学生諸君へ
第12回 少国民の殉職をめぐって

2

 本土初空襲の際に、爆撃機の機銃掃射によって葛飾区水元国民学校高等科一年生の石出巳之助(14)が死亡した。
 当時の新聞が発表した、その記事はつぎのようなものである。
鬼畜の敵、校庭を掃射/避難中の学童一名は死亡
 十八日帝都に来襲した敵一機が午後1時10分ごろ○○国民学校上空に現れ、帰宅途中のいたいけな学童に向ひ機銃掃射を加へつひに一名を死亡せしめた事実は、人道上無視すべからざる行為として人々を心から憤激させてゐる。この時刻同校高等科一年児童四十余名は教室の掃除を終へ、まさに校門を出て帰宅の途上にあつたが、猛スピードで敵機が同校上空に向つて迫ると見るや職員一同は手分けして児童を誘導、待避させた。このとき石部巳之助(一四)も校門附近から急いでとつて返しまさに自分の教室に入らんとした刹那、五十メートルの低空に舞下りた敵機は矢庭に十数発の機銃掃射を校庭に向つて加へ、うち一弾は廊下のガラス窓を射ち抜いて同君の右腰に命中、同二時訓導たちに抱かれつつ息を引取つたものである。右につき市川同校長は語る。犠牲となつた石部君の遺族に対しては心からお気の毒に思ひます。それにしても無心の児童に攻撃を加へる敵の悪辣な行為に対しては憤激やる方なく、このうへはただ米英撃滅に一路邁進を誓はざるを得ません              (『朝日新聞』昭17・4・19)
 学童名や校長名が間違っている。それが意図的なことかどうかは不明だが、被害についての第一報である。
恨深し、学童告別式
 十八日午後、非道の敵機機銃掃射によつて犠牲となつた帝都東北部○○国民学校高等科一年生石出巳之助君(一四)の告別式は、十九日正午から自宅で執り行はれたが、同校では日を改めて同君の葬儀を校葬として行ふことになつてゐる。
                       (『同』昭17・4・20)
 空襲の被害発表や、具体的な被害地名・施設名は、既述したような報道規制によっておさえられていたから、ごらんのように、学校名が伏せられていて、当時は、その国民学校が東京の何処にある学校なのか、新聞の読者には不明であった。
 戦後に、同少年について触れている記録にも、この時の情報管制の影響でか、「この○○国民学校は、現在の山吹小学校のことで、新宿区山吹町にある」などと、誤記しているものがある。『近代子ども史年表』(2002.4)も、川崎の児童などと誤って記録している。
 右腰上背部に銃弾を受け、出血多量で死亡した葛飾の石出少年より、約二時間ほど前の午後0時20分頃、焼夷弾の直撃で即死した中学生があった。早稲田中学校四年生の小島茂である。この中学生の死は、当時、詳細な発表を禁止された。それで石出少年の死を、「東京空襲の犠牲者第一号」としている誤った記録がある。警視庁『空襲災害状況』によると、この時の都内の死者は三十九人、重傷者七十三人、軽傷者二百三十四人とある。誰が第一号の犠牲者であったか、などといった推測は、実際には不可能であろう。
 中学生小島茂の死が公表されたのは、一年後の四月である。
仇は僕らの手で/学友が綴った『誓ひの記』
 忘れてなるものか、四月十八日。東京が空襲をうけてから、早くも一年になりました。そのときアメリカ機は非人道にも学校と知りながら、数十発の焼夷弾を○○中学目がけて投下しました。「空襲だ」と受持の場所に駈けだした小島茂君は、そのとき不幸にも敵の一弾に左の肩をうたれて死にました。親しい茂君を奪はれたお友だちは「きつと仇は僕らの力で討ちませう」と決心しました。そのお友だちの一人である岩城謙二君(17)は、くやしさのあまり、何が人道だ、米英が言つてゐる人道は学校を空襲して学生を即死させたり、病院船を攻撃したりするものなのだ。かれらは人間でない、人の皮を着たけだものだ。小島君、見てゐてくれ。きつときつと君の仇をこの僕らが討つてみせるぞ。こんなことを来る日も来る日も書いて受持の橋本先生にお見せしてゐました。このごろ学校では小島君の殉難の記録をつくることになり、このお仕事を岩城君が受け持つことになりました。また空襲のかなしい経験から、全生徒は自発的に金を出して大型ポンプを買ひ、また学校でも防火プールを新しくつくりました。こんなできごとをみんな岩城君が書き「戦ふ教室」として慰霊祭には茂君の霊前に捧げることになりました。                  (『少国民新聞』昭18・4・20)

 暴戻なる米機の盲爆をうけてから一年目の十八日、罷災関係団体では、それぞれ追悼会、防空訓練、講演会などを行ひ、試練に燃え立つ敵愾心を爆発させたが、学友小島茂君(当時4年生)を焼夷弾の直撃で失った○○中学校では、当時5年生だつた今春の卒業生たちが、この日を記念して毎年母校に集まることを申し合わせ、学校当局でも「全生徒奮起の日」とし、その第一回野集いが同日行われた。正午教職員、生徒、新卒業生が校庭に整列、午後零時二十三分を期して全員脱帽、深く首を垂れて故小島君の霊に黙祷を捧げ強く網膜に焼き付けられたあの日あの時を追想して奮起を誓つた。堤校長は黙祷の前後にわたって訓辞を行ひ、「4月18日を忘れるな」を合言葉に邁進せん──と呼びかけ、のち故小島君の遺作の作文「勤労奉仕に行きて」を朗読終つて生徒代表は来向寺で営まれた法要に参列し他は新編成による特設防護団の地域別に隊伍を組んで徒歩で帰途についた。             (『朝日新聞』昭18・4・19)
 『戦ふ教皇』(昭18・4、同年10再版・時代社)は、校長堤秀夫が序文を、作文担任教師橋本勇が後記を、それぞれ書き寄せている二五〇頁の本である。同書から空襲直後の校庭をスケッチした部分を引用しょう。
 ……何といふたくさんの焼夷弾であらうか。校庭に燃えがらが山と積んである。約二十糎位の六角柱である。(余談になるが、私も一発の焼夷弾を所持している。手入れもしないで放置してあるが、腐蝕していない。「空席」の怨念であろう──引用者)ああこれが敵の焼夷弾なのだ。これがアメリカ人の手に製造され、アメリカ人の意思の下に、アメリカ人の手によつて、我々に向つて投ぜられた敵弾なのだ。これが空から降つて釆たのだ。そして、その一弾は友を傷つけたのだ。さう考へる時、私は本当に、痛切に戦争を感じた。畜生、この燃えがらの山をふみにじつてやりたくなつた。
 そしてこんな沢山の焼夷弾にも火事ーつ出さずに済んだのは日頃の訓練のお蔭だ、と思ひ、「準備あれば恐れなし」の意味の尊さがはつきりわかつた。
 そのうちに、全員校門の左右に整列せよとの命令が下つた。どうしたのだらうと考へながら整列した我々は、さつき倒れた生徒は、四年の小島茂君であり、肩に直撃弾を受けて即死したと言ふことを、始めて知つたのである。
 あゝ本当なのか。私は本当に呆然として夢の様にしか、考へられなかつた。さつきまで、我々と共に校庭にあつた人々の中に小島茂君が居たのだ。働いてゐたのだ。そして一瞬にして敵弾はその尊き生命を奪ひ去つたのだ。
 早稲田中学校(現・早稲田高校──新宿区馬場下町24)では、四月二十一日、同校講堂で、小島君の報国団葬を挙行した。同級生は、つぎのような弔詞をささげた。
 昭和十七年四月十八日は、僕達にとつて何といふ不幸な日であつたことか。その日朝礼の時、校長先生から思ひがけなくも石村先生御逝去の悲報を聞き、その涙のいまだ乾かぬ間に、今の今まで共に学び共に語つてゐた君と永久に別れねばならなくなつた。僕等は一生の友を失つたのである。殊に君は既に将来への志望を定めて居り、それへ向つて着々と準備を始めて居た。君の事だから必ずその大志を成就して遠からず名を成す日も来たであらうに。それを思ふとあの敵機が憎くなる。あの一弾が恨めしい。この憎しみ、この恨を、僕達は一生忘れる事は出来ない。今に見ろ。小島の恨みは必ず僕達の手で晴らして見せる……
 中学生の死んだ校庭には、殉難碑が建立された。アメリカへの憎悪を昂揚させるシンボルとして。
 現在、同校には、その碑がない。教職員にたずねても、撤去された経緯は不明である。
 これらのことから明らかになる点は、軍部が中学生の死を公表して、戦争推進のエネルギー強化の方向へと利用したことだろう。
 初空襲に、なすすべもなく、機動艦隊はおろか一機の爆撃機さえ撃墜することが出来ないで、面目丸つぷれの防空軍当局が、その狼狽ぶりを隠蔽するための苦肉の手段であったのだ。
 このことは、当時公表を許可された(といっても、学校名などは伏せられていたが)石出少年において、とりわけ顕著である。
 少年は、十月三十日の学制七十年記念日に「教育塔」へ祀られ、以後四月十八日がめぐって来るたびに、その死を鬼畜米英の犠牲シンボルとして指導者たちは持ち出した。シンボルどころか、少国民を戦争参加に督励する出汁にされた。その意味では、二重の悲劇性をもつ、不幸な少年であった。
 この「教育塔」の礼排を提唱している文が、『国民教育・高二』(昭17・10)にある。「教育塔」の説明になるので、同誌から抄出しておく。筆者は同誌編集長である。
十月三十日教育塔礼拝の提議                 曽根松太郎
 客臘米英打倒の大詔を拝して以来、海に陸に空に赫々たる戦果が挙げられ、今や我が国は、大東亜建設の大業に邁進しつつあるのであるが、この戦争に勝ち抜き、この大業を完遂するには、今後なほ相当の歳月を要する……(略)
 大阪城公園大手前広場に、百尺に余る白亜の教育塔が高く聳え、芳魂千歳に薫り、行人をして粛然襟を正さしめてをる。これは、帝国教育会が、殉職教員の霊を祀り永く之を表彰すると共に、将米斯道に殉ずる人々をも合祀し、又、遭難児童の霊をも慰め、延いてその壮烈なる気迫を敬仰し、普く教育者の抱懐せる教育報国の大精神を顕彰せんとの目的を以て、昭和十一年に建設したものである。当時その事の天聴に達するや、金一封御下賜の恩命に浴した事は、聖恩洪大、洵に恐懼に堪へぬ次第で、此の感汲は、全国教育者の間に永久に伝へらるべきものである。/教育塔には、学制頒布以来の殉職教員二百四柱、遭難児童一千九百五十九柱が祀られ、我が国唯一の教育招魂社とも弥すべきもので、毎年十月三十日にその教育祭が執行されてをる。
 文部省発行の師範学校終身巻一には、この教育塔について尊き師道が説かれてをり、亦国定新教科書初等科国語四の巻にも、教育塔の事が掲載せられてをる。いづれも師魂の涵養に資する事がすくなくない事と思はれるのである。……(以下略)
 石出少年の通学していた水元国民学校では、一周忌の四月十八日、陸軍少将桜井忠温を招待して、盛大な追悼会を執行した。
 桜井忠温(1879〜1965)はベストセラー『肉弾』の著者で軍人文筆家である。その活躍ぶりを世間では「剣と口と筆」の陸軍軍人といった。以下次号

[バックナンバー]


本サイト内の文章の著作権は櫻本富雄に帰属します。
文章・図版の無断使用を禁じます。
Copyright(C) 2001 Tomio Sakuramoto All rights Reserved.