学生諸君へ
第10回 少国民の殉職をめぐって

 今回から教育塔に登場した石出少年にまつわる史実についてのべよう。



 一九四二(昭17)年四月十八日 土曜日。
 夜明けの太平洋上を、波しぶきをあげて西進する機動部隊があった。ハルゼー海軍少将の指揮するアメリカ海軍第十六機動部隊である。機動部隊ほ、空母ホーネット、空母エンタープライズ、重巡洋艦四隻、駆逐艦七隻、油槽船二隻で編成されていた。
 空母ホーネットの艦上には、九〇〇キロの爆弾を抱え、離陸距離一五二メートル、航続距離三、二二〇キロメートルの性能をもつものとして、特に選ばれたノースアメリカンB25B型の陸軍中型爆撃機十六機が並んでいる。
 ドゥリットル中佐の指揮する爆撃機隊で、同編隊ほ、日本本土へ四〇〇マイル(約六四四キロメートル・東海道新幹線で東京〜姫路間)のところまで近づいた空母ホーネットから飛び立ち、東京、横浜、大阪、神戸、名古屋を、空襲する命令を受けていた。
 出撃予定日は四月十八日の夕刻である。離艦した各爆撃機は、目標都市に夜間爆撃をした後、海上に避退し、そのまま飛行を続けて、夜明けとともに中国(支那)の飛行場へ着陸する計画であった。
 ハルゼー少将とドゥリットル中佐が心配していたのは、予想される日本海軍の洋上哨戒の目をくぐりぬけて、どこまで日本本土に接近できるだろうか、ということである。爆撃機の航続距離が限定されていたから、日本本土に接近すればするほど作戦成功の可能性が高くなるのである。
 機動部隊は、明けきった洋上を全速力で進んでいった。ぼつぼつ日本軍監視網の海域である。
 エンタープライズから飛び立った哨戒機が、前進方向の水平線すれすれに偵察飛行の旋回をしていた。

 日米開戦とともに、日本は空襲を予想して防空対策をしていた。
 周知のとおり、日本の東方海域には、軍の基地として利用できる島嶼が、一つもない。当時必要とされた作戦上の哨戒線は、本土東方約600マイル(約九七〇キロメートル・東海道新幹線で東京〜徳山間)であった。それは本土沿岸の基地から飛行機を飛ばせて哨戒することが、不可能な距離である。当時の日本にはそれ以上の航続距離を持つ飛行機がなかった。
 そこで日本軍令部作戦課では、遠洋漁業の民間漁船を徴傭して、本土東方七〇〇マイルの南北線上を、海上哨戒することにした。この任務に従事していたのは、日本海軍第二十二戦隊で、海軍中将堀内茂礼が指揮した。戦隊名を、日本海軍洋上哨戒部隊といい、第一哨戒隊(隊長艦栗田丸以下特設監視艇二十五隻)、第二哨戒隊(隊長艦浅香丸以下特設監視艇二十四隻)、第三哨戒隊(隊長艦赤城丸以下特設監視艇二十八隻)という編成である。

 四月十七日午後24時、第二哨戒隊所属の第23日東丸は、哨戒任務を第三哨戒隊と交替した。同船は昭和十年十月、近海底曳漁船として製造された日東漁業の九〇トンの鰹漁船である。任務を終了した日東丸は、釧路をめざして夜間航行していた。
 四月十八日の日の出は、四時四分。天候は半晴で北西の風(風速十五メートル)で波が高い。視界は9000メートルである。
 六時三〇分、日東丸の乗員は、東方の空に爆音を聞き、敵飛行幾二機と飛行艇三機が、南西に向かって飛行しているのを発見した。続いて、航空母艦を含む大艦隊を見る……。北緯三十六度東経一五二度十分の洋上であった。
「敵飛行機二機見ユ 敵飛行機三機見ユ 針路南西」「敵空母三隻見ユ 北緯三十六度東経一五二……」と緊急電報が、日東丸から軍司令部に打電された。
 既述したとおり、アメリカの第十六機動部隊は、航空母艦二隻で編成していた。日東丸の緊急報告が、「空母三隻」としたのは、重巡洋艦一隻を空母と誤認したためだろう、と今では推察されている。
 この時、日東丸が打電した緊急報告は、六通とも、五通ともいわれているが、敗戦時に記録が破棄されたから、現在正確なことは判明しない。同船は、最初に敵機を発見してから三十分間ほど、哨戒を続け消息を絶った。巡洋艦と哨戒機の攻撃を受け、沈没したのである。アメリカの資料によると、同船は、七時二分に撃沈されている。乗員十四名(軍人九、軍属五)は全員死亡した。
 日東丸に発見されたアメリカ機動部隊は、夜間の日本本土奇襲攻撃が、もはや不可能である、と考え当初の作戦を変更し、七時二十五分、爆撃機隊を発進する。八時二十四分、最後の十六番機が、日本本土をめざして離艦すると、機動部隊は艦首を急回転して帰途についた。丸くなって逃走したわけだ。
 十二時三〇分、北緯三十六度東経一五五度付近で、逃走中の機動部隊は、第三哨戒隊所属の監視艇長渡丸に遭遇、これを撃沈する。同艇の生存者五名は、アメリカ軍に捕らえられた。
 一二三〇ころ艦載機三機を発見し、六ないし七回の銃爆撃を受けたが命中弾はなく、わが方は小銃二挺をもって応戦した。五分ぐらいして西方に檣を発見、続いて空母を含む七隻ぐらいが見えてきた。艇長は「逃げても無駄だ」と言い敵の方に突っ込んで行った。その後も連続銃爆撃を受けて、電報を発信後機械室に爆弾が命中、浸水して航行不能となったので艇長は重要書類の処分を命じ、一括して錘をつけて海中に投棄した。
 私は羅針甲板(艦橋の上の甲板)で見張りに従事していたところ、巡洋艦からの砲弾が檣に命中し(炸烈しなかったものと思う)一時気を失い、気がついてみると檣も羅針儀もなかった。艦橋に降りると艇長ほか一名が機銃弾により戦死しており、後部兵員室に生存者がおり二名は自決していた。
 生存者五名が甲板に上がった時艇は沈没し、五名は米艦に収容された。
(『北東方面海軍作戦』防衛庁戦史室)
 ホーネットから飛び立った十六磯の爆撃機は、編隊を組まないで、それぞれ単独に低空飛行を続けながら、日本本土に迫っていた。
 十八日、十二時十分頃、銚子防空監視隊本部に所属の旭防空監視哨(所在地千葉県旭市)の立哨台にいた幸島政吉、福原勤の両名は、東方の空にドス黒い双発の飛行機を発見した。電柱スレスレのところを爆音をたてて飛来する飛行機の翼に、アメリカ軍の標識がついている。続いて同型の別の一機が、東方の台地上に出現した。
 すぐ、防空本部へ敵機来襲の報告をし、市街を見渡すと、建設中の香取航空基地の宿舎から黒煙があがっている。後刻、判明したのであるが、焼夷弾が投下されたのだ。
 この時のことを記録した本がある。その一部を、つぎに転載しょう。同書は、戦時下の本土防空監視隊の記録として、貴重なものである。
 旭哨の「敵機発見」の報告を受けた銚子本部の受信者は、文字通り、飛び上って驚いたのは言うまでもない。
「責任者を電話口に出せ」
との催促に、幸島副哨長が通信員に代って電話口に出ると、
「本当に敵機か」
との詰問であった。これに対し、
「いい加減な報告ではなく、アメリカのマークをつけていたのは私も現認し、決して間違いではない」
と返答した。
 しかし、この返答について、銚子本部は納得できなかったようであった。
 同時にまた、私達旭哨内も大騒ぎとなった。控の哨員も立哨台にかけ上って釆て、
「どんな飛行機であったのか?」
「本当に敵機であったのか?」
との質問責めであった。
「飯岡の土手(註・現「海上町」の平野部に、馬の背の様な形をした十米位の台地−引用者)スレスレに、ドス黒い色(註・実際には濃緑色・引用者)をしてアメリカのマークをつけた双発機が、一機ずつ西に向って飛んで行った。超低空だから敵機の操縦士までよく見えた位だ。決して間違いではない」と繰返し説明した。
 勿論、敵機を発見した私達哨員は、極度の緊張と驚きから、このように筋立った説明であったかどうか、よく憶えていない。
 ところが意外にも、私達旭哨の「敵機発見の報告」に念を押した程の、銚子監視隊本部が、どうして間違ったのか、それとも間違いを承知であったのか不詳ではあるが、上部の東部軍司令部に対して、「味方機の発見」として報告して終ったと言うことである。  
(『旭防空監視囁の記銘』福原勤著・自家版)

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