学生諸君へ
第8回 教育塔(2)


教育塔(クリックで拡大)
 九月二七日──災害直後に開催された大阪市教育会の緊急理事会は、災害に関する事業を協議した。
 その中に、この度の災厄に遭って死亡した学童、教員等の霊を慰藉する施設として永久的記念碑建設の議がふくまれていた。
 そして緊急理事会は記念碑建設委員会を設け、11名の委員を決定、同委員会は一〇月三日に委員会を開催し、正式に風水害記念碑建設を大阪市教育会の事業と決定した。
 同年一一月二二日、全国連合教育会臨時評議委員会が東京一ツ橋の教育会館で開催され、その席上で帝国教育会専務理事の大島正徳(一八八〇?一九四七年)が「殉職教育者の表彰並びに師道の確立のため、教育者の精神を表象する記念塔を建設したい、これは帝国教育会と全国連合教育会の精神的結合の表象になろう」との緊急動議を提出、すぐ可決された。
 同年一一月二四日、大阪市教育会の理事会は、同会の風水害記念碑建設事業は単独に建設することを控えることに決め、出来るならば帝国教育会の事業として大阪市に建設されるように、といった要望を帝国教育会に通告した。
 大阪市教育会の理事会が当初に決定した記念塔の建設案は、つぎのようなものであった。

一、 記念塔は大風水災に際し学園に於て表わされたる崇高なる教育精神を象徴し、且つ殉職教職員、遭難学童慰霊の為に之を建設す
  (1)教育精神を象徴する為高く仰ぎ見るものにすること
  (2)尊厳にして自ら礼拝の対象となるもの
  (3)現代芸術の精粋を集め今回の大風水災学園美績を永く後世に伝うべ
  きこと
 二、記念館を付設すること
 三、建設地
  (1)神聖なる地域を選ぶこと
  (2)便利なる場所に定めること
  (3)広場あること

 この原案に盛り込まれた建設目的である風水害の慰霊碑的な性格は、帝国教育会が記念塔建設を可決した一一月二二日以後、皇国師道の確立、皇国教育者の精神を天下に顕揚するといった性格に変質した。
 教育者の精神といった曖昧な概念は、戦時下では「天皇に命を捧げる教育者の信条」と明確であった。
 一九三六年二月二八日、帝国教育会理事会は「教育塔規程」を発表した。

教育塔規程(原文は片仮名書き)
 第一條 教育塔は殉職せし学校、幼稚園職員の芳名(台湾、朝鮮、樺太、南洋並に在外教育職員を含む)を勒して之を不朽に伝え其の壮烈なる気迫を景仰し普く教育者の抱懐せる教育精神を顕彰し兼ねて殉職せし学生、生徒、児童名(台湾、朝鮮、樺太、南洋等並に在外貝を含む)を配記して共に其の英霊を慰藉するものとす
第二條 殉職職員を定むる標準左の如し
 一、昭和九年十一月三十日文部省令第十号学校職員表彰規程第一條に該当し直に死亡し又は之が直接原因となりて疾病に罹り或いは傷痍を受け引き続き重態に陥り死亡したるもの
 二、明治五年以後昭和九年文部省令適用以前のものにありては前項に準じ審査決起したるもの
 参照 昭和九咋11月30日文部省令第十号学校職員表彰規程第一条学校職員にして自己の危難を顧みずして職務に尽くし其の所為教育者の亀鑑と為すべきものあるときは文部大臣之を表彰す幼稚園の職員に付き又同じ
第三條 殉難の学生生徒児童を定むる標準左の如し
 学枚の教育時間内に於いて不慮の災禍によりて死亡し又は之が直接原因となりて疾病に罹り或いは傷痍を受け引き続き重態に陥り死亡したるもの
第四條 前二条の調査は毎年五月前年度につき全国道府県等の教育会に委嘱し其の報告に基づき審査決定するものとす
 前項に於いて決定したるものは毎年七月之を塔内に納むるものとす
第五條 芳名を塔内に納むる様式左の如し
 一、職員 陶磁製の銘板に職氏名生年月日並びに死亡年月日を記し塔内の壁面に掲ぐるものとす
 二、学生、生徒、児童 陶磁製の銘板に学校学年氏名死亡年月日を記し之を所定の箱に納むるものとす
 三、原簿 原簿を作製し各事態を記録して別室に存するものとす
第六條 毎年十月三十日を以て教育祭日と定め塔前に於いて式典を執行す
第七條 教育塔建設の目的を達成する為適切なる方法により教育運動を行うものとす
第八條 教育塔の管理に関する規程は別に之を定む
第九條 本則執行に関する細則は別に之を定む

 寄付金の募集が、一九三五年七月から開始された。
 これより早く、五月三日には、教育塔の建設地が大阪市教育会の要望にそって大阪市大坂城公園大手前広場と決定し、あわせて塔の設計図を懸賞募集することなどが決まった。
 その細則は同年七月一日、二日の東京朝日、東京日日、大阪毎日、大阪朝日などの各新聞紙面に広告された。
 一九三六年三月一二日、宮内省は教育塔建設の事業に「御下賜金」 の沙汰があったことを発表した。天皇が金一封(三千円)をくださる、というわけである。ちなみに、当時はカレーライスが一皿一五銭であった。
 ついで八月、文部省は教育塔建設事業への補助金(一万円)交付を決定した。
 塔の設計図は、伊東忠太、岸田日出刀、武田五一各工学博士、古宇田実神戸高等工業学校長、永田秀次郎帝国教育会会長、加々美武夫大坂市長等六人の審査員によって三五四通の応募図案の中から、東京の島川精の設計したものが選ばれた。
 壁面に嵌め込まれる浮き彫り図案は、東京の長谷川義起のものが応募二七点の中から選ばれた。
 その図案は、整列した生徒の前で女教師が校長の訓示を受けているもの、暴風雨の中、教師が生徒を避難誘導しているもの、の二図であった(長谷川義起「浮彫設計の意図」「教育塔」所収)。
 前者は「教育者奉公精神ノ象徴」、後者は「児童愛純美ノ象徴」と呼ばれた。
 この二図のうち「教育者奉公精神ノ象徴」の図は、後に考案者の意図を離れ、教育勅語奉読の図といわれた。そうでないことは、考案者の言葉で明らかであるが、もう一つ、整列している生徒が頭を垂れていないことからも判明する。勅語の奉読の時は、既述したように、上体を少し前にまげて頭を垂れ、慎みの意を表すべし、とされていたのである(「国民礼法」)。
 一九三六年十月三十日、教育塔は「総額十五万三千五百四十八円七十八銭」を投じて完成、その竣工の式典が挙行された。
 参列者は殉職遺族代表八〇〇名、朝鮮、北海道などの全国各地の教育会代表二〇〇〇名、帝国教育会会長、文部大臣(代理)、大阪府知事、大坂市長、第四師団長、大阪帝大総長、大阪商工会議所副会頭、東京文理科大学長、帝国教育会理事たち、大阪府、市教育会役員、教育塔実行役員などであった。
 式典終了後、引き続き午前十時三十分から、第一回数育祭が執行され、殉職教職員一三七柱、殉難児童生徒学生等一四三五柱が合祀された。
 以後、毎年、教育祭が十月三十日に執行された。
 例えば、学制が実施されて七〇周年、教育勅語換発五二周年にあたる一九四二年十月三十日の教育祭は、「大阪毎日新聞」の記事から抄出すると、つぎのように執行されている。

 安かれ師弟の霊/ゴム毯の先生や巳之助君も新合祀/追憶新た聖塔に静かな祈り
午前一一時から大手前公園教育塔前で帝国教育会の主催により第七回教育祭が厳粛に執行され万古不易のわが国教育精神を象徴する聖塔に殉職殉難の教職員、学生、生徒、児童の魂を新たに合祀、師弟の霊ともに安かれと参列者は祈りをこめた。
祭典は生国魂神社生田宮司斎主となり神事が進められたが、本年の新合祀者は、さる一月三〇日阪神武庫川停留場でゴムマリを拾おうとした女生徒の身代わりとなって絶命、文部大臣より顕彰された大阪上福島国民学校教頭をはじめ、いずれも教え子のために一身を犠牲にして尊い師魂を世に示した六柱、さる四月一八日非道米機の犠牲となった東京○○国民学校児童石出巳之助君をはじめ八五柱、合わせて二一六三柱。参列者は来賓、遺族ら一〇〇〇名であった。
(一九四二年一〇月三一日の紙面)

「上福島国民学校数頭」というのは、高知県出身の佐々木毎稔のこと。
 一九四一年の秋、日本の一部の国民学校に、日・仏印共同防衛協定を記念して真っ白なゴムポールが配給された。
 一月三〇日、ゴムポールを配給された上福島国民学校の生徒たちは(一年より高二まで千六百名)各自がボールを持って、耐寒心身鍛練の校外授業として武庫川べりに出掛けた。
 よく晴れていたが風の強い日和であった。生徒たちは昼食後帰途につき、阪神電車の武庫川停留場に着いた時、一人の四年女子生徒が記念のゴムボールを線路に落とし、それを拾うためにプラットホームから飛び降りた。その時、特急電車が進入して来た。とっさに線路に飛び降りた佐々木先生は、女子生徒をホームに押し上げたが、自分は間に合わずスピードで通過する電車に接触してしまったのであった。
 ゴムポールの配給は、戦捷第一次祝賀記念の時(一九四二年二月一八日)にもあったが、日・仏印共同防衛協定記念ボールを配給された学校の児童は、除外された。全国の学童に配るには量が不足だったのである。

「東京○○国民学校児童石出巳之助君」は一九四二年四月一八日のアメリカ空軍の日本本土空襲の際、米機の機銃掃射で死亡した東京都葛飾区水元国民学校高等科の一四才の学童である。
 ハワイ真珠湾で日本軍の奇襲攻撃を受けたアメリカは、その雪辱に日本本土空襲を計画した。所有する飛行機の中で航続距離の一番長い陸軍の爆撃機を航空母艦で、日本本土近くまで運び、夜間、通り魔のように一挙に本土を空襲し、そのまま飛行して夜明けに中国大陸の基地へ帰還する、といった陸・海軍共同の大胆な作戦であった。この作戦が成功する鍵は航空母艦を哨戒中の日本軍に発見されずに日本本土近くまで航行することであった。
 ところが爆撃機を搭載した空母は、攻撃予定時前に本土近海を哨戒していた日本船に発見されてしまった。その哨戒船はすぐ撃沈したが、無電を発信していたから所在を知られた、と考えた機動部隊は、作戦を真っ昼間の攻撃に変更した。航空母艦から飛び立った一六機の爆撃機(指揮官・ドーリトル中佐)は、白昼の日本本土(東京、名古屋、神戸)を攻撃した。
 日本本土空襲は日本の虚をついて大成功であった。日本の反撃はなく全機が無事に襲撃を成功させたのである。
 空襲部隊の悲運は、中国の基地への到着が、朝でなく夜間になって基地発見を困難にしてしまったことにあった。燃料の切れた飛行機は、暗闇の中で日本軍占領地ヘ着陸したり、海中へ落下したのである。
 東京都葛飾区水元国民学校高等科の石出巳之助は、この日(土曜日)、満州から兄が帰還する日であったから勇んで下校しようとしていた。学校を出た時、低空で飛来するノースアメリカンB25の黒い機体を発見、とっさに道端に身を伏せた。爆撃機は、上空を飛び去ったが、石出少年は、防空訓練どおりに、その場から学校へ戻った。登校・下校の際に空襲を受けた時は、家か学校か、近い方へ避難することになつていたのである。あと一歩で校舎に飛び込める、と思った時、飛び去ったはずの爆撃機が戻って来て校庭を機銃掃射し、その一弾
が少年に命中したのであった。当時の水元国民学校は、田圃の中にぼつんとある学校で付近には病院がなく、負傷した少年は約四キロ先の金町にある工場の付属病院ヘリヤカーで運ばれる途中、出血多量で死亡した。
 学校を機銃掃射した機は、アメリカに残されている戦闘報告書などから推理して、ドーリトル中佐の操縦する一番機であったようだ。低空とはいえ、機上から眺める当時の日本の学校は、広い校庭があり、木造二階建ての校舎があり、逃げ散る小学生は戦闘帽(戦時下の学生は学生帽でなく戦闘帽子といわれている帽子をかぶっていた)にゲートル姿である。校舎の屋上には防空意識を徹底させるために、防空監視用の櫓まであった。だから、兵舎と見間違えても不思議ではない。
 なすすべもなく米機を逃してしまった軍司令部は「敵機来襲せるも、我が空地両部隊の反撃を受け、退散せり。現在までに判明せる敵機撃墜数は九機、我が方の損害軽微」と嘘のニュースを流し、実際の被害を秘密扱いにした。少年の所属学校が束京○○国民学校などとなっているのは、そのためである。
 実際の被害は公式発表の資料がないから推定だが、死者五十数名、負傷者約四百名(うち重傷者約百五十名)ぐらいらしい。『東京都戦災誌』(一九五三年)は「焼失地域 荒川区尾久町九ノ二七九五付近、王子区稲付町一ノ二九三、小石川区開口水道町ノ一部(火災ニイタルラズ)、牛込区早稲田鶴巻町、馬場下町。焼失程度六一棟 1227世帯、 3520坪」と記録している。
 当局は、嘘の仕上げに、中国大陸で捕獲した飛行機(燃料が切れて日本軍占領地に不時着したもの)を持ち帰って、「神国攻撃の哀れな末路・これが撃墜した敵機」と折からの靖国神社祭に展示した。同時に捕虜は死または重罰に処す、と発表され三名が処刑されている(拙著『日の丸は見ていた』一九八二年、参照)。
 石出少年の墓石には「悲運銃撃善士」の六文字が刻まれている。そしてアメリカ人の鬼畜性をしめす象徴として、毎年四月一八日になると新聞紙面などに少国民たちが石出少年の墓を参拝する写真や復讐決意の作文が掲載され、敵愾心昂掲に利用された。
 戦後になって、私は毎年の四月一八日、時間があれば彼の墓地を、散歩を兼ねて訪ねることにしているが供花されているのを見たことはない。少年はもう身内からも忘れられているのだろうか。
(以下次号)
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