学生諸君へ
第14回 少国民の殉職

 石出少年の死が、当時少国民と呼称されていた少年少女たちに、どのような影響を与えたか。
 それを知る意味から、つぎに『少國民新聞』(毎日新聞社が発行していた新聞で「東日版」「西部版」とある)を再読しよう。
仇は討つぞ/敵の機銃に散つた友よ/見よ、日本少年の意気
 卑怯なアメリカ機は民家や学校、病院等に損害を与えました。その尊い犠牲となって、東京市○○国民学校高等科一年生石出巳之助君が亡くなりました。この日石出君はお友達と一しょに、学校帰りで田圃道を歩いていました。この時空襲警報と共に、北方から現れた敵機から、真黒い物が落ちて来ました。みんなは素早く田圃の中に伏せをしましたが、間もなく敵機が見えなくなつたので、日頃の先生のお教え通り、大急ぎで学校へ引返し、教室へ避難しました。あと二、三歩で教室へ入らうとする所で、憎い敵弾が石出君の右腰に命中しました。先生がたが、すぐ近くの会社に運んで、手当をしましたが、遂に石出君は亡くなりました。この日戦地から帰えられた、懐かしい春吉兄さんの顔も見ずに……「僕達はくやしいんだ。はっきり見えたあの米空軍の印を、一生忘れないぞ。僕達は皆で、巳之助君の仇をきっと取ってやると約束した。なあに、あんな空襲なんかこわいものか。」石出君の学友、中台孫蔵君は、校舎の弾痕をにらみつけて、こう勇ましく話しました。    (『少國民新聞』昭17・4・21)
 石出君の級友谷沢信造君や清水利男君は、葬儀の際につぎのような弔辞(要旨)をささげた。
…巳之ちやん、いくら呼んでも石出君はもうこの世にはいないのだ。この日石出君は四年振りでめでたく帰還される春吉兄さん(註・満州からの帰還。後にフィリピンのミンダナオ島で戦病死。行年28歳、陸軍伍長)と会える楽しい日でありました。お父様やお母さまは学校を早退して来るようにといっておられました。しかし責任感の深い真面目な石出君は黙々として第四時の農業実習の開墾作業にも組長として最後まで畠を耕していました。そうして農具のあと始末をし掃除まですませて家路につきましたが、空襲警報のサイレンが聞こえたので急いで学校へ避難し、廊下から教室へはいろうとするところで倒れました。……ああ石出君の死、その日は残念に、悲しくも思いましたが、決して君の死は犬死ではないのです。君のため全国一億の国民をはじめ少国民が皆一度に奮い立って憎いアメリカを、また東亜を騒がすイギリスなどをやっつけて大東亜共栄圏を確立させようとしている。石出君よ、僕等をはじめ全国の少国民が皆大きくなったら少年飛行兵に、少年戦車兵に、あるいは特別攻撃隊のような忠勇義烈な帝国軍人となってこのうらみを晴らしてやる。……
 当時の少国民の、模範的弔辞である。弔辞にある特別攻撃隊は真珠湾を襲撃したといわれている特殊潜水艦の隊員のこと。戦争末期の体当たり自殺攻撃隊ではない。
 君たちには信じられないだろうが、この弔辞にのべられていることは、当時の少国民たちの本音である。もちろん、この弔辞には教師や父母のかなりの補筆があったろうが、本音のところは真実である。葛飾区の水元は水田地帯であり、そんな地域にあった学校だから、父兄の職業は農業ばかりである。したがって、学校を卒業すれば、家事に従事するのが普通のスタイルであったのに、この空襲事件の後は少年兵志願者や陸・海軍の工廠へ応募する少年たちが増加した。政府の音頭取りで、鬼畜米機の4月18日キャンペーンに踊ったジャーナリストやマスコミの責任は計り知れない。
 空襲被害の発表や、その具体的な場所などは、すでにのべたように、厳重な報道規制によっておさえられていた。しかし、本稿を書くにあたって、当時の『少國民新聞』を再読したところ、石出君の所属学校が判明するような記事が、昭和十七年五月二十一日の紙面で、発表されていたことに気づいた。
 毎日新聞社(当時は東京日日新聞社、大阪毎日新聞社と、関東・関西で社名がちがっている)が、防衛司令部と共催で一般募集した歌に「空襲なんぞ恐るペき」がある。  
♪空襲なんぞ恐るべき  難波三十四・飯田信夫
   空襲なんぞ恐るべき
   護る大空鉄の陣
   老いも若きも今ぞ立つ
   栄ある国土防衛の
   誉れをわれら担いたり
   来たらば来たれ敵機いざ  (以下略)
 本土を奇襲攻撃され、しかもその攻撃機を一機も撃墜出来なかったことに周章狼狽した当局は、九機撃墜のでたらめや、被害の小であったことを宣伝し、逆に少国民への機銃掃射を持ち出して、米軍の残虐性を吹聴したのであった。
 ここで、ついでにのべておこう。
 水元国民学校は、木造二階建ての校舎で、確認したのではないが、立哨台があったらしい。屋上に設けた例の櫓組みのものである。しかも生徒たちの服装は、国防色の制服で統一されている。当時の少国民の一般的な服装は、さらに巻脚半(ゲートル)をつけ、戦闘帽をかぶつていた。飛行士が、兵舎と誤認すろ可能性は、十分あった。アメリカ側の資料を見ると、この時の攻撃機は隊長機であったようだ。
 さて、少国民新開社では、そんな当局の要請を受けて、昭和十七年五月二十日、「空襲なんぞ恐るべき」の合唱大会を全市二十一の国民学校で一斉に開催した。合唱団は、武蔵野音楽学校報国隊の生徒である。
 この合唱大会は、翌二十一日には二十三校で行われ、AK(現NHK)では、その模様を二十五日午後六時からの「少國民の時間」で全国放送した。
 その合唱大会の記事中に、つぎのような所がある。
前線まで響け/頼もしい心意気/高らかに歌う少国民
 なまくら弾の敵の空襲なんぞ、吹き飛ばせとばかり、帝都少国民の意気をもえ上らせる少国民新聞主催の「空襲なんぞ恐るべき」の合唱大会は二十日の第一日、全市二十一校で一斉に開かれました……特に葛飾区水元校には、四十五名の演奏隊(註・他校は二十名──引用者)が出場されました。午後二時国民儀礼の後、杉田校長先生の御挨拶、わが社の金子事業部長のお話についで、いよいよ大合唱が始まったのです。……少国民の元気さは、本当に天をつくばかり、歌の通り「空襲なんぞ恐るべき」の意気を見せてくれました。あまりの元気さに、来ていられた東京市の視学中野義見が、最後に立ってみんなをおほめになりました。
 石出少年の一周忌が近くなった三月七日の紙面に、高等科を卒業する先輩たちのことが、つぎのように紹介されている。この時はもう所在地などが公表許可になっていた。
石出君の仇討/近づく米機来襲日を思い起こして/お友達が固い誓い
昨年四月十八日、小癪にも帝都を襲った米機の、無道な機銃掃射をうけて散った気の毒な石出巳之助君のことは、皆さんもよく覚えていることでしょう。巳之助君の学友たちはあの時の口惜しさを思うと、いても立ってもいられない程で、みんな「石出君、待ってくれ給え。きつときつとこの仇は討ってやるから……。」と、巳之助君の霊に誓っておりましたが、いよいよこの誓いを実現する時が来ました。この三月高等科を卒業するお友達は、ぞくぞくと陸軍航空工廠や海軍航空技術廠、その他航空機関係の工場へ就職し「必ず立派な飛行機を作って、憎いアメリカの飛行機を皆叩き落してやるのだ。」と、勇み立って居ります。そして二月二十一日の日曜日には、皆で葛飾区水元猿町大場川櫻堤のほとりにある、法林寺の一隅の巳之助君のお墓に詣で、「巳之助君、僕達は願い通り工場へ入れる事になつた。いよいよ君との約束を果たすことが出来るぞ。喜んでくれ給え。」と、報告しました。……(「少国民斬刑」昭18・3・7)
 この記事は、二月二十二日の「毎日新聞」夕刊に、四段抜きの「米機の横銃に散った石出巳之助君の墓に詣でる学友たち」とある写真とともに再報道されている。
 前記『少國民新聞』には、この夕刊記事に感激して綴った茨城県の少年の誓文も、紹介されている。少年たちを、戦争へと動員する動きが、石出君の母校だけのことでない事例として、その誓文を転載しょう。
君は僕達の守り神     茨城県古河校高二 亀田昭二
 昭和十七年四月十八日! ああ、この日こそ、日本国民として、永遠に忘るべからざる日である。当時を追想すると、僕達少国民の血が逆流するのを感じ、身震いがする。憤怒への身震いである。戦争発端の時、既に僕達は、敵機来襲不可避を知って、万全を期して居た。口に正義人道を唱える「迷利犬野郎」が、非戦闘員たる、民衆、生徒に機銃掃射を行い、かつ標識があったにかかわらず、学校や病院等に被害を与え、しかも平然として憚らぬ……(以下略)
 一周忌の四月十八日、水元国民学校で追悼会が催されたことは、既にのべた。当日の『少國民新聞』は、またも石出君の墓前で慰霊文を読む少年少女たちの四段抜き写真を掲載し、さらに、わざわざ墓参りに来た○○区○○校六年生の級長岸勝也君のことや、大阪府高槻市の鐘紡工場で働く一女性から、石出君の御霊前へ、と届けられた二円二十銭のお金のことなどを報道した。
 水元国民学校の追悼会の主賓客、桜井少将の追悼講演は、「熱誠あふるるもので、会同の青少年学童たちの決意を一層かためた」と、当時の資料にある。

 当時の文化人たちは、中学生や少年の死を、どのように考えたのだろうか。次回では、それらについてのべよう。


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