1950年頃に甲府で入手していた。
 永田秀次郎は兵庫県出身で、京都府警察部長、三重県知事などを勤めて1916年に警保局長に就任、右翼の赤尾敏(戦後、大日本愛国党の党首として活躍した)と建国祭式典の執行を担当したり、教科書調査会会長、柘植大学長などを歴任した。その後、広田内閣の柘相や阿部内閣の鉄道相になり、戦争中は陸軍の軍政顧問官としてフィリピンに赴任し、その地で客死した。国家警察が生んだ内務官僚の政治家と言えるだろう。
 そんな人物が会長に就任している帝国教育会は1883年に大日本教育会として設立された。総裁には創設以来、皇族が推戴され、宮内省が物的な援助(土地、建物の給付)をしている。1896年12月に帝国教育会と改称した。この時の会長は公爵近衛篤麿(1863?1904年、文麿、秀麿の父)であった。
 帝国教育会は国家主義的色彩の強い半官半民的団体といわれているが(久保義三『日本ファシズム教育政策史』1969年)、それは当時の全国連合教育会、全国国民学校職員会、教育評論家協会、各都道府県教育会、市・区・郡・町・村教育会など、いくつもあった教育団体に共通する性格であった。
 各種教育団体を統合する一元的組織を結成することは、文部省当局の長年の懸案であった。悲願といってもいいだろう。だが、それは困難な問題であった。
それぞれの教育会には各地域独特の伝統・特色があり(大名時代の藩教育など)、さまぎまな利害が絡んでいたからである。
 1941年度の帝国教育会の会員数は、団体会員が93で、この内の85は府県教育会46、市教育会23、区教育会7、その他9、であった。個人の通常会員数は1312名であった(「教育週報」1942年6月27日号による)。
 永田秀次郎は1942年1月に辞任、その後任は、文部省の思惑や会の定款改正問題などがからんで、なかなか決まらず、永井柳太郎(1881?1944年)が後任会長に就任したのは、1943年3月であった。一年以上、会長が不在だったのである。

『教育塔誌』には序文も跋文もなく、『教育塔』には最初に抄出したような序文がある。
 この二冊の発行日は10月(特に『教育塔』は30日)になっている。その日に特別の意味があることなどを知っているせ代は、年々少なくなつている。しかし、それら少数派となつた世代人の脳皮質には「明治23年10月30日」という日付が、消すことのできない入れ墨のように刻印されているだろう。
 戦前の日本の教育界には、「ちんおもうに……」と始まる315文字の呪文があって、それは教育勅語と呼ばれ、全国の学校にはもれなく、そのコピー(謄本)が配布された。10月30日は、その呪文が発布された日なのである。
 では、なぜ戦前世代人の脳裏に刻印されたのか。簡単にのべると、戦前の学校には天皇制を浸透させるための祝祭日学校儀式が設けられていた。新年の大節(1日・四方拝、3日・元始祭、5日・新年宴会)、神武天皇が即位した日として紀元節(2月11日)、皇后誕生日の地久節(3月6日、一般の祭日ではないが祝日で、女学校では祝賀式を行った)、皇霊祭(春季と秋季、春分の日と秋分の日)、天皇誕生日の天長節(4月29日)、明治天皇誕生日の明治節(11月3日)などが代表的なもので、それらの日には学校で式を行い、家々では日の丸の旗(国旗といった)を立てて祝うことが義務とされた。しかし、家族的な家内業が多かった時代の祝祭日に、子どもが学校の式に出席することは、生産量の減少につながることであったから、家庭からは歓迎されなかつた。そこで学童の出席率をアップする目的で、当日は紅白の餅や菓子を配って歓心を賢つた。飴をくれたわけである。
 この学校での式の時に、必ず読まれるのが(奉読といった)勅語であった。勅語が奉読されている間は上体を少し前にまげて謹んで聞き、終わると敬礼をするものとされていた。奉読する校長は白い手袋でモーニング姿の正装であった。勅語の内容は、坊さんの読むお経ほどには難解でなかったが難しい内容で、不動の姿勢で聞くのは苦痛であつた。式が終了し、学童たちが退場した式場の、低学年の席には、あちこちに水溜まりがあったものである。長時間の儀式に失禁する生徒がいたのである。で「明治23年10月30日」は、つぎに「御名御璽」と来て奉読が終わると言う記号だったのである。小学枚の高学年になると勅語を清書し暗記させられた。諸君も一読するといい。
 さて、教育塔についてのべよう。
 
 大阪市内の大阪城公園の一隅、NHK大阪局近くの大手前広場の端に、「教育塔」という塔の建っていることを知っている人は、教育界でもそう多くはないかもしれない。
 この教育塔とは、1936年10月に落成した平面積約330平方メートル、高さ約36メートルの堂々たる記念塔で、1872年の「学制」公布以来現在にいたるまでの間に、学校での公務執行中に殉職した教職員、および殉難した学生・生徒・児童を合祀しているものである。
                   (佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』)

 大坂に住む現職教師の話では、組合がデモなどに参加する時の集合場所、あるいは解散場所として「教育塔前」というのは、大手前公園の格好の地点で、よく利用するから、おおかたの教職員が、その場所は知っているそうである。
「ただし……」と、その先生はつづけていった。「……その教育塔の由来などを知っている職員はすくない」
 
 塔建設の直接的な契機となったのは、1934年9月、関西・中国・四国地方一帯を襲った、いわゆる「室戸台風」により、多くの教職員と子どもが犠牲になったことである。
 その風水害記念碑を建設するという大阪市教育会の発議が帝国教育会に受けとめられ、全国学校教員・生徒からの募金に、皇室と文部省からの下賜金・補助金などを合わせて築造された。      (『学校ことはじめ事典』前出)

 1934年9月21日(金曜日)の朝、秒速60メートルの台風が関西地方を襲い、おりからの大高潮によって大災害が発生した。
 台風(後に「室戸台風」と命名された)の襲来時間が学校の始業時間と重なったため、大阪地方の学校被害が特に甚大であった。校舎が倒壊し、教員や児童に多数の死傷者が続出したのである。
 台風が去ってから、その被害の大きさに閑係者たちは立ちすくんだ ──。
 そして、この災害発生時に発揮された教員の殉職行為が、つぎつぎと明らかになった。
 学童を避難誘導中、最後に脱出できなくなり、学童を両脇に抱えて殉職した女教師。抱えられた学童は奇蹟的に救助された……。
 風雨激しくなる中、学童を南西の教室に避難させようと誘導、最後に残った数名の学童を助けようとして倒壊校舎の下敷きとなり、教え子三名を腕に砲えたまま殉職した教師……。
 なかでも、倒壊する校舎から、五人の児童を自らの身体で庇い殉職した豊津小学校の女教師の話。これは教育講釈としてレコード化され、世間に大きな衝撃と感動をあたえた。(以下次号)
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