学生諸君へ
美術史のタブー

 この欄は、受講学生を念頭に書き込んでいる。
 先日、受講生でない学生からのメールがあり、そうだった! 受講生以外の学生諸君も存在するのだ、しまった! と思った。
 基本的には受講生が対象だが、今後は、そのことに拘らないように心がけよう。私の専攻は戦時期の日本文化史。大学での講義では「視聴覚教育メディア論」の名称である。
 で、受講生は理解されているだろうが、私の講義は、戦時期の視聴覚メディアをとおして、マスメディアの特性を考察する内容である。
 戦時期のメディアと一口にいっても、その様態はさまざまである。放送、映画、マンガ、写真、絵画、新聞……。一年間の講義で、それらのすべてを語ることなど不可能である。したがって、年度によって力点を置くテーマーをしぼる。
 戦時期の日本文化を語ることは、さまざまなタブーにふれることである。学生諸君にとっては、多くのことが、初めて見聞することばかりだろう。
 本年は、美術史のタブーとして、いわゆる「戦争画」をとりあげた。そうしたら、まったく偶然に、大学のちかくの「中村研一記念美術館」(小金井市中町1-11-13)で、中村の戦争画を特別展示するという幸運にぶつかった。視聴覚教育に関心のある人には周知のことだが、実物を見学することは、最高の学習である。しかも、つい最近まで、実物の戦争画を見ることなどは不可能だった。
 敗戦後、アメリカによって接収された戦争画は、上野の都立美術館に留置されていた。そのうちに持ち出され、長い間所在不明になり、日本人からも忘れられた。しかし、忘れない人も何人かいた。私もその中の一人で、せっせと戦時中に発行された戦争画集を集めていた。ところが上には上があるもので、行方不明の戦争画そのものを、執拗に探している人がいたのである。そして1966年、一人のジャーナリストによって、アメリカにあることが判明、1970年に153点の戦争画が日本に帰国した。帰国などと妙な表現をしたのは、日本に返還されたのではなく、「永久貸与」されたといわれているからだ。帰国するに際しての日米両国で取り交わした約束が、どのような内容なのか実際に調べたわけではないから判らないが、もし事実だとすると、アメリカは今なお、日本の文化遺産を略奪していることになる。そんなバカな話はないから、もし事実なら堂々と返還を要求しないといけない。
 私はへそ曲がりだから、「永久貸与」とは日本の官僚が、戦争画を公開しない口実のために考えたずるい言い訳だと思っている。実際に、帰国したまま「永久貸与」の絵画だからと公開されないで、東京国立近代美術館に秘蔵されていたのである。それが、最近、すこしづつ同館で公開されるようになった。少しづつ、と書いたのは、気まぐれに(不定期に)何点かが展示されるからだ。しかも何が展示されているのかは、行ってみなければ判らない。行ってみなければ展示されているかも判らない。まったく官僚的な姿勢である。

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 同館のホームページにアクセスすれば、それらの戦争画153点の目録が見られる。この153点は氷山の一角で、実際に制作された戦争画はもっとあった。戦争翼賛の証拠隠滅のためあらかた処分されてしまったのである。それは、私が蒐集した当時の美術展の目録を見ても明らかである。例えば「聖戦美術展」である。これは第一回1939年、第二回1941年と二回に渡って開催された。この第二回目の目録を見ると215点の戦争画が出品されている。帝国芸術院賞を授与された小磯良平の「娘子関を征く」や藤田嗣治の「哈爾哈河畔之戦闘」などもこの時に展示された。また。「第一回大東亜戦争聖戦美術展」(1942)「第二回大東亜戦争聖戦美術展」(1943)などが有名だが、「大東亜戦争聖戦美術傑作展」といった展示会もあって、会場を全国的に移動して開催されていた。展示された点数は95点、総重量30トン、運搬にかけられた保険金は10万円だった。
 中村研一(この画家の経歴は各自で調べたらいい)の戦争画は東京国立近代美術館に9点所蔵されている。それらの中で有名なのは1942年に制作された「コタ・バル」である。発表時に朝日文化賞を受賞した。
「コタ・バル」は「朝日文化賞を与えられた戦争画の代表作の一つ。開戦と同時に上陸を敢行したマレー半島上陸作戦を題材にした戦争画です。兵士をアトリエの前の庭に呼んで何度もスケッチして絵に仕上げたそうです。何と言っても力感溢れる画面、筆致に渾身の力が漲っている。中村四十七歳、油が乗り切っている。荒々しいタッチと進攻するする兵士を敵側の視界から描いているところが迫真的な画面になっていると思います。中村にとっても全画業の中で代表作の一つに数えることが出来ると思います」
(菊畑茂久馬『絵かきが語る近代美術』)

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 アジア・太平洋戦争が、日本の奇襲攻撃で開始されたことは、もう知悉された事実である。だまし撃ちである。友人のような顔をして近づき、いきなり相手を殴り飛ばしたのだ。コタ・バル上陸作戦は、その奇襲攻撃の最初のもので、ハワイへの奇襲攻撃は、この一時間後のことであった。このへんのことは拙著『戦争はラジオにのって』(1985)でふれたから、詳説しない。
 以上にみたような知識があれば、中村記念館が戦争画を特別展示すると聞いて、まず脳裏にうかぶのは「コタ・バル」だろう。ところが展示されたのはたったの二点。それも「マレー沖海戦」と「北九州上空野辺軍曹機の体当たりB29二機を撃墜す」だった。私はがっくりしたが、はじめて戦争画を見た学生諸君はかなりのショックだったようだ。まず画面の大きさに圧倒されたらしい。戦争画はこんなものではありませんよ。是非、東京国立近代美術館へ行って他の戦争画を鑑賞するといい。何回も行かなければだめだが……。
 なお前記の『絵かきが語る近代美術』の一読をすすめる。講義の際に配布した藤田嗣治の戦争画「アッツ島玉砕」(このホームページにも掲載してある)にまつわるアッツ櫻(ヒメエゾコザクラとあるのは正式名で当時はアッツ櫻と言われていた)のことや藤田の署名が当初はなかったことなどは、同書で初めて知った。手元にある当時の画集で「アッツ島玉砕」を再見したら、たしかに署名はなかった。同書に引用されているいくつかの戦争画がすべてモノクロである点が惜しまれるが、平易に近代美術史の暗部を解説している良書である。ただし、その文中にある詩人秋山清にふれた部分は割引して読んだ方がいいだろう。吉本隆明が秋山を日本での「最も優れた抵抗詩人」と評していることを紹介しているが、彼は高山慶太郎のペンネームで翼賛図書を発表している。とてもじゃないが「最も優れた抵抗詩人」とは評価できない。これも拙著『探書遍歴』(1994)で既述した。
 本信で戦時歌謡を論じているが、戦争翼賛に動員された表現活動は、今日では、芸術的価値のないものが多い。しかし、絵や歌や映画には、ちょっと異なる面がある。視聴覚メディアの面白いところだ。
 アッツ島はアリューシャン列島の最西端に位置する東西約56キロメートル、南北約24キロメートルの小さなアメリカの島。そこを占拠した日本軍守備隊が、アメリカの反撃によって全滅したのは1943年5月のことだった。兵力は守備隊の1にたいしてアメリカ軍は8であった。八倍の敵を相手に守備隊は何度も本土に応援を頼むが、見捨てられ、最後は150人になって全滅したのである。このあたりのことも、拙著『玉砕と国葬』(1984)で述べているから再説しない。

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 アッツ島守備隊の全滅について語る絵巻物があるので紹介しよう。『絵巻アッツ島血戦』である。1944年7月に陸軍美術協会が発行した。陸軍省報道部が監修し著者名は藤田嗣治。藤田の「アッツ島玉砕」を巻頭に、鬼頭鍋三郎、向井潤吉、境保博、井上幸、川端実、高井貞二、笹岡了一、宮本三郎、有岡一郎、南政善、鈴木満、山本日子士良、井手宣通、三輪孝、榎倉省吾、関谷陽、松田文雄、高沢圭一、橋本徹郎、ら24点の絵が収録されている。表紙の絵が「アッツ櫻」である。藤田の序文を転載しておこう。
 序  陸軍美術協会理事長 藤田嗣治
 アッツ島守備の勇士たちが、北冥の空を尽忠の鮮血に彩ってからはや一年、怨恨骨髄に徹するその想い出の日も目前に迫っております。あの日の悲傷、あの当時の憤激、それを私たちは今猶忘れることが出来ません。恐らくこれは、憎みても余りある敵米英の息の根をこの手で完全に止めてやるまで、決して癒えることのない、癒える筈もない私たち一億の宿憤とも言うべきものでありましょう。このたび私たち陸軍美術協会の会員一同は、陸軍省報道部のご指示によりまして、山崎部隊アッツ島玉砕の絵巻を制作することになり、軍神山崎保代中将以下の果敢限りなき奮戦力闘のさまを画面に写すべく、切なる誓いを未熟な彩管に焚きしめました。死して北辺の守護神と化した二千数百勇士の英霊に対する私たちの抑えがたい思慕讃仰の念は、ここに恰好のはけ口を見出したと言うべく、私たちはただひたすらに絵筆を走らせました。もとより拙い、貧しい彩管には、凛烈万古に馨る軍神部隊の真骨頂の片鱗と雖も、容易に把握再現さるべしとも思われませんが、私たちのこの切なる想い、やみ難き決意が、いささかなりと画面に漂い、決戦下の一億同胞諸士なかんずく洋々万里の征途に出で立たんとする青少年諸兄の胸のうちに、何ものかを通わせ伝えるところありとすれば、私たちの幸い之に過ぎるものはありません。戦いは日と共に苛烈であります。皇軍の勇士たちは、北に南に何れ遅れず醜のみたてとなって奮い戦っております。山崎部隊の玉砕にひとしき壮烈極まりない激闘も随時各所に繰り返されておるのであります。この日、この刻、私たちもそれぞれの職域にあって、山崎部隊ありし日の奮闘ぶりをまざまざと想い起こし、これに続く不退転の決意をいよいよ新たにし、そうして、前線各地と相呼応して相共に宿敵撃滅のため奮起いたしましょう。

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