学生諸君へ
第9回 教育塔(3)

 2002年5月号の『文藝春秋』に「『東京の戦争』歴史探偵調査報告」と題する文が掲載された。1942年4月18日の、いわゆる「東京初空襲」のことを書いている文だ。その文中に以下のような部分がある。

 空襲は軍事目標外にたいしても実行されている。たとえば、そのなかの一機は品川の小学校に集まっていた児童に銃撃を加えている。これによって一名の死者がでた。これは明らかに戦時国際法違反であるゆえ、厳重な裁判に付すべし、という意見に参謀本部はまとまっていた。ちなみに死んだ小学生は石部巳之助と新聞にある。
 この記述がでたらめであること、筆者は「新聞にある」というだけで、その検証はしていない、実にいい加減な記述、といったことは、もう説明する必要もないだろう。このような間違った情報が現在でも横行しているのだから、何でも鵜呑みにするな、と警告するわけである。

 帝国教育会は一九四四年五月、定款を改正して大日本教育会と改称した。改正された定款は、文部大臣を名誉会長とし、会長、副会長は文部大臣が指名することとした。従来の地方各教育会は支部になり、ここに文部省(文部省官僚)の長年の悲願である全国の教育会を支配する目的は達成した。時の文部大臣岡部長景(1884〜1970年・学徒動員や学徒出陣を指揮、戦後は厚かましくも国立近代美術館長などを勤めた。朝日新聞社の社主村山長挙は実弟)は会長に永井柳太郎を、副会長に穂積重遠、菊池豊三郎を指名した。永井柳太郎(1881〜1944年)は三木内閣の時に文部大臣だった永井道雄の父親で雄弁家の政治家であった。大政翼賛会の幹部として大東亜戦争を推進した。穂積重遠(一八八三〜一九五一年)は民法学者。戦後、皇太子(現・天皇)の教育係となり最高裁判所判事を勤めた。菊池豊三郎(一八九二〜一九七一年)は戦時中、文部次官を勤め戦後は横浜市立大学長、日本教育テレビ取締役に就任した。余談だが、彼らの戦前戦後を考察すれば、日本の民主主義国家なるものがいかにでたらめなものであるかが判明する。
 大日本教育会は一九四六年に日本教育会と改称し、一九四八年八月五日に解散した。
 日本教育会解散後、教育塔の管理は日本教職員組合(日教組)が引き継いだ。
 この引き継ぎの経緯については、教育界全体が混乱していた時代(日教組が結成されたのは一九四七年六月である)のことであり、引き継ぎそのものを全面的に否定することはできない。あの状況下ではしかたがなかったのだ。
 しかし、日の丸・君が代闘争の日教組、教え子を再び戦場に送るまいと誓った日教組が、あろうことか教育祭を毎年一〇月三〇日に執行する伝統までを引き継いでいる。これはおかしい。
 このことは、当然日教組内部でも問題になつた。
 一九九〇年一〇月三〇日、朝日新聞(大阪版)は朝刊に、つぎのような記事を報道した。
(クリックで拡大)
 教育勅語のレリーフ撤去へ/大坂城公園の「教育塔」
 大阪城公園にある「教育塔」に飾られている教育勅語朗読シーンなど二枚のレリーフが、来年の「教育祭」までに姿を消すことになりそうだ。戦前の帝国教育会によって建てられ、殉職した教職員や生徒らの霊を祭る教育塔として、その前で毎年一〇月三〇日に日教組の主催で営まれる教育祭のあり方をめぐっては、日教組内部からも「軍国主義の名残」と強い批判の声が出ていた。
 今年の教育祭の前日の二九日に開かれた教育塔運営委員会の席上、来年に向けての取り組みとしてレリーフの撤去などを地元の大阪府教職員組合(大阪教組)が提案、日教組もこれを受け入れる方向で議していくことを約束した。「教え子を再び戦場に送るなと訴え続けてきた日教組が、皇国史観にも通じるレリーフをそのままにしてきたのは大きな問題」として、大阪教組はレリーフの跡に戦前の教育の過ちなどを明記することも提案していくという。(中略)
 問題のレリーフは塔の入り口の扉をはさんで計二枚あり、壁にはめこまれている。一枚は、校長が整列した子どもたちと教師を前に教育勅語とみられる文書を読みあげている場面。もう一枚は風雨の中、児童を背負って走る教師らが描かれている。陶板製で縦約3メートル、横約1メートル40センチ。新聞誌上で図案を募集、応募二七点の中から選ばれたという。
 日教組は戦後、祭りを神式から無宗教に変え、八六年には、「合祀」、「祭主」、「奉納音楽」などのことばを「合祭」、「主催者」、「追悼の音楽」にあらため、今年は献花中に流す音楽を、雅楽の「越天楽」からワグナーの「葬送の音楽」に変えて、神道色の打ち消しを図ってきた。
 しかし、レリーフは「歴史的な作品でもあり、これだけ大がかりなものを取りはずすのは大変」などの声もあって残されていた。また依然として教育勅語の記念日に祭りが行われることなどから、反発する教師も少なくなかった。
 大阪教組は、去年の連合結成による分裂後、教育塔の地元での維持管理を引き継ぐことになつたが、今年五月の支部の定期大会などでレリーフの撤去、祭りの日の変更などを求める提案が相次いだため、教育祭りのあり方について討議を重ねてきた。
●日教組の吉田哲男・総務部長の話
 レリーフはおかしい、撤去したいという意見は以前からあった。確かに今の時代の流れからみて疑問な点は多い。遺族の方々の意見も聞き、時代に合った祭りのあり方を検討したい。
 しかし、日教組の対応は甘いもので「教育塔の成立そのものは、教育に携わって不遇の死にあった人たちを慰霊するものとして純粋であった。それが時代の流れとともに変化したのであるから……」といった意見や「一〇月三〇日は実質的な遺族の命日となつているから、今更変更できない」とか、「合祀されている人たちは直接侵略戦争に関わつた人たちではないから」といった理論が、公然とささやかれているのである(一九九五年八月八日MBS戦後50年番組「教育塔と日教組」より)。
 すでにのべたとおり、建立のはじめから、教育塔の精神は教育勅語にむしばまれていたのである。時代の流れとともに変化したのではなく、したがって純粋ではない。それは、第一回の教育祭で全国教育者代表として挨拶した東京文理科大学学長森岡常蔵が「……純潔なる白亜を以て築かれた此の百尺の教育塔こそは国事にたおれたる武人を祀れる靖国神社に比すべき程の尊き意義を有するもの…」云々とあることからも明瞭だろう。
 教育塔は、教育界の靖国神社として大阪城大手前広場の端に、宇宙ロケット時代の現在も天空に聳えて建っている。物議をかもしたレリーフも、そのままである。
 いろいろな理屈をつけて問題の本質を曖昧にし、そのまま現状放置してしまう風潮は、宮崎県の八紘一字の塔(戦後、平和台公園と改称した公園内にある)や広島市の鷹の記念碑(南区皆実町・日清戦争の勝利の記念碑)が平和の塔に、詩人の金子光晴のように戦争翼賛の作品を加筆削除して反戦詩にしてしまったり、この国の官民共通の現象である。無責任な文化が花盛りで横行しているのだ。
 私が教育塔を訪ねた時は、その前で諸君たちと同じ世代の若いカップルが腕を組んで眺めていた。
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